(1)レースが始まってすぐに、鈴鹿のメインスタンドが総立ちになった!
――第一回の日本グランプリでのスズキ・ワークスの闘いぶりを、織田信長による“桶狭間”の戦いに似たものだったと評されたリキさんですが、この種の戦略的な成功は、スズキ以外にも?
「ええ、もうひとつ、多くの人々を驚かせた闘いがありました。海外も含めて、世界をあっと言わせたという意味では、“桶狭間”というよりも、時代は変わりますが、ロシアのバルチック艦隊を破った“日本海海戦”に近かったかもしれません。前回に“黒船来航”的な国際スポーツカー・クラスに仰天した話をしましたが、同じスポーツカーでも、国内1300~2500ccクラスは、日本中を驚かせるものになりました」
「日本初の自動車レースで、そしてスポーツカーのクラスとなれば、当時なら誰でもが思い浮かべたクルマがあります。それが、MGでありトライアンフであり、また、オースチン・ヒーレーやポルシェでした。このクラスは、そうした憧れのスポーツカーが中心で行われる。そう思ったファンが多かったのです」
――このクラス、1300~2500ccというように、排気量の幅が異常に広いのも?
「ええ。みんなが知っている、そういうスポーツカーを、このレースで一堂に会させる。そんな意図も、主催者にあったのではないでしょうか」
――なるほど。
「実際に19台のエントリーがあって、そのうち、15台が外国車でした。国産車は、ニッサンのフェアレディ、プリンスのスカイライン・スポーツ、そしてニッサン・セドリックなど計4台。その当時のぼくはスポーツカーなど持てませんから、どのクルマがすごいのかもわかりませんでした。ただ、運動性能や馬力から見れば、やはりトライアンフが強いだろうというぐらいの噂は聞いていましたね」
――トライアンフは、TR-4もTR-3も出ています。排気量で見ると、レギュレーションでは2500ccまでとしつつも、実際はオーバー2000ccのクルマはなくて、1.5~2.0リッター車で争われるというのがエントリーの状況でした。
「ほとんどの人は、日本のフェアレディやスカイラインが参加していることを知ってはいても、それはまったく眼中になかったはずです。とくに“スカイライン・スポーツ”というクルマは、のちに勇名を馳せる(笑)あの“スカG”ではなく、単に名前とデザインがスポーティだったというだけですし」
――ミケロッティ・デザインでしたか、吊り目のヘッドライトで、優美な造型でした。でも、このクルマは“ケンカ”(レース)には向いてなさそうだったな(笑)。
「ニッサンにしてもね、正式名は『ダットサン・フェアレディSP310』で、国産初のスポーツカーという触れ込みも、本場スポーツカーのファンからは、冷ややかな目で見られていた存在にすぎません」
――ひとつ、今日の読者の方々に注意していただきたいのは、この頃(1963年)というのは、ニッサンとプリンスは別会社だったこと。プリンスのスカイラインとニッサンのフェアレディやセドリックは、バトルし合うライバル関係にありました。
「そうそう、『ニッサン・スカイライン』じゃないんだよね、まだ(笑)。それで、このフェアレディというのは、1959年に登場して好評だったブルーバード『310』のシャシーにセドリックの1500ccエンジンを搭載して、1962年に発売されたスポーツカーです。シートのアレンジがちょっと独特で、前席2人、後席は横向きの1人が乗れるという3シーターでした」
――ニッサンは、50年代の後半から海外ラリーなどでスポーツ活動をして?
「ええ、国内の四輪メーカーで、初めて海外の競技──1957年の『オーストラリア一周ラリー』に出場したのはトヨタでしたが、すぐに続いて、ニッサンも翌年の同じラリーに出場しました。後年、ニッサン・レーシングチームの監督になる難波靖治さんも、このときはドライバーの一人でクラス優勝しています。その意味では、日本のメーカーとしては早い時期から、スポーツカーの必要性を感じていたかもしれませんね」
予測を裏切る大活躍を演じたダットサン・フェアレディ。
「このスポーツカーのBーⅡクラスで、実際にレースに出てきたニッサンのフェアレディは、国内用の71馬力エンジンがチューンアップされて、90馬力になっていたといわれています。車高もペタッと下げられ、サスペンションもガチガチに固められていたのが印象的でした。こうしたチューンの内容を見ても、とてもアマチュア・レベルのクルマつくりではなかった」
――国際ラリーの経験から来たものなんかも入っていたんでしょうね。
「そう、たっぷりとね(笑)。そんなノウハウも入った、メーカーの息がかかったスペシャル・マシンであることが歴然でした。でも、あくまでも“和製”のスポーツカーですからね。そんなものじゃ……ということで、期待はされていなかったのです」
――田原選手が乗るフェアレディだけが、練習走行をするたびに“中身”がどんどん変わっていったという証言も?
「なるほどね。そうでないと、なかなか“ああいうクルマ”には出来上がらなかったと思います。スズキの“桶狭間”は、“スバル/今川”に手の内を見せないまま、本番で奇襲したという戦略でしたが、ニッサンのそれは、うーん、何だろうな? 状況に見合うように、着々と必要な“ウェポン”を整えていったということでは──」
――戦国時代でいえば、“関ヶ原”での東軍だったですかね?
「東軍って徳川よね? 難波さんは何て言うかな、案外、喜ばなかったりして(笑)。それはともかく、ぼくはあのグランプリの参加者でしたから、レースの二日間はサーキットの中、つまりパドックにいました。……で、はじめは、このレースにはまったく注目していなかったのです」
――はい?
「そうしたら、15周のレースがスタートして、その1周目。グランドスタンドが大きくざわめいた。それを聞いて、慌ててぼくはピットの屋上に駆け上がりました。なぜ、スタンドがそんな騒ぎになっていたかというと、フェアレディがトップでストレートに帰ってきたからです」
――おお!
「そしてそれは、1周目だけのことではありませんでした。その次の周も、そのまた次の周も、鈴鹿のメインスタンド前を首位で駆け抜けて行くのは、田原源一郎さんがドライブするフェアレディだった。そりゃあ大変な騒ぎでしたよ! まさか!まさか!ということが、目の前で起こっているのですから」
――そういえば、このレースのポールポジションはトライアンフです。そういう意外性もあっての“どよめき”だったでしょうね。
「ええ。しかし、周を重ねるごとに、2位以下のトライアンフTR-4や同じくTR-3、MG-Bなどは、フェアレディとの差を詰めるどころか、逆に、どんどん引き離されて行きました。外国車勢は慌てたんでしょうね、転覆するクルマやスピンしての衝突、またコースアウトして土手に突っ込んだりと、ひとつ間違えれば大事故になるような場面も多発しました」
――そのまま、“田原フェアレディ”が?
「そうです。結局、2位の矢島博さんがドライブするトライアンフTR-4に6秒もの差をつけて、田原さんが優勝しました。その結果に、観客席は総立ちでしたね。それはたぶん、“ニッポンを見た!”というような感動と興奮だったのではないでしょうか」
――1963年時点であれば、まだまだ外国車の絶対優位という時代だったでしょうからね。“関ヶ原”から、いきなり“日本海海戦”にワープした感じもします。
「このときのドライバー田原源一郎さんは、のちにニッサン・スポーツカークラブの会長を務められますが、ご商売は東京・浅草で国旗や昇り旗などの製作や染物をする商家の若旦那でした。それともうひとつ、このレースは、のちに“日本のヒーロー”となる生沢徹君の、スカイライン・スポーツを駆っての(四輪レースの)初陣でもありました。彼はこのレース、10位でフィニッシュしています」
「ただ、このレース結果には、ドライバー連名による『エンジン排気量違反疑惑』への抗議が出されたり、さらには、海外のスポーツカー・メーカーから、車両規定への疑問についてのコメントが出されたりしました。多くの物議を呼んだ後日談もあり、でも、そういう“事件”を生むほどに、これは大きな出来事だったということです」
(2)ニッサンは、当初はそんなに“積極派”ではなかった……
――この1963年のグランプリは、メーカーによって、その対応の仕方が分かれていたようですが?
「そうですね。当初は、グランプリ開催に非協力的だったメーカーもありましたが、まずは、トヨタ、プリンス、日野、富士重、スズキなどが積極参戦派に回りました。ニッサンが、それならウチも……という雰囲気になったのは、かなり後になってからです。でも、参戦を思い立ったにしても、時機を逸した感は否めません。それと、ニッサンはこの年から、本格的にアフリカン・サファリラリーに参戦することを決めていて、降って湧いたような“日本GP”に対応する余裕はなかったということもあったでしょう」
「そうした遅まきながらの参戦だったので、すでに他のメーカーが“大布陣”を敷いているようなクラスではなく、最も効果的なクラスを狙うということになったはずです。そうだとすれば、それは何か。そこから、国内の他社には“手札”がないスポーツカー・クラスをターゲットにするというアイデアが出て来ても不思議ではありません。国内で、本格的なスポーツカーをラインナップに持っているのはウチだけだ──。そのことをアピールするには格好の機会ですし、たとえ敗れたとしても、外国のスポーツカーに挑んだことは評価されるはずですから」
――ウーム、智恵者がいたわけですね、ニッサンには(笑)。
「それと外国車ですが、いくら世界レベルで名が知られたスポーツカーであるといっても、トライアンフにしてもMGにしても、あくまでも量産車です。そのクルマをレース用にするには、数々のスポーツキットでチューンしなければなりません。しかし当時では、これらを日本で入手するにはかなりの金額が必要で、かつ、輸入するにしても時間がかかりました。そういった状況でしたので、海外の有名スポーツカーといえども、個人所有車の改造範囲やそのチューニング技術はタカが知れていたのです」
――ははあ。
「このレースに出場した“田原フェアレディ”のエンジンは、SUツインのキャブレターを装着した輸出仕様車になっていました。そんな仕様を、国内の個人ユーザーが購入することは、基本的にできない。仮に買えたとしても、それはメーカーに特別なコネクションを持った人に限られる。このことだけを見ても、このクルマ(田原フェアレディ)にニッサンが深く絡んでいたことがうかがえますよね」
――おお!
「そういった背景を考えると、これはワークスマシンとは言わないまでも、“オッパマ・チューン”くらいの手は入っていたでしょう」
――“追浜”、ニッサンの工場があるところですね。
「のちに、ニッサンがレース活動をするに当たって、主な国内レース用のクルマのチューニングを手掛けたファクトリーで、ここから“追浜チューン”という通称も生まれました。この“田原フェアレディ”の場合はとくに、徹底的な車体の軽量化と補強、そしてエンジンの出力アップ、さらに足回りがしっかりと強化・改造されていた。こうなれば、いくら天下の“トラ”(トライアンフの当時の愛称)やMGであっても、とてもかなうものではありません」
――“市販車・改”と“工場チューン”の違いですね。
「このときの“特製フェアレディ”は、明らかに“メーカー参加車”であったと思います。このクラスには、女性ドライバー・塚本育子さんのフェアレディ・スペシャルも参加。女性ドライバーということで言うと、他のクラスですが、原田敏子さんがブルーバードで出場しました。このように、ブルーバードやセドリックなどのニッサン車が参戦しましたが、それらは個人やディーラー・レベルのチューンでした」
――“田原車”に集中したようですね、このときのニッサンは。
「この63年の翌年、第2回日本グランプリから、ニッサンは本格的なレース活動を開始することになります」
第二十七回・了 (取材・文:家村浩明)