(1)出場したクラスのすべてで“全勝”したメーカーがあった!
――語るネタが尽きないという“第一回日本グランプリ”ですが、前回は、このレースに対して、ニッサンはどう動いたのかということでお話しをいただきました。でも、ニッサンの場合は、どちらかといえば、そんなに積極派でもなかったようですね、この“第一回”に関しては?
「そうですね、ニッサンは、まあ中間派ぐらいのスタンスだったでしょう。1963年のレースについては、トヨタ、プリンス、日野自動車、富士重工、そしてスズキ、こういった面々が積極参戦派だったと見ていいと思います」
――ははあ、そういう意味では、グランプリ二日目の最終レースだった1600~2000ccのツーリングカーというのが?
「ええ、国際スポーツカーというクラスは“黒船来航”としてみんなを驚かせましたが、それとは異なるフェイズで、日本の“歴史的な自動車レース”の象徴というべきクラスになったのが、それでしたね」
「ここには、トヨタ、いすゞ、ニッサン、プリンスというメーカーがエントリー。国産の最上級車は何なのかという“覇権”をかけてのレースとなりました。また、自動車保有台数1千万台、本格的なマイカー時代を目前にしてという時代でもあり、国産車全体のレベルを計るような、そんなクラスになっていたと言って過言ではなかったですね」
――各社を代表するようなセダンが、ということでも?
「そうです、タマが豊富なクラスでした。とくに、このクラスの純・国産車──これはノックダウン・モデルではないという意味ですね。当時は、外国メーカーのモデルを、日本メーカーが国内生産するというカタチでの自動車生産が、普通と言えば普通でもあったので」
――ニッサンでのオースチン、いすゞでのヒルマン・ミンクスなどですね。
「そういう状況に対して、トヨタが純・国産路線でトヨペット・クラウンを作り、非・ノックダウンということではプリンスのグロリアやスカイラインがあった。そして、それまでノックダウン生産を行なっていたメーカーも、ちょうどこの頃から、自社オリジナルのモデルを作り始める。それがニッサンではセドリックで、いすゞではベレルでした」
――そうか、このクラスは、そういう各社の純・国産/新鋭モデルによるレースだったんだ!
「先行しているトヨペット・クラウンとプリンスのスカイライン、グロリア。そして遅れて参入したセドリックと、同じく高級車市場に新登場のいすゞベレル。当初の“メーカー不参入”の約束などどこへ行ったかのようなテスト風景がサーキットを賑わし、スポーツ紙誌や週刊誌がその様子を報道しました」
「トヨタの工場内では、サーキットの一部を模したコースを急造して、そこでテストをしているとか、グロリアは車重が重いし、ドディオン・アクスルのリアサスペンションはコーナーリングがいいのでタイヤが保たない等々。本当なのかハズレなのか、こういうパドックでの噂話は、もう誰にも止められない(笑)」
「……かと思えば、トレーニング中から意外と速かった最後発のいすゞベレルが優勝候補に浮上したり。一方では、そんな国産車同士の熱い闘いに一泡吹かせようと、外国車唯一のフォード・タウナスで参加する大阪の吉田隆郎さんは、後にダイハツのワークス入りする二輪レース経験のあるドライバーで、とか」
――おお~! トヨタの参戦ということでは、グランプリの初日に行なわれたツーリングカーの1300~1600ccクラスもありますね。
「このクラスは、まさに“トヨタvsいすゞ”でした。いすゞは、ここには、英国車のノックダウンであったヒルマン・ミンクスでエントリーしていますが、ヒルマンの後継モデルとして、完全な国産車であるベレットを、このグランプリ後に発売するという計画がありました。ですから、いすゞの技術力を示すという意味でも、ここで負けられない」
――そうか、上級車がベレルで、このジャンルではヒルマン~ベレットというラインだったんですね、いすゞの60年代は?
「ヒルマン・ミンクスは、当時の中型乗用車の中では最もアカ抜けしていた。そのスポーツライクな佇まいは、多くの人の憧れでしたね。そういうクルマだったので、スポーツカー・クラブに属する愛好者ドライバーが、ここでは多くエントリーしていました。いすゞの場合は、メーカー援助組と、そうしたクラブ・メンバーの合体という構図だったでしょう」
――対するトヨタは?
「このクラスにトヨタが持ち込んだのはトヨペット・コロナです。これからのミディアム・クラスの主流を狙うモデルという位置づけなので、《鈴鹿》でのトレーニングの回数も多く、チームにはトヨペット同好会(TDK)などから集まったドライバーが20人くらいいましたね。そしてその中でも、式場壮吉さんを始めとする精鋭をこのクラスには投入した」
――そしてトヨタは、クラウンもコロナも、この日本グランプリで“勝たせる”んですよね?
「そうです、ついでにパブリカもね。そのクラスでのトヨタの相手は、排気量半分のスバル450や三菱500だったけど(笑)。ですから、この連載でも採り上げましたが、1963年の1月時点では、GPレースにどう対処するかという取材に対して、けっこうトボけていたのがトヨタでした。でも終わってみたら、エントリーしたクラスのすべてで勝利する、いわば“三戦全勝”というフィニッシュだったわけです」
――それで、事後に大宣伝を打った?
「この“第一回”についていえば、オイシイところは、みんな持ってった(笑)。それがトヨタで……」
――ムカッとした他メーカーが、“第二回”で燃えた?(笑)
「そう、それは一年後の話になるけどね(笑)」
(2)純・国産モデルを、日本グランプリでアピールせよ!
――1300cc以下のスポーツカーというクラス、ここにはワークス参加と思われる日野コンテッサがいますね?
「ここは排気量の小さいスポーツカーのカテゴリーで、オースチンヒーレー・スプライトやトライアンフ・スピットファイヤーなどの外国車が主役のクラス。ここに大挙して出場してきたのが日野自動車のコンテッサです。今日の日野はトラックで有名ですが、この頃は乗用車も作っていました」
――はい、日野ルノーですね。
「フランスのルノー4CVをライセンス生産(ノックダウン)したクルマで、いまの言葉でいえばOEMということになるかもしれない。そして、このルノーのライセンス生産が終了して、純・国産のコンテッサに移行するというのが、ちょうどこの時期だった」
――でも、コンテッサって“スポーツカー”ですかね?
「いや、セダンですよ(笑)。基本は、ツーリングカー・クラスで、二日目にそっちにも出てますけど、GPの初日では、ここでコンテッサを走らせた。いまにして思えば、グランプリの二日間を通して、どちらの日を見に来ても、コンテッサの走りを見せられる。そういう意図だったと思えます」
――なるほど、チカラが入ってたんですね。
「コンテッサは、4ドア車ながらスポーツ性が濃いという解釈(笑)。まあ、そのくらいに、メーカーが力を入れてた。そして、このコンテッサに乗るドライバーたちがちょっと異色でした。当時、“105マイル・クラブ”という自動車クラブがありまして、このクラブの入会資格というのが──」
――あ、時速105マイルの経験者とか?
「そう、105マイル、キロにすると約168km/h以上で走ったことがある者、または時速105マイル以上の速度が出るクルマを持っている者、こういう条件が入会資格だったクラブです。でも、レースもサーキットも、さらには高速道路もなかった時代に、どこでそんなスピードを出せたんでしょうかね?(笑)」
――うーん、直線が必要だから、東京近郊でいえば“Yバイパス”とか、そのあたりだったでしょうか?(笑)
「まあ、そんな異色のクラブで、そのゲンキな(笑)チームのリーダー的なドライバーが、浅間の火山レース(二輪)も経験していた立原義次さん。こういった面々が乗るコンテッサに、外国製のスポーツカーが混じるというエントリーになりました。石津祐介さんのオースチン・ヒーレー・スプライト、さらには浅間のクラブマンレースにも出ていた井口のぼるさん、彼は東京・五反田の有名キャバレーの総支配人でしたが、この井口さんのDKW1000など。このDKWは、2サイクル・エンジンとフロントドライブ(FF)ということでも注目されましたね」
井口のぼるのDKW1000(右)とバトルを展開、第一回日本GPのCⅢクラスを制した立原義次の日野コンテッサ(左)。
――そのコンテッサがもうひとつ、ダブル・エントリーしたのが、ツーリングカーの700~1000ccクラスですね。
「メーカーの全面的な支援を受けたコンテッサが出場です。日野も、ライセンス生産していたルノーが人気車でしたから、その後継の純・国産モデル(コンテッサ)も、その地位を受け継ぎたい。そういうホットな事情があった。だから、本来のコンテッサ900(PC10)をパワーアップして、1300cc以下のスポーツカークラスにも出した。それだけの意気込みと改造技術を駆使したレース体制は、トヨタに劣らないレベルだったでしょう」
――おお、だから“105マイル・クラブ”のような有力なクラブとも、ジョイントしたんでしょうね。
「このクラスで、そんな“ワークス日野”の対抗馬となったのはDKWでした。これは水冷3気筒2サイクルエンジン、前輪駆動(FF)という、当時では画期的であったシステムを搭載したドイツ車です。DKWでは、その最新型を用意した井口のぼるさんが、スポーツカークラスにもダブル・エントリーしていました」
――そして、津々見さんですね?
「ええ、津々見友彦さんね。彼のDKW・900は、井口車に比べれば4~5年前の型でしょうか、結構な中古車で。だから、レースではどうなんでしょう……という感じだったですが、津々見さんも、まだ学生だったでしょう。だから、トレーニングのスポーツ走行料やタイヤ、補修パーツなどの費用を工面するために、宿泊も鈴鹿川の河原でテント暮らしをして、レースに出場していました」
「その彼の“野宿”の光景は、ぼくも実際に見てるんですよ、橋の上からね。ですから、このレース、ぼくはたまたま“ワークス”の一員として参戦していて、結果へのプレッシャーというものはたしかにありましたけど、でも、少なくとも、レース出場の衣食住ということでは不自由はなかった」
――ははあ……。
「それはありがたいことだなと痛感してました。また、この日本グランプリに、プライベートで、それも外国車で出る人というのは、おしなべて裕福で、みんなが憧れるようなことを趣味としてやれる。レースに出るプライベーターは、そういうリッチな人ばかりなんだと羨ましく、ときには正直、やっかんでもいたのですが……」
――ビンボーというか、あまりおカネがなくても、そうやってレースに出る人が?
「そう、津々見さんのように、どんなことをしてでもレースに出る! そういう情熱を持った者がいるということを知って、個人で四輪レースに出る人はカネ持ちばかりと思っていた考えを改めたことを思い出しますねえ」
――メーカー側から見た場合の日本グランプリということだけが“史実”のようになって、今日にまで語り継がれていますよね。それはもちろん、間違っているわけではなく、また、当時のオカネモチというか、おカネがあってクルマが好きな方々が?
「ゲンキな方々ね(笑)。まあ、ある見方をすれば、メーカーよりも、クルマやレースや速く走ることついては、よく知っていた人々がいた。この頃、レースをやっていたのは、そういうリッチな人々と、そして、ぼくもその一員でもあったメーカー関係者と──。大きく分けると、こういう二種類しかいないと思っていたのです」
――でも、津々見さんのような?
「そう、そのどっちでもない関わり方というのがあった! このことを、ぼくに教えてくれたのが彼でしたね」
第二十八回・了 (取材・文:家村浩明)