リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第33回
大メーカーの“ロジック”(下)、そして、大きなアクシデント!

(1)二輪レース参戦が引き起こした、あらぬ誤解……

――ところで、一年後の決戦に向けて、ワークスとしていろいろと活動している中で、レース・シーン全体や他社の状況などは、当時、どの程度、チームには入ってくるものだったのでしょうか?

「他社って、ライバル・メーカーのこと?」

――ええ、この時期のスバルでは、スズキということですが。

「ウーン、それについては、スズキだけでなく、他のメーカーがどんなことをしているのか、丸っきりわからないというか、興味がないというか。よそのことを気にしている余裕はないというのが、当時の実態だったでしょうね」

「ただ、他メーカー関連では、ぼくにとって、大きなショックであったことが、ひとつありました」

――それ、お聞きしてもいいですか?

「まず、《鈴鹿》での二輪ロードレースが始まったといっても、本格ロードレースがすぐに、次々に行なわれるという状況ではなかった。MFJは発足したものの、世界GP参戦メーカー関連の業務が多かった。クラブ連盟の主催による、小規模なロードはありましたが、やはり、こっちはモトクロスが中心でした。一方《鈴鹿》は、もっぱら、第2回自動車GP、そしてオートバイの第1回世界GPの開催(1963年11月)で、クラブレースどころではなかったのです」

――鈴鹿サーキット側の動きと、国内二輪レースの状況とは、若干フェイズが異なっていたわけですね。

「そういった状況ですから、二輪レースに出る機会といえば、ぼくは相変わらず、スズキ・チームの一員としてでした」

――はい。

「それは、スバルが新体制で活動を始めた年の秋が終わる頃でした。会社の部長たちに呼び出され、そして、まさに青天の霹靂(へきれき)というか、そんな目に遭ったのです」

――え?

「四輪の第一回GPのあと、その年(1963年)の二輪レースのことで、スズキの望月(修)さんと話をしたことはありました。望月さんとぼくは、第一回GPでは同じクラスではなかったので、彼がスズキでぼくがスバルだという、そういう意識はぼくにはまったくなかった。たしかに彼は、GPでスバルを破った優勝者ですが、一方では、スズキ国内二輪チームのマネージャーです。そしてぼくは、富士重の四輪のドライバーで……」

――ええ。そしてリキさんは、四輪ドライバーとしてスバルと契約される際に、二輪のレースについてはスズキで活動を続けるという一項を入れておられたはず?

「そうなのですけどね。でも、このとき、会社の重役たちは、開口一番にこんな質問をしてきました。『大久保君、二輪のレースは、ずっとスズキで出るのか?』」

このとき、その場の重役とリキさんとの間では、以下のようなやり取りがあった。

「キミは二輪レースは、スズキから出るのか?」
「はい、その予定でいます」
「それなんだが、どうも社内に、キミがスズキと“関係している”ことについて、よからぬ噂が立っていてね」
「よからぬ噂って、何ですか?」
「要するに、スズキは、ウチの最大のライバルだろう。そこに、キミが出入りしているわけだよ」
「出入り?」
「二輪と四輪は違うと言っても、ライバル社のクルマにも乗っていることに、疑問を持つ者が多いんだ」──

――つまり、ライバル会社とつながっていると?

「そう。ぼくが相手方と通じていて、ライバルに情報を洩らしているのではないか。そういう疑いを持たれていたらしいのです」

「ぼくは唖然としました。まったく、気にもしていなかったことなので。それで、まずその年の10月に、青森県の米軍・三沢基地内で行なわれた全日本クラブマン・ロードレースに、スズキで出場していたことを話しました。そして富士重との契約は、二輪レースを続けてもいいという約束であり、これからも、二輪はスズキで走るということを言いました」

――ええ。

「ぼくは連綿と、二輪でのスズキとの付き合い方はこうなっている、それは実態としても四輪とは無関係で、そして、情報交換をしているなどはまったくの“寝耳に水”であることを述べました。そして、こんなふうに見られていたことを知って、とても悲しいと、悔し涙を流しながら弁明というか、状況の説明をしました」

スバルGPチームの構成。チーム全体を社長直属の総監督が統括。チーム実動の組織総指揮を監督が行ない、技術畑の副監督が監督補佐としてマシン関係を担当した。

「このときに、ぼくの説明を聞いていた上役は理解してくれたようでしたが、ただ、できれば“富士重一本”でいてくれた方がありがたいという雰囲気は、やはりありましたね」

――それは悲しいというか、それ以上に、悔しい出来事ですね。

「そのとき、ぼくはまだ23才で、血の気の多い頃でもあったので(笑)。だから、いろいろと説明をしつつも、一方では、まるで釈然としないという気持ちでいっぱいでした」

――というか、リキさんと望月さんとのお付き合いの方が、スバルとのそれより、ずっと長いはず。そういったお二人の個人史に、メーカーが割り込んで来たわけで?

「当時は、まあ、そこまでは考えなかったかな(笑)。でも、こういうことがあったので、その後に、望月さんには事情を話して、スズキからは離れることにしました」

――ということは、ここで二輪やそのレース界とは縁が切れてしまう?

「いや、幸いにもブリヂストン・サイクルが本格的にモーターサイクルの生産に乗り出すことが決まった。ぼくはライダー&テスターとして、さらにレースもBSで出られるようになりましたので、二輪との接点は失われなかったのですが」

「いずれにしても、大企業の社内事情や、また企業同士の関係など、社会というのはいろいろあるのだなあ、と。当時のぼくは、レースのことしか知らないですからね。四輪はスバルでレースをして、二輪レースはスズキで走る。ここに何か問題があるということの方がフシギだった(笑)」

――ただ、この年(1963~64年)のシビアな状況を考えると?

「ウン、いま、大人になってね、ちょっとオトナになりすぎた感もあるけど(笑)。その立場で考えてみると、このときの富士重の言い分にも、一理、いや“三理”(笑)くらいはあって、もっともなことだったとは思ってます。メーカーには、メーカーなりのロジックあるいは行動の様式があって、企業側からすれば、当たり前すぎる指摘だったと」

「たとえば、スバルとの契約が成立した時点で、望月さんには、『一年間だけ師弟の関係でなくなりますが、よろしく』とか。そういったご了解を得るようにしておけばよかったのかもしれない。でも、二輪は、ぼくの原点であり本分でもあったので、そんなことを言ってしまったら、これで二輪レースはできなくなってしまう? そういう不安や寂しさの方が先にあって、だからきっと、それは言えなかっただろうな。ぼくも若かったし(笑)」

「社会というのは、自分では何かを成しとげようとして、それに向かって、真っ正直に情熱を傾けていても、自分がまったく知らない間に、災難や火の粉が降りかかるものなのだなと思いました。……ということで勉強にはなりましたが、でも、嫌疑をかけられたという悔しさは、いまでも残っています」

(2)仕事の約束を果たすために、ある決断を

「この1964年というのは、実は、ぼく自身の健康状態にも大きな異変があった年なのです。そのキッカケとなったのは、三年くらい前からずっと続いていた腹痛です。これは、ときどき下腹部が痛くなり、しかし何日かでその症状はなくなるということの繰り返しでした」

「しかし、“スバル生活”に入ってから──これは、自分でも気づいていないような気疲れがあったのでしょうか、その痛みが出る周期がだんだん短くなってきました。そして、その周期をぼくなりに計算してみますと、(1964年の)5月のレースの頃が、ちょうど、その痛みが出る時期に当たりそうなのです。……あ、もちろん、これは医学的な根拠はありません、ぼくのカンですが(笑)」

――おお、それはやっぱりストレスでしょうね、根拠はないですけど(笑)。

「それで、べつに痛みもなかったのですが、正月早々に、近所の外科医に相談して診察してもらったところ、慢性の盲腸炎であると」

――ははあ。

「それで、決めました。これは手術をしてしまおう、と。ひとつは、健康にはまったく不安がないという状態でレースに臨みたい。そして、このまま放置しておいて、仮にGPレースで欠場ということにでもなれば、契約ドライバーとしての責任を果たせなくなる。もし、そうなったら、たぶんその先、ぼくのレーサー活動もないだろう。こういう考えからでした」

「でも、家族や周囲の者は、みんなびっくりしたようです。何でもないように見えていた健康な者が、いきなり布団を持ち出して、入院してくるって出かけちゃったから」

――え、布団を?

「いや、この時代、入院には患者が寝具を持参したのです。病院で寝るのはベッドの上でしたけどね。そして、余計な話ですが、入院前の三日間、しばらく酒も飲めないし満足な食事も取れそうにないと、“クニ”(高橋国光)と毎晩、行きつけの歓楽街を徘徊しましてね(笑)。当時の“手術”というのは、実は、けっこう一大事だったのですよ」

――身体にメスを入れる! そして、ひょっとしたら……と?

「そうです、そういう時代だった。まあ話が逸れましたが、そんなことで、ぼくが一ヵ月半ほど静養している間に、スバルのエンジン馬力は急速に上がって行きました。当時は、前にもお話したように、コースに出る度にマシンの状態が変わりました。また、月日の単位でなく、一日の中でも、午前はよくても午後には不調とか、昨日はOKだったのに今日はNGとか、そういう状況でした」

「ただ、強いて、ある時期を境にしてマシンに大きな変化が現われたと言うなら、1964年が明けて、そして、ぼくの治療休みも終わって……という頃がそれに当たります。そうしたクルマの変化と、ぼくの体調と、まあ、微妙に絡んでいたのかもしれませんが」

――あ、何かが起こった?

「ええ。ぼくがレーサーに復帰した3月のはじめ。鈴鹿サーキットの通称・デグナーカーブで、その事故は発生しました」。

第三十三回・了 (取材・文:家村浩明)