(1)1964年になって、エンジンが変わりタイヤも変わっていた
――前回、「鈴鹿サーキットの通称デグナーカーブで、その事故は発生した」というところでお話が終わっています。
「まず、事故前後の状況から説明しますと、ぼくが入院で休養していた一ヵ月半ほどの間に、どうも大幅なエンジンチューンが行われていたようです。そのため、正月前までにテストしていたクルマよりも、エンジン出力が高くなっていた」
「それと、ワークスチームとなれば、自分専用のマシンが何台かあるように思われるかもしれませんが、この時点でのスバル・チームでは、各ドライバーは複数の実験車に乗って、それぞれ個別に評価していたのです」
――なるほど、そういう背景があって?
「さまざまな仕様のクルマがあって、いろいろなテストをします。だから、ぼくも、どのマシンで“それ”が起きたのか、未だに、どうも特定できないのですが……」
「でも、たぶん、パワーが36馬力は出ていたと推測できるエンジンを積んだクルマがあった。そしてそのマシンは、足(サスペンション)を特別に固めた車体になっていた。そういう仕様のクルマで、それは起きたと、ぼくは考えています」
――入院・休養から復帰されて、すぐに、そういうハードなマシンに乗ったことが事故につながったのでは?
「それはありません。休養明け直後ということではなかったし、復帰して、コースを走りはじめて、すでに一週間以上経っていた。ですから、その種のことが原因ではない」
――鈴鹿サーキットの“デグナー”というのは、S字を抜けたあとの、右に曲がるタイトコーナーですよね?
「テストに復帰したその日から、クルマがそれまでよりも軽快に、そして力強く走るようになったなあという感じはありました。とくに、鈴鹿S字の最終カーブ、ここは100Rですが、そこを抜けて、ゆるやかな180Rの左カーブになるあたり。ここから、デグナー入り口に向けての(短い)直線になりますが、ここは非常にタイムの稼げる場所なのですね」
「この時期のクルマは、それなりに開発が進んで来ていました。したがって、去年までに乗ってきたクルマとは違って、コーナリングも安定していたし、また、コーナーからの立ち上がりでも、エンジンが高回転までスムーズに伸びるようになっていました」
通称デグナー・カーブの新旧。現在は、二度曲がる複合コーナーだが、開場当時は、ひとつのコーナーだった。上が現在、下が1963年開場当時。赤丸印がデグナー・カーブ。
――なるほど。そういうポイントで、だからこそ、そこでの走りはさらに攻め込む必要があった?
「“デグナー”と呼ばれるカーブ自体は、ここは80Rのコーナーです。その入り口へのアプローチ速度はトップスピードの75パーセントくらい。ですから、進入の車速は(時速)115キロ程度でしょうか」
「そこから、デグナー(カーブ)の真ん中少し手前の左端、ここをAとしますが、これをクリッピングポイントに定めます。そして、カーブ出口からつながる直線が見えだしたら、この地点をBとしますが、このB地点で、マシンの方向を一気に右に向け、全加速でコーナーを抜けだします」
――それが“デグナー”を攻める基本ですね?
「そうです。走行の基本は、こういう流れ。それで、1963年末までのマシンでは、エンジン馬力の関係もあって、コーナー進入から脱出まで、少しのブレーキとアクセルワークで、ゆるやかな弧を描くようなコーナリングのラインを取った方がベターだった。その方が馬力のロスにならず、コーナー出口から直線へのの加速もスムーズだったのです」
「しかし、年が明けてエンジンは急速に高出力化されていた。それまでの32ps程度に対して、36psくらいにはなっていたはずです。したがって、デグナー入り口での速度も大幅に上がっていた。もちろんこれは、デグナーだけでなく《鈴鹿》のすべてのコーナーで言えることでしたが」
――エンジンが変わると?
「進入速度が速くなる、つまりは従来のコーナリングでは曲がれなくなる……ということです。デグナーで言えば、コース左側にアウトしてしまう。それと、高出力すなわち高回転エンジンで、パワーバンドが狭くなる。いったん速度を落としてしまうと、エンジン回転も同じく落ちますから、次の加速がモタモタしてしまう。ゆえに、エンジンの“使い方”も変わって来ます。それまでのような、いわばゆるやかなコーナリングで、エンジンをパラパラと中速回転させておくようなことができなくなる」
「コーナーの入り口で急激に速度を落とし、コーナリングの時間を短縮して、一気にクルマの方向を変える。つまり、マシンをできるだけ早く“直線加速”できるような状態にしなければならない。要するに、弧を描くような曲がり方から、直線と直線の間にクリッピングポイントが来るような、鋭角的な走りですね」
――なるほど、わかるような気がします。
「それと、タイヤですね。エンジンだけじゃなくて、これも変わった」
――ワークス・スバルは、ブリヂストンによるサポートを受けていましたよね。
「ええ、サプライというか、ブリヂストン・タイヤとは共同でタイヤの開発をしていました。そして、やはり年末あたりから較べると、極端にグリップが良くなっていました。従来なら、ドライバーがコーナーで、もう少し踏ん張ってくれないかなあ……というところで、実際はズルズルと滑り出してしまっていたのですが、この頃には、そういう弱さは解消されていました。“踏ん張れ踏ん張れ、もっと踏ん張ってくれえ、ようし!”というのが現実になったというか、そういった段階まで、タイヤがグリップするようになっていた」
「それと、グリップがなくなる限界時のフィールも、一気にスピンしてしまうようなことも少なくなり、ズルッズルッという感じで合図があるというか、そういうコントロールしやすいレベルになっていた。タイヤメーカーの進歩には、凄いものがありましたね。これは、BS(ブリヂストン)と共同開発を行なっていた他のメーカーでも、同じようなことが起きていたと思います」
――おお~!
「ただ、タイヤのグリップが良くなったのはいいのですが、今度は、そのタイヤ性能をフルに発揮するには、車体剛性やサスペンションをどうするのかという問題が発生します。車体のチューンは、車高は極端に低く、そして、サスペンションのスプリングは、スバルはトーションバーでしたが、それをガチガチに固くして、かつ、かなり強めのキャンバー角度を設定するというのが定番でした」
(2)その日、天気は快晴、そして時刻は午後だった……
――エンジン、タイヤ、車体がいろんなフェイズとレベルで変化していた。そういう状況と背景の中で、リキさんとスバルのテスト車は《鈴鹿》のS字を抜けて……?
「ええ、デグナーへと突き進んで行ったわけです。パワーが上がって、タイヤのグリップが良くなれば、当然、それまでよりも速い速度でコーナーに入ります。そして、急速なブレーキングとターンも可能になるものと考え、ぼくはそのテクニックの習得に努めていました。そして、自分でも、それはかなりいい線いってるように感じていましたね」
――マシンの変化や進化に合わせてのドライビングも、すでにイメージがきちんとあって、そして実践もできていたわけですね。
「その日は、快晴でした。時間は午後の2時頃でしょうか。それまでと同じようにデグナーのコーナーに進入し、クリッピングポイントを捉えて、クルマをコーナーの脱出方向に向け、進路が定まったと思ったときでした。このときは、クルマには最大Gがかかっているはずですが、その瞬間にいきなり車体は宙に舞い、地面に叩きつけられたのです」
――あ、スピンとか派手にハミ出したとか、そういうのではなくて“飛んだ”?
「後で見たら、クルマは、左Aピラーからハンドル近くまで凹んでいました。ですから、左方向に踏ん張っていた車体がねじれに耐えきれず、反動で車体左側が上になって、斜めに一回転するように落下したのだと思います。そして、それらのすべては、コース外でなく、コース上で起きました。これについては、コースポストの管理員が証言してくれています。ちょうど、ポストの目前だったので」
「ぼく自身は、そのとき、何が起こったのか、まったくわかりませんでした。転がってしまったクルマの中で、右窓枠の上部と左ルーフを押さえて、バンザイスタイルで車内にいたように覚えています。でも、一番記憶しているのは、地面に叩きつけられる何秒かの間に、幼少の頃からそのときまで、つまり24歳までのいろいろな経験や体験の、そのシーンがダーッと浮かんできたことでした」
――ウワー、映画にでもあるような?
「そう。走馬燈のようにという表現がありますが、まさに、あの通りで。……で、気がついたら、サーキット外にある病院のベッドにいました。幸いにも、頭部と右肩、そして膝の強度の打撲ということで、3日ほどの静養で復帰できました」
――あの、どうして“飛んで”しまったんでしょう?
「原因は、はっきり言って、わかりません。ぼくや、そしてぼくの周りの人たちは、ボディの剛性不足による、いわゆる“フレームクッション”だったのではないか、と言ってくれます。つまり、ねじれた車体がもの凄い力で元に戻ろうとする反発力が発生し、車体自体が跳ね上がってしまった……ということですね」
「でも、メーカーあるいはチームの上層部は“ドライバーのミスだ”と言います。まあ、これは仕方がないのですけどね。レースやテストでの事故は、車輪が外れたとか、燃料タンクからガスが洩れた結果で火災になったとか、そうした明らかな外的要因が見られない限りは、だいたいにおいて、ドライバーのミスにされることが多いのですよ」
――ウーム……。
「これは、ワークス・ドライバーの宿命です。ぼくは、オートバイでも、何回も同じような目に遭っていますから、こうした冷遇には慣れっこでした。ただ、サビシイといえば、ちょっと寂しいことですけどね」
「それと、ぼくは病院にいましたから、直接に聞いたわけではありませんが、グランプリの第一回では“エンジンで負けた”というのが、いわば社内の共通認識でしたから、このアクシデントが起きたときには──」
……はい?
「そう公然と言われ続けていたエンジン部門の技術者が、『とうとう、エース・ドライバーでも手を焼くほどのエンジンになったぞ!』と、ほとんど小躍りするように述べたということでした」
――おお……。ちょっとツッコミを入れにくいですが(笑)、ただ、ひとりの技術屋としての“達成感”ということでは、わからないでもない気がしないでもない、かな!?
「何ですか、そのよくわからないコメントは!(笑)でも、そういう社内の反応を人づてに聞いたので、それを知ったぼくがやることは一つです。あの事故は、ぼくのせいではない。ドライバーがミスったから、起きたんじゃないんだ! だから、そのことを見せつけるには、どうすればいいか。考えた挙げ句にぼくが実行したのは、まず、一日も早くテストに復帰すること。そして、現場に復帰したら、それまでよりも速いタイムを出すこと。もちろん、それをやって見せましたけどね」
――まさに“闘いの日々”ですね、さまざまな意味での……。
「この事故が起きたことは、実は、他のチームにもすぐに伝わりました。こういう噂が飛ぶときの速度ってすごく速いんです(笑)。中でも、ニッサンに入った田中健二郎は、ぼくに、こんなことを言いました。『リキ、よくやった! ケガしないように、ガンガンひっくり返せ! 限界を知れ!』だって。とっくに限界だよ、ハハハ(笑)」
「このような転倒や原因不明のコースアウトによる死亡などは、当時、けっこうありました。ニッサンに抜擢された、二輪浅間レースでの覇者・吉田治も、フェアレディで事故死しています。グランプリは二回目にして、各車とも急速な性能アップが行なわれ、そういう過程の中で、いろいろなことが起こっていました」
――その事故を含む、このときのテストで、また、こういうアクシデントが起きたことで、何か“見えてきたこと”があったとすれば?
「この事故はドライバーのミスだったというのが、その“判定”でした。ただ、エンジン技術者の言から、車体の技術者も『一考を要するものがある』と思ったのではないでしょうか。というのは、この事故を契機に、それまではドライバーの癖や好みに関係なく、車体についてはほぼ一律の技術と仕様であったのですが、その暗黙のルールが変わることになったからです」
――リキさんの“走馬燈体験”は、ムダではなかった?
「これ以後、ドライバーのそれぞれの要望で、車体は、かなり自由に──たとえば、もう少し柔らかいサスがいいとか、そういう変更ができるようになりました」
――このアクシデントから本番までは、時間はもう二ヵ月くらいしかありませんね?
「二ヶ月前というのは、まだまだやる事が沢山あって、決勝に向かっての車造りを総合的に詰める、つまり凝縮するという時期になります。チームは、ただただ良いタイムが出るように、ドライバーとマシンチューニングを詰めていく。どんな細かいことでも、やれることは何でもやってみる、ということです。工場の技術者というか職人の方々も、ぼくらドライバーが出す要望を具現するためには、こういうパーツが要るとか、こういった改造や変更が必要だということになれば、即座に対応してくれました」
「とくに、最後まで、どれがいいのかわからないというパーツは、エキゾースト・チャンバーでした。これは、次から次へといろいろなカタチのものが作られ、数にすると、7台のマシン用に120~130本のチャンバーがあったと思います。それを、取っ替え引っ換えでクルマに取り付けて、パワーの出方や加速、スピードなどをチェックしていきました。どのチャンバーがいいのかという、このときのチームの判断基準は、ひとえに、ドライバーの分析力ということになります」
――そのチャンバーの数は、さすがにワークス・チームという感じですね。
「でも、出力向上ということで持ち込まれる新型のエンジンは、高馬力になればなるほど、オーバーヒートやピストン、クランクシャフトの焼き付き、そして、シリンダーの変形、さらにはピストン頭部の穴あきなど、2サイクルエンジンにつきもののトラブルがあって、それには泣かされました。馬力だけは、まだまだ上がるのですが、並行して、エンジンもどんどん壊れます(笑)。また、ミッションも副変速機を介した6段が標準でしたが、いろいろな構造、ギヤレシオがテストには持ち込まれ、ドライバーに合ったものを採用する作業も行なわれました」
「それと、もう、この時期になると、コース占有使用の奪い合いでは、スバルは大メーカーには敵わなくなりました。そのため、朝4時~7時のテストとか、そういう特別の案配をしてもらうこともありました。走るための時間の確保は、このときの最大課題でしたね。スバル・チームに最も足りなかったのは、その“時間”であったかもしれません」
第三十四回・了 (取材・文:家村浩明)