(1)メーカーの意識改革と社会への影響
――初期の『日本グランプリ』で、第一回でも第三回でもなく、この『第二回』を特徴づけるものがあるとすれば、それは何でしょう?
「『第一回GP』でのメーカーの基本スタンスは、市販車の性能が優れているクルマが勝つに決まっている、こういう見方と取組み方でした。しかし、そこから一年が経過しての『第二回』では、自動車の基本的な運動性能に対する意識が変わっています。おそらく、メーカーの中で、かなりの意識改革が生まれていたのでしょう」
「そのひとつは、『走る・停まる・曲がる』というのが、いかにむずかしいか。これがわかって来たことです。クルマの限界性能を追求し、それを究めるのは容易ではない。そして、この領域の奥の深さも。これはそう簡単に極められるようなものじゃない、と」
――クルマを速く走らせる技術的な課題、それへの目覚めですね?
「そうです。ただ、その一方では、やればやるほど、探究すればするほどに、新たな地平が見えて来るというような感覚もあったでしょう。そういう“無限の広がり”感ですね。それもあって、市販車状態での性能差だけで(レースでの)速さが決まるものではないということにも気づいた。ここでチューニングという言葉を使えば、レースで速いクルマは、チューン次第で、ある程度は創れるのだ、と」
T-Ⅰレースをスタートから牛耳った力さんのワークス・スバル。第二回グランプリは、『走る・停まる・曲がる』の難しさに気付き、スバルだけでなく、プリンスやニッサンに火をつけるターニングポイントとなった。
――なるほど。でも、そうやって、市販状態とはまるで別仕様になるようなクルマ(レーサー)を作ってみたら?
「そうです。改造車というものの限界も見えますね(笑)。それは、実際にレーシング・カーを作ってみれば、わかってくることです。とくに、この『第二回』には、フォーミュラカーや“はじめっからのレーサー”が走るカテゴリーがありましたからね。ぼくら(ドライバー)ももちろん驚いたけど、それ以上に、ペタンコなプロトタイプ・スポーツカーをナマで見たメーカー技術陣の驚愕は想像に難くないので」
「そしてもう一点は、この国が“高速道路社会”を迎えることがハッキリしたこと。高速道路の完成よりも、サーキット竣工の方が先だった(笑)というのは、この国の特異性ではあったけれど。しかし、誰でもが時速100キロで走るという社会が来るということが見えて、それに向けて、メーカーは十全な対応をすることが求められた」
「1964年、日本は、クルマも社会も変わろうとしていたのです。そして『日本GP』は、その変革の象徴でもあった。また、その変化を加速させることにも貢献した」
――単なるレース・イベントやエンターテインメントであることを超えて?
「その通りです。自動車によるレースの開催について、クルマ世界だけが騒いでいたような捉え方があるとすれば、それは大きな間違いだと思いますね。名神高速は、1963年にまず、部分的に開通します。これは栗東~尼崎間ですが、64年には順次できあがって、1965年が明けて全線が開通という運びになります」
「そして、新幹線の登場は1964年で、さらに“戦後日本”のあらためての世界デビューだったと言える『東京オリンピック』の開催もこの年(1964年)です。そうした日本の社会が変わって行こうとする熱い時期に、自動車によるレースである『日本GP』もしっかりシンクロしていたのです」
(2)『第二回GP』にメーカーが懸けたもの
――レースでは最も《密度》が高かったのがリキさんが出場された「400cc以下クラス」ですが、これを仮に除外すると、『第二回GP』で“いいレース、いいバトル”であったカテゴリーは何でしょう?
「それはやはり、ツーリングカーの1301~1600cc“T-Ⅴ”クラスでしょう。前回にも、テツ(生沢徹)がこうやって勝ったというようなお話しはしてますが、そのほかにも、まずトヨタ、いすゞ、プリンスの三ワークスによる対決であったこと。そして、事前の予想とは異なり、トヨタといすゞを押さえて、プリンスが7位までを独占した」
「例の『ポルシェ・カレラ』とのバトルだけでなく、『スカイライン』というクルマ、プリンスというメーカーの知名度を一気に上げることに貢献したのが、このクラスとそのリザルトでした。生沢(徹)君にしても、チームオーダーの無視というのはあったかもしれないけど(笑)、でもクルマが持っている性能をきちんと引き出したということでは、このレースでの“19人抜き”だったっけ? 見事な走りであったので」
「そしてやはり、『カレラ』対『スカイライン』、1001~2000ccの“GT-Ⅱ”クラスですね。これについては、もう語られ尽くしているので、あらためて付け加えるとすれば何かなあ(笑)。ここで走った『スカイライン』にしても、“特別に作ったプリンス”らしいというのはわかっても、当時はセダンとGTの区別がよくわからない人も多かったから、セダンと『ポルシェ』が一緒でいいのかよって(笑)そういう疑問はあったかもしれない」
――今日の視点では、それは、まあ、ありますね?(笑)
「でも、この『GP』に登場した“スカイラインGT”は『1500』の軽い車体の前方を長く伸ばして『グロリア』の2000ccエンジンを積んだ、本邦初のモンスター車です。それだけでなく、『ベンツ』のエンジンに似たSOHC6気筒にウエーバー・キャブレターを3つも付けたハイチューンでね。その特別車を、GTカーの公認を取得できる台数の100台、生産してしまう。すごいでしょ、このパワー。まさに大和魂、全社一心(笑)」
――あるメーカーが総力を挙げて、「速いクルマを!」となったときの“作品”がこれだった!
「何で、プリンス自動車がそこまでやったか。前年のGPで、主要なクラスはトヨタに席捲され、積極的な参加をしなかったニッサンは、そうであったにも関わらず、レースでは外国製のスポーツカーを蹴散らして、一躍脚光を浴びた。それに対しプリンスは、肝心の2000ccセダンのクラスも、高級スポーツカーを自負する『スカイラインS』(スポーツ)が5位の入賞圏内にも入らなかった」
――うーん……!
「そうなると、トヨタのような多くの車種を持たないメーカー、たとえばプリンスがターゲットにするのは、一般ユーザーに注目されている『クラウン』と『コロナ』、そしてその打倒です。そして、もうひとつの標的がニッサンの『フェアレディ』。これらが出場する主要3クラスに、プリンスは社運を懸けたでしょう」
「そして、《鈴鹿》のテストデータのスパイ合戦が始まり、プリンスの一人勝ちになりそうな気配が濃厚になってきたところに、『ポルシェ』が入り込んで来た……って、これ凄いシチュエーションだよね(笑)」
「『カレラ』の出場が、トヨタの策謀だか、式場(壮吉)が買えるわけがないとか、そういう下世話な話には興味ありません。そんなことより、『ポルシェ904』というクルマ、正式には『ポルシェ・カレラGTS』ですが、これがどんなクルマで、その時とその後の日本の自動車界にどんな影響を与えたか。そういった話が、あまりにも少なすぎる。当時もいまも、この国のジャーナリズムは……って、この話は、いくら喋っても、どうにも“おもしろくならない”から、もうやめましょう!(笑)」
――はい。その後のプリンスの歴史とも併せて、この時このメーカーに何が起こっていたのか、全開で(笑)想像を逞しくすることにします。なぜ、あれほどまでに、『R……』で始まる車名のスポーツ・プロトタイプ・カーと、それによるレースに、プリンスが“突っ込んで”行ったのか──。
第四十回・了 (取材・文:家村浩明)