リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第42回
第二回グランプリ以後の“狂騒と空白”

――リキさんが勝利された第二回日本GP。それが終わって後の日本とレース界、またリキさんのその頃などをお伺いしたいのですが?

「ウーン……(笑)」

――あれ?(笑)二回にわたるグランプリ・レースが華やかに終わって、業界も盛り上がって、ご自身もグランプリの“ウイナー”として……?

「確かにダイナミックなGPで、これから日本のモーターレーシングは、もっと凄いものになるなー、と思ったのだけど……」

――え?

「どのへんから話を進めて行こうか(笑)。いま、図らずも“華やか”って言われたけど、その華やかさの中身がね。何もないというか、偏っているというか……」

――レースの話は盛り上がっていても?

「そう! わかってないというか、記事にしても、本質的でないというか。“スピードに命をかける”とか“怖れを知らない男たち”とかね(笑)。たしかに、危険を包括している競技であることは認めるけど、死んでもいいと思ってドライビングしているわけではないでしょ。どうやったら、そうした危険な要素を減らして、そして速く走れるか。レーシング・ドライバーっていうのは、そういうことを探究しているわけで」

――よく、“臆病だから、ぼくは速く走れるんだ”なんておっしゃる方、けっこうおられますよね。

「限界と、さらにその先の領域に挑むという“勇気”は必要。でも、根拠なく、アクセル踏んでるわけじゃないからね、ぼくらは」

――そのへんの、報道のレベルが?

「まあ、レース関係者のマスコミ対応も、いま考えればヘタクソだったのかもしれないですけど(笑)。ドライバーにしても、やれ、血筋がどうとか誰の孫だとか、女優とどうしたとか。せっかく始まった、それまでにないような“ムーブメント”(レース)を誌面や画面で採り上げてくれるのは嬉しいけど、ハズレばかりじゃね、困っちゃうよ(笑)」

――盛り上がりすぎて、第三回のGPは、いったんクールダウンしようと?

「はい、中止になりました、それも突然の話ですよ。要するに、勝てたメーカーは良いとしても、負けた側からすれば、GPで優勝するということはこんなにも大変なことなんだ、というのが初めて解ったんじゃないかと思うのです。そりゃー誰だって勝ちたいですよ、でも、こんな熾烈な開発競争にまきこまれたらたらウチはどうなってしまうのか、ある面では恐怖だったかもしれません。

――主催者も変わっていますね?

「ええ、二回目のGPは正式にJAF(日本自動車連盟)が主催者になったのですが、コースオーナーの鈴鹿サーキットも、第一回の時は鈴鹿に関係の深いJASA(日本自動車レース協会)が主催者で、JAFが公認という形式でしたから、主催に協力的負担と、いうか、鈴鹿自らが日本初の四輪レースの開催にふみきった、というかおっぱじめちゃったという立場でもあったので(ぼく個人の見解ですが、あくまでもね~~)、三回目となれば、かなりビジネスライクな条件も出てくるでしょうし、双方の思惑もあったでしょう。結局は〝あまりにも過熱しすぎたメーカー間競争の冷却〟というようなニュアンスから一年間はGPを休止することに解決策を見いだしたのでしょう。まあ、一方において、排除(と、言うのかな?)、アマチュア、純粋にレースを楽しむクラブマンの出番がないGPになってしまったので、底辺育成の声が大きくなっていった背景もありますよ」

――ははあ……。

「そうなると、メーカードライバー、高っかい給料払っている、今で言うワークスは不必要ですよね」

――それは、リキさん所属の富士重工の場合ですか?

「ウチだけということでなく、どこも同じ考えはあったでしょうね。ただ、ただですよ、ウチの対応はものすごく早くてね(笑)。契約解除の話、今で言うリストラですが、ようするに〝クビ〟の話はあっという間に進んじゃって、あっさりとね(笑)。こういう目に遭ったドライバーの第一号ですから、これはすぐにレース界に広がりドライバー間の動揺が結束への団結になっていくのです」

――と、いうことはリキさんの犠牲、というか解雇がきっかけで日本のレース界に新たな動きが生まれた?

「いや、そんな悲劇のヒーロー的なもんじゃなくて(笑)、一時はガックリきましたが、GPの1カ月後に行われた全日本ヒルクライムでも優勝していたぼくは、舗装路でもダートでもこなせるドライバーとの評価が高まっていましたので、必ずどこかで雇ってくれるはずだという生意気な自負はありましたよ。事実その通りになりました。

――他になにか問題が?

「その当時、自動車の開発はどこも遅れてはいましたが、中でもタイヤの性能は大問題でした。これはレース用だけでなく、来る高速道路時代に向かって、それに耐えうる新たなタイヤ造りにいち早く取りかかったのはブリヂストンタイヤ(以下BS)でした。その準備をしていたBSから「メーカーと離れたのなら、ウチの開発部門のテストドライバーにならないか」の誘いを受けて、ぼくはBSに入りました。

――自動車メーカーからタイヤメーカー、というのは興味深いですね。

1965年に開催された船橋サーキットのCCCレース。アマチュア待望のレースに、ニッサンからのお声掛かりでフェアレディを走らせるはずだったが果たせず。魅力的な“船橋”も、1年で閉鎖されてしまう。

「タイヤテストの面白い話は山のようにありますが、それは別の機会にして、一方では、各地に自動車クラブができたり、また、船橋サーキットの建設が進んでいたり、クラブマン・レベルでのレースが拡大していったのです。そうなると、メーカーも自社の車を使ってくれるクラブをサポートする体制も生まれ、純然たる工場チーム(ワークス)とは別にセミワークスや、その予備軍みたいな系列もできてくるのです。そういった底辺拡大に伴ってサンデーレースやジムカーナ、ラリーといった競技が盛んになっていくのですが、ぼくには走る車もありませんのでレースに出るチャンスはなかったのです。そういったぼくの境遇を心配してくれたニッサン・スポーツカー・クラブの幹部で、第一回GPにフィアットで入賞した宇田川武良さんや、フェアレディーで優勝の田原源一郎さんたちが同クラブから船橋サーキットのレースに、フェアレディで出られるようにしてくれたのです。

――そのレースは、日本GP休止に代わる『全日本自動車クラブ選手権レース:CCC』ですね?

「そうです。全国主要クラブ合同の主催による日本初のクラブマンレースでした。でも、約一年ぶりに、レーシング仕様のステアリングを握ることはできなくなってしまったのです。理由はBSから「待ったっ!」がかかったからですが、、この話は別の機会か、あまり話したくない~~というか、、」

――船橋サーキットの開設が1965年ですね。

「ぼくの立場は別として、そういったカタチの“盛り上がり”はほんとの底辺拡大ということで良かったと思います。ただ、一気にドライバーの数や種類が増えてしまい、ランクづけが必要になり、ぼくらGP組がA級/B級ライセンスの制度づくりを始めたのです」

第四十二回・了 (取材・文:家村浩明)

※本ストーリーは、奇数月末から偶数月上旬にかけて更新を予定していますが、今回は、リキさんがマカオGPの60周年記念の『マカオ・マスターズ』に参戦したこともあって更新が遅れ、お待ちいただいた読者のみなさまに御心配をおかけしましたことをお詫びいたします。
……次回の更新は、1月末から2月上旬を予定しています。

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