リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第44回
マカオ・リバイバル

――ところで、いきなり21世紀の話になってしまうのですが、昨年(2013)11月にリキさんが40年ぶりにマカオを走ったことを聞いたのですが?

「マカオGPが60周年記念の大々的なイベントをやるような話は、1971年からマカオに出た見﨑清志君からそれとなく聞いてはいましたが、主催者の会長からじきじきの招待状がきちゃった(笑)」

――記念のレースに参加してほしいと。

「そうです。今のメインクラスはF3と世界選手権ツーリングカーだけれど、今回は二輪もふくめて13クラスが組まれ、その中に、往年にマカオで活躍したドライバーによる記念レース:SCIROCCO R CHINA MASTERS CHALLENGE RACE を行なうので出場されたし、と」

――突然の復帰、ということで(笑)。

「お声がけをいただいて、古いレーシングスーツ着てみれば、出っ張った腹をムリに押し込んだらジッパーがバラッバラッになっちゃう(笑)。ヘルメットまで今の安全基準で新調したら40~50万円かかりますよ。旅費やら滞在費やら結構、オオゴト(笑)。僕の健康上の問題もあるし、どうしたもんか、と迷っていたら、詳しい案内が届いたんです。その内容にまたびっくりしちゃってね」。

――といいますと?

「ヘルメットとハンスデバイスだけを持参すれば良いということなのです。他は、レーシングスーツから靴からグローブから、全部オーダーメードしてくれるということで、採寸表も届くし、ビジネスクラスのエアチケットも2枚、10日間の宿泊と食費、その他の送迎など、すべて主催者負担ということですから、ここまでしてくれる招待じゃ断れませんよね(笑)」

“60才以上の完走者への特別表彰”8人中、日本チーム全員が受賞

――他にも、日本から参加されたのですか?

「日本からの招待は5人です。マスターズという名前から、大体60歳前後を想定しますから、1960年、70年代に活躍した人、少し先でも80年代始めくらいが該当するという解釈で、見﨑清志(67歳)、舘信秀(66歳)、津々見友彦(72歳)、長坂尚樹(60歳)、それに、ぼく大久保力(75歳)のマスターズ チーム オブ ジャパンができあがったのです、平均年齢68歳です!(笑)」

――日本以外のドライバーはリキさんが走っていた当時のライバルが?

「僕もそう思っていたんですよ。事前の話ではマカオのOBに元F1やヨーロッパの主要カテゴリーのチャンピオンと。こっちは元F1だろうがインディだろうが同じマスターエイジなんだから年齢的には一緒だし、どうってことねーやって思っていたのよ。ところが現地で24人のエントリーリスト見て、えっ!ですよ。舘君も津々見君も、“これってマスターズっていうの?”、と」

――“マスタード”という印象と違った?

「欧州からのドライバーは、91年にF1からCARTに移って96年ごろまで走っていたステファン・ヨハンソンや、去年(2012年)マカオWTCC優勝のアラン・メニュなど、数年前まで現役だった40~50歳台のドライバーばっかり(笑)。マスターズ、OBというからには60歳以上だろう、なんて真っ正直に考えちゃたのは我らだけだった(笑)。60歳以上はわずか8人、その中の5人が日本ですから!(笑)。日本から24歳の国本京佑君がいたけれど、彼の場合は2008年マカオGPウイナーということで特別招待だから例外ですからね(笑)」

長坂君(左)。ルマン優勝者でありチーム・トムスの関谷正徳監督にも手伝っていただいた。

――最初からハンディがあったわけでね。

「年齢もそうだけど、僕らの内でマカオのコースを走るのは、一番若い長坂君でも25年ぶり。マカオの虎から今やトムスの大会長になった舘君だって32年ぶり、僕にいたっては約40年ぶりだから。見﨑君にしても津々見君にしても、何十年ぶりなのは同じだけれど、この二人は年に数回はサーキットを走っているようだから強みだね。それに対して、長坂君や僕と舘君は、何十年もレースなんてしていない。ほんの少ーしだけど僕は新型車の試乗会でサーキットを走ることもあるのが救いかなー。それで“とにかく、こうなったら皆んなケガだけはしないように楽しんじゃおう”ということで(笑)」

――結果としては楽しまれたわけですね。

「レース場通いの日程が始まって毎日パドックへ行きますよね。その度に取材やら話しかけてくる人がいっぱいでね。日本チーム全員が60歳以上だってのが知られてきたんだね。僕なんか75歳だっていうのが知れ渡ったらしく、質問攻め、記念撮影のお相手、パドックじゃニコニコ愛想良くしていなければならないから、営業笑いでほほがつっぱちゃって、こんなの何十年ぶりでしたよ(笑)」

――マシンはどんなものだったのですか?

「主催者が用意してくれるワーゲン・シロッコは、中国国内と東南アジアでシリーズ戦を組んでいる車両です。24台をくじ引きで決めます。完全なレース仕様と聞いてはいたものの、ハンドルは左側、オートマチックチェンジもハンドル両端のレバーで操作するパドルシフト、日本人一同、“これ、どうやって乗るの? “と(笑)。それと、一車づつ専属のメカニックがついてくれるのだけど北京語だから大変。片言の英語や筆談で最小限度のことは理解できても、レーシングカーに必要な微に入り細にわたるコミュニケーションはむりだから困りましたね―」

――レーススケジュールは?

「そういう不慣れなクルマで公式練習は30分だけ、コースを思い出すだけで大変だった。マカオのコースはご存じのように、公道で、まるでオリの中を走っているようなものでね。6.2㎞のコース形状は、私が走っていた頃と変わっていないのだけれど、昔は、海や山肌、畑などに沿っていた道路が、こうも囲まれてしまうと、どこからコーナーに入っていいやら、解らない。結局、運転の仕方(笑)とコース下見で30分の練習は終わり、次の日が公式予選。90度コーナーでブレーキし過ぎちゃったら、うしろからドッカーンてぶつけられたり、ガードレールに挟まれるように追い抜かれたり、まあ今のツーリングカーというのは荒っぽいもんだね」

――それでも楽しまないと、ということですね。

「そうそう。慣れないクルマで四苦八苦するわけですよ。第1コーナーの減速で踏んでるブレーキペダルがいきなりスーット軽く奧まで入り込んじゃって、黒と黄色のガードレールにガッシャーンガラガラッて大激突。60㎞/hだったと思うけれど、それでも、5点式ベルトに加わる衝撃はもの凄くてね、鎖骨・胸骨・頭がガンッと前方にもっていかれた瞬間、もしかしたら胸部どこかの骨折は免れないと覚悟したんだけど、それより僕のせいで赤旗じゃカッコ悪いな―、が先でね、まだミエはってんだねー(笑)。」

――それでも、ご無事で。

「ええ。レース用の5点ベルトとヘルメットの頭が両側からすっぽり覆うレーシングシート、それに首を保護するハンス(HANS=ヘッド・アンド・ネック・サポート)の安全装置のお陰ですね。いい経験になりました(笑)。クルマは、メカニックがノープロブレムって言ってくれる程度で、翌朝にはクラッシュの跡なんかなかったですよ。練習走行のあと、ブレーキが抜けた話やギアチェンジ、足回り、ドライブの仕方など、5人の雑談が始まって、いろいろな話がでるわけ。現役時代だったら絶対にそんな会話もないのに、60周年に招待された同志なんだね。そういった話を聞いていて僕は意外なことに気づいたのよ、僕自身のことでね」

――何か特別な秘密とか

「初めてのマシンということは皆んな同じで手こずってはいるのだけど、僕はどうしても、コース裏手のワインディング区間でマシンが曲がってくれない。足回りのセッティングなのかどうか、仮にそうだとしても調整なんかできないし、ギアレシオだって何だってお仕着せマシンだから直しようがない。でも、仲間のいろんな話を聞いている内に僕自身が原因なのが解ったんですよ。要するに僕はフォーミュラカー専門だったから、ツーリングカーの乗り方を知らないわけ。第一にレースでFF車が多くなったのは80年代でしょ、そんなマシンでロードレースなんかしたことがないないですよ。FRならコーナーの入り口で方向を決めたら一気にアクセル踏み込んで、リアが滑れば逆ハンで踏み込んでいくような走りですからね。長坂君や見﨑君たちの話を聞いていて、FFは、ハンドルを切るタイミングやアクセルの開閉など違っていた。“あっそうゆうことなのー、早くに教えておけよ“’てな感じですよ(笑)」

――とにかく優勝争いは偽マスターズ(笑)にお任せで。

「そうそう、ケガせず恥ずかしくない完走をしよう、で決勝になった。健康上の問題から、多分、喉がカラカラになるだろうと予想して、予め日本で用意した山歩きやトレッキングで使う水タンクを天井のロールバーにつけて、チューブから水分補給できるようにしといたので、これは大正解。

スタート直後に先頭集団があっちこっちでドッカーン、ガッチャンコのぶつかり合い。それらをすりぬけて周遅れなしにゴール。24台中1位は2001、2 、3年とプロダクションカーで連続優勝したD.ハイスマン、2位N.ラリーニなど現役マスターズ。日本勢は若手代表の国本京佑君が10位、以下見﨑清志、長坂尚樹、津々見友彦、舘信秀、大久保力で、ビリにならずに全員完走。まあ上出来じゃないかな、と自画自賛してます(笑)。そして60歳以上&完走者にでっかいトロフィーの授与式があって、日本チーム全員が表彰台に上ったんです」

――マカオでは、こういったビッグイベントは過去にもあったのでしょうか。

「20周年の時だったか、記念の意味も含めたレース後のプレゼンテーションパーティーがあったように記憶しているけれど、今回のような大規模なのは初めてと思います。とにかく2週間の企画ですから。その間にフォーミュラ3、ツーリングカー世界選手権、それに僕らのマスターズチャレンジの三つがメインで13ものクラスがある。何回かのパーティーにはFIA会長、元フェラーリ・チームの監督だったジャン・ドットさん始めレース関係&マカオの政財界人がずらーっと並んだ。

――壮観な眺めですね!!

「これらのパーティーでやっと解ったのは、マカオGP主催者会長チョン・コック・ベン氏のスピーチに『中国では古くから社会は60年のサイクルで回っているとする風習があり、これは中国特有の文化である。GPもその60年を迎えた喜びを皆さんと分かち合いたい。今宵はマカオGPが次の60年に向かって踏み出した日であります』とあるのです。そーか、そうゆうことなんだ、日本の還暦祝いのように、古代中国の影響なんだな、と」

――レースだけでなく、世情を反映した物事がマカオGPにはに息づいているわけですね。

「それと、これも会長のスピーチから、『マカオは年間を通して何十ものイベントがあるがGPは最大のものである』はGP継続を強調するものなのだろう。マカオGPは当初、香港の人達によって実現し、長い間HKAA(香港自動車協会)が運営していたけれど、1985年からマカオ地元の人達(マカオ人とでも言うのか)が担うことになって初めての大大会という記念もあるのだろう。今や主催者がAAMC(Automobile Asosocation Macao-China:中国・マカオ自動車協会)とあるように、中国の大きな支援が今回のビッグイベントを支えているのだろ。そして僕らもまたとない機会に恵まれて感謝感激だが、オフィシャルの何人かと雑談中に、過分な招待への御礼を言うと、『マカオGPがここまで世界的になったのは貴方がたが継続して出場してくれたからですよ、当然のことです』と手を握って言われたのは感激しましたね。

――レースだけでなく、いろいろ考えさせられることが多かったわけですね。

「そうそう、こんなこともありました。パドックで、日本で言うなら中学校一年生ぐらいの少年を連れた50歳前後のお父さんとの記念撮影と雑談をしているときに、少年の肩を抱きながらお父さんが、『私がこの子ぐらいの時に貴方が走ったレースを観ました。もう少しで東洋人が優勝するのを期待したのですが準優勝でした、それでも嬉しかったです。あの時の人が走るのを見られるなんて感激です』、と言ってくれました。僕にとっては、優勝のトロフィー以上に嬉しい言葉でした」

第四十四回・了 (取材・文:STINGER編集部)

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