(1)敗戦から、海外思考の時代へ
――前回のストーリーで、なぜリキさんがマカオGP60周年記念レースに招待されたのか良くわかりましたが、招待といってもパーティーか何かに出席するだけと思っていたのですが、まさか、本物のレースに出ちゃったとは知りませんでした、それも75歳という後期高齢者で(笑)。
「ええ、ホント後期老人でね(笑)。僕も最初はOBドライバーのパレードぐらいにしか思っていなかったんですよ。それがレースでしょ(笑)、現地でも75歳での国際レース出場は記録ものだってね、齢食ってるのもいいことあるもんで(笑)。ただ、出場にはいろいろな問題もありましてねー、健康上のね、まぁ、それは別の機会にしておきましょう」
――マカオの話だけでもいっぱいですが、話を原点にもどしますと、日本GPが始まったことでマカオへの注目が集まった、ということでしょうか?
「そうですね、第1回GPではピーター・ウオアさん、のちにF1のチーム・ロータス監督にもなるドライバーですが、ロータス23のレーシングスポーツカーという、日本にはまったく初めてのクルマや、ポルシェカレラ2などのスポーツカーが登場して、びっくりさせましたが、第2回にフォーミュラカーが来ましてね。フォーミュラといっても当時の1000ccクラスのエンジン積んだフォーミュラジュニアというタイプですが、フォーミュラマシンを観るのも初めてですから、これもびっくりですよ。そのフォーミュラの多くがマカオに出ていたマシンとドライバーでしたから、それでマカオを知った人が、多かったんじゃないでしょうか、僕も初めて知りましたよ」
――国際規模の鈴鹿サーキットができても、レースのレベルでは10年も前から始まったマカオ、それもサーキットではない公道を走っている方がすごかった(笑)そして、次の年に日本GPがないからマカオに向かった?
「いえ、そう単純な話ではないのですが、日本でレースが始まって2年ですし、大きなレースは年1回ですから、他で走れるなら走りたい人は出てきますね。可能ならばレース本場の欧州に行きたいでしょうが、マカオなら近いですから。それと、1960年代中頃の日本が持っていたエネルギー、それが当時、かなり“外向き”だったということにも注意する必要があります。
――といいますと?
「1950年代は、戦争に負けたというその後遺症がありました。それを修復するのに懸命で、それは同時に、日本人が本来持っている潜在能力を発揮するための準備期間でもあったのですが、ようやく海外に眼を向けられるようになった環境もあります」
――はい、それが60年代に入って?
「そのエネルギーとパワーが、60年代に、もうちょっと積極的なカタチで、新生日本の社会つくりという方向に向かいます。いわば、胎動の時代ですね。そのチカラというのは、同時に、海外志向でもありました」
「東京オリンピックにしても、首都高ができたとか、インフラの整備ばかりが強調されますが、あのイベントは、日本が“内向き”だったら絶対にできなかったことです。もの凄い“外向き”志向というか、オリンピックは、世界に向けての新生日本の挨拶だったのですよ」
――第二次世界大戦が終わってから、およそ20年後ですね。
「外を見たい、外に出たい! そういう日本人のマインドがあった。これはレース界も同じでした。鈴鹿サーキットにしても、日本人が“外に”出て行くためのジャンプ台と捉えることもできます。60年代の日本のレース史というと、すぐに、メーカー間のバトルが採り上げられますが、こうした大きな流れ、この時期の海外志向もしっかり押さえておきたいですね」
(2)グランプリに代わるやり甲斐を求めて
――それで、リキさんも?
「ぼくより前に、たとえば三菱は、マカオのレースに参戦してた。これは、実は1962年のことです。クルマは三菱500、そして、750cc以下のカテゴリーで、ちゃんとクラス優勝もしています」
「いすゞにしても、第2回GPが終わったあとの1964年11月にはマカオに出ています。これは、メーカーにとっての、アジアの拠点作りという意味の方が大きかったようですが、日本GPで走ったワークスマシンでも、現地のデーラーチューンの車に歯が立たないのです。日本と欧州とのレベルの違いを痛感したでしょうね」
――なるほど!
「ただ、レース界の場合は、ぼくも含めてだけど、どうして海外志向したかというと、前述のように、第二回GP以後の日本の状況が、あまり“よくなかった”から。とくに、ドライバーにとってね」
――第三回グランプリがなかったから、外に向かざるを得なかった?
「“走る立場”として、もう少し、いい場所がほしいというか……。レースすることについて、本当の“やりがい”を求められるようなところが、ひょっとしたら(海外なら)あるんじゃないかと。まあ、いま、当時の状態を言葉にすれば、こんな感じかな。ちょっと、口幅ったいけどね(笑)」
――いや、わかるような……というか、ちょっと想像できる気がします。レースを報道していた、当時の一般メディアなんかを思い出してみても。
「……というか、何より、走る場を探さなくちゃいけないわけですよ。(第三回の)GPは、もう、ないんだから(笑)。こうした行動力では、たとえばテツ(生沢)は、海外へのクルマの持ち出し、そして、現地での生活。全部、自分で手配して、レーサーとして走る場所を──。自分の能力が発揮できるところを求めて、海外に出て行った」
1965年のスタートライン風景。今はビル群に囲まれ、海岸も汽船も見えない。
――そういう点では、リキさんも同様でいらしたのでは?
「ええ、ぼくもマカオへ。(二輪、マン島の)TTレースじゃないけど、市街地でのレースっていうのは日本では想像しにくいことだから、そういう意味での興味もあったし」
――そのマカオでの初レースが?
「1965年ですね」
――そして、60年後の2013年に、また、レーシングコースを走られて?
「ハハハ(笑)。長く生きてると、いろんなことがありますね!」
――大久保さんをはじめ、マカオに憧れといいますか、新天地を求めていたドライバーが他にもたくさんいらっしゃいましたね。
「ええ、去年11月のマカオ・グランプリ60周年を記念して私も参加させてもらった記念レースのSCIROCCO R CHINA MASTERS CHALLENGE RACEの参加者もそうですが、他にも多彩な顔ぶれがいましたね 」
――それがやがて、佐藤琢磨が2002年に優勝するところに続くわけですが。
「そうですね。金網に囲まれた特殊なレースであることも手伝って、マカオの人気は日本でも高まりました。まぁ、私の眼力も、そう悪くなかったな、と(笑)」
――まさしく!! マカオといえば、力さんを初め、いろいろなドライバーが思い浮かびます。
「いまの世代の人にとっては、優勝したことからも、2001年ウィナーの佐藤琢磨君や2008年に勝った国本京佑君が親しみやすいと思いますが、我々が初めて参加した頃のマカオの顔ぶれは、まさに多士済々で、日本のその後のレースに影響を与える存在もいましたね。その辺りについて、次回に振り返ってみましょう」
第四十五回・了 (取材・文:STINGER編集部)
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