リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第46回
マカオに参戦した多士済々

(1)マカオの先駆者

――前回は、第2回日本GPのフォーミュラカー・クラスにマカオGPの常連ドライバーが多く走ったこともあって、マカオが身近になった。そして、第3回日本GP中止や、今後の日本のレース界の方針などを巡って、海外を目指すドライバーが出始め、その先鋒がリキさんだと思いますが、やがて、佐藤琢磨、国本京祐君など、マカオを制するドライバーが現れるまでになった背景にもう少し触れておきたいと思います。

「あまりマカオ、マカオじゃ、僕がそれしか知らないように思われるようで(笑)、もっと他にも活躍してるのに(笑)」

――いやいや、先駆者という意味でお伺いしたいのです(笑)。

「そもそも、僕が海外レースへの魁というのは大きな間違いで、テッちゃん(生沢徹)のように、さっさとヨーロッパの本格的なF3に取り組んだ例もあります。ただ、お金も時間もかかりますから、日本の内容と違う身近なマカオに眼を向けるのは当然で、年代は別として、トップクラスドライバーの参加も多くなっていきました」

――リキさんがマカオに参戦し始めたころから、その傾向はあったのですか?

「日本のレースは始まったばかりですから、誰がトップクラスか解らないけれど(笑)、“リキができるんならオレだって”、という気持ちの者が多かったんじゃないですか(笑)、ただ実行力が伴わないとねえ」

――リキさん初挑戦の時、他の日本選手も?

「何回か前のストーリーで触れてますが、日本GPが始まる前(1962年)既に三菱が500ccの乗用車で、加藤力、辻元正夫という方が出場しています。翌年第1回日本GPの後、発生川忠成さんがトライアンフで、また、いすゞがメーカーチームを組んで出ましたが、日本からの参加が目立つようになったのは1965年、確かに僕が出た時から、といえるでしょう、他のドライバーや友人もいましたから」

1965年マカオGPの表彰パーティーにて。写真左から、SCCNから日産ブルーバード1300SSでプロダクションカークラス(ツーリングカー1300cc以下クラス)に参戦、3位に入賞した故鈴木誠一、SCCN所属の女優ドライバーの故夏川かおるさん、リキさん、日本のプライベートチームオーナーの先駆者・金原達郎氏、水出博之チームマネージャー。

――どんなメンバーで?

「一番の友人というか前年の日本GPでは大ライバルだった鈴木誠一君ですね。日産ブルーバード1300SSで参加しました。それに、当時30歳くらいの一般的な月給が2万円弱の時代に、505万円もする!ジャガーEタイプで出ちゃった横山精一郎さんがいたけど、あれにはたまげました。まあ別格ですね。

――それは豪勢ですね!!

「当時ジャズピアニストでTVでも人気の三保敬太郎君もロータス・エランでね。高橋朗さんが特注のヒルマン・インプを持ち込んだけれど、ホモロゲーション(型式認定)が取れていなくて出場許可が出なかったり、日本の参加も急に増え、自動車誌や週刊誌の取材も多くなり始めました」

(2)プリンスの参戦計画

――鈴木誠一さんは、リキさんと同じく二輪出身で、世界GPライダーでもありました。

「そうです、その後日産チームの一員になって、東名自動車を設立するのですが、1974年の富士グランチャンピオンレースの大事故で亡くなって……惜しい人材でした……。

――作って乗れる和製ジャック・ブラバムか、ブルース・マクラーレンといわれているドライバーでしたね。富士グランチャンピオンが隆盛を究めた頃の、際立ったキャラクターの人だったという印象があります。アメリカのデイトナでストックカーに出たこともあったし、国内のマイナーツーリングの先駆けになった110サニーベースの“東名サニー”はある種の衝撃でした。

「セイちゃん(鈴木誠一)の事故は、いま思い出しても、惜しいですね」

――いろいろなところに影響があって、星野一義さんを後任ドライバーとして考えていた矢先の事故だったようですね。

「ところでこの年、日産と合併が決まったプリンスが、生沢徹、砂子義一、大石秀夫で参加申し込みをしていたようですが、2000GTのホモロゲ取得が間に合わず、不参加になった記事が現地新聞に大きく載っていましたね」

――え!! 知りませんでした。

「もっとも、仮に出場したとしても、優勝したジャガーMk2の3.4リッターには勝てなかったでしょう。それでも、実現していたらマカオや日本への影響は大きかったと思います」

――そんなこともあったとは!! 当時は、ニッサンやトヨタが海外に出ることに夢を持っていましたから。でも鈴木誠一さんが日産ブルーバードで入賞?

「ええ、この時代、エンジン排気量に制限無いGPクラスと市販スポーツカーのACPトロフィークラスと、 1300cc以上と以下のプロダクションカー、日本の量産ツーリングカーですが、セイちゃんは1300cc以下クラスで3位獲得です。日本初の入賞で、快挙ですが、外国車との性能差を、まざまざと見せつけられもしたのです。このレースの1,2位はオースチンクーパーSでした」

――あのミニ・クーパーですか?

「そう。オースチンやモーリスなどで生産したいくつかのミニがありましたが、それをJ.クーパーという人のスピードショップがチューンしたもので、ワークスマシンではないのに、鈴鹿のGPを走ったメーカー改造のブルーバードが軽く引き離されちゃって、まったく歯がたたない(笑)」

(3)思い知った欧州との「差」

――ミニは日本でも活躍しましたからねー。

「日本との一番大きな違いは、欧州には市販車を競技用(スピードレースでもラリー、耐久でも)に改造するパーツがとにかく豊富で、丸っきり別の車に仕上げられる。日本では、やっとハンドルやブレーキなどのペダルが売り出されたりの程度で、僕もそのレベル差にはびっくりしました」

――欧州車は豊富なチューニングパーツに支えられている?

「欧州だけでなく、オーストラリア、米国など、レースが行われている国にはそれなりの技術が発達している。その車、そのエンジンの何を/どこをチューンすれば向上するのか、まー良く研究されたパーツが豊富なんです。エンジンならカムシャフト、ピストン、ロッドetc、車輪関係ならタイヤなんかイの一番の改良品ですし、ダンパー、スプリング、ブレーキキットなどなど、市販乗用車なら、外観以外は全部特注品で生まれ変わってしまうくらい(笑)。個人や街のショップが、日本のメーカーチューン並みのことを平然と行っているんですよ、レベルが違いすぎます」

――鈴木さんと同じレースでリキさんも入賞?

「僕は市販スポーツカーだけのクラスですから、セイちゃんとは別ですが、前にも話をしたトライアンフスピットファイアで、ロータスエランやポルシェなど相手に総合5位クラス1位でした」

――初挑戦で快挙ですね、私も古い雑誌で見ました。

「ええ、セイちゃんの方が価値あるのですが、僕はスポーツカーでしょ、ツーリングカーに比べて華やかなんですよ、その違いかな(笑)。まあ、とにかく日本からの参加が本格的になると、現地の見方も変わってきましてね」

――見方が変わる?  日本に対してですか?

「そう、“日本もようやく自動車レースをするようになったか”という関心ですが、これには複雑微妙な意味もあるかもしれないね」

――えっ、何か難しいことでも?

「戦争の荒廃から飛躍的な経済成長を続ける日本が、まさか自動車の生産でも、のし上がってくるとは思ってもいなかったでしょう。とくに香港を中心にして東南アジアの大都市は欧米車の輸入も盛んで、車を良く知っていますから、日本の車なんて大したもんじゃねー、が根底にあります。それでも、日本GP以前からあるマカオや他のレースに日本からの参加が増えれば太平洋地域のモーターレーシングが活性化しウエルカム、のムードが芽生えていたのは事実です。

それに、日本車を輸入するデーラーも増え始めた時期で、地元販売店から日本のメーカーに、レース参加への要請も出始めたのです」

――ははー、それでリキさんがダイハツで出たのも。

「そうなんです、1年休止した日本GPで僕がダイハツに乗ったことで、その年のマカオにコンパーノスパイダーで吉田隆郎君と参加するのですが、これは香港、マカオの販売店からの出場要請に応じたものです、 1966年でした。この年には、金力でのし上がってきた友人の瀧進太郎君がポルシェ906(2000cc)でマカオに出たい、と言い出してね、参っちゃったなーあの時は、なんてたってレース3週間前になっての話ですよ、僕も主催者にかけあいましてね。さらに車が現地に着いたのは予選レース前日ですよ、いかに最新ポルシェだって勝てるわけねーだろう、ですよ。案の定、ルマン24時間でクラス優勝したモウロ・ビアンキがドライブのアルピーヌルノー T 66(1300cc)とA.プーンのロータス23にコテンコテンにされちゃってね(笑)」

(4)意識され始めた“日本”

――人生いろいろ、ですね。

「そうね。それと、これは現地デーラーの要請もあったのでしょうが、輸出へのPRでしょうね、積極的に参加するメーカーも出てきました、マツダです。日常貨物の輸送が二輪車からオート三輪に変わりマツダ、くろがね(日本内燃機)、ダイハツと並ぶ三輪トラックメーカーでしたが、マツダクーペの軽自動車を手始めに 1000ccのファミリアで四輪乗用車へ進出したのは第1回日本GPの1963年でした。ダイハツも同じ時期に1000ccの乗用車“コンパーノ”で、トラックから乗用車に転換し、それをレース出場で示したのも似ています。マツダのマカオ参加は片山義美、片倉正美、小野英男、浅野剛男と、前年はロータスエランでリタイアの三保敬太郎が加わる本格的なメーカーチームでした。

――結果はどうだったのですか?

「M.ビアンキのルノーゴルデーニに大差をつけられたものの、片山君が2位、片倉君が3位の上出来でした。マツダは翌年も参加し、シンガポール、マレーシアのGPにも積極的に挑戦してのPRでしたよ」

――そこまですれば日本車の圧勝で。

「ところが、そうはならないのですよ。日本からのメーカーやサポートドライバーに対して、香港や東南アジアの有力な輸入車デーラーは必ず欧州やオーストラリアなどのトップクラスのドライバー&マシンで日本勢を撃退するんです。日本もようやくフォーミュラカーに目が向いてきまして、その普及に積極的な三菱が国産初のフォーミュラ2で望月修、益子治、加藤爽平君らを2年続けて参加させましたが、香港の輸入車デーラーや有力なスポンサーが呼んだマクラーレンやミルドレンなどに蹴散らされてしまうんです、くやしいですよね、そこで僕も」

――ちょっと待って下さい。日本もフォーミュラカーに目が向いてきて、国産初のフォーミュラ、三菱とありますが、既にホンダはF1に出てましたが……

「そうです、1964年~68年のホンダF1第一期と言われる時代でしたが、これはホンダの世界戦略の一環としての挑戦ですから、国内フォーミュラカーの普及とは内容が違います。やはり積極的な普及策は三菱自動車が先導したことでしょう。ただ、ホンダというのでなく、鈴鹿サーキットができた時、20台位のF3シャーシーを買ってフォーミュラカーレースの育成を計画していたのですが、日本のレース方向がビッグマシンの狂走ごっこになってしまったのです。それでも遅ればせながらフォーミュラが始まるようになると、鈴鹿は保有していたシャーシーを採算度外視の価格で売却したことで普及を広めた功績は大きいですね。

――なるほど。

「で、話は途切れましたが、とにかく最初の参加ウエルカムが、日本勢阻止に変わってくるんですね。僕は毎年出るようになって、つくづく感じましたよ、いつかは優勝して見せるって!」

――そういったリキさんの意地が刺激になって、さらに日本からの参加が増えた?

「外国への観光渡航が自由になって4~5年経つと、海外が身近になったのでしょう、今までに出た名前以外に、いすゞの高野光正、米山二郎、片桐昌夫(ブラバムF3)松浦賢(ホンダS800)、鈴木八須男(マクランサ)、真田睦明(日産フェアレディ)、都平健二(日産サニー)君達も参加しました」

――その後、国内レースで名を成す人たちがたくさんいたのですね!!

「1970年代になると漆原徳光(ロータス41)、黒須隆一(ブラバム改ホンダS8)、村田邦夫(ベルコスズキ)、津々見友彦(ロータス41)、武藤憲一(ロータス47)、遠藤栄行(サーティーズTS15)、中嶋悟(ノバ513)、長谷見昌弘(シェブロンB40)、柳田春人(マーチ752)、星野一義(シェブロンB40)のお歴々も参加してきます。彼らと同じ70年代初めから参加した見崎君は、1972年のプロダクションクラスで優勝(トヨタセリカ1600GT)、舘君も現在のトムスを設立した1974年にプロダクションクラスで優勝(セリカ)、翌75年も連続優勝に輝き、マカオの常連も日本勢を侮れなくなってきたのです」

――日本なんか、というとらえ方から、随分かわったのですね。

「見崎君の参加はこの後も1980年代後半まで続き、舘君も1971~84年まで連続出場で僕よりも長くマカオへの挑戦が続いたのです」

――まさに多士済々ですね!! それにしてもこんなにも多くのドライバーがいたのですね。

「その後、香港の自動車界が実質的な運営者であったマカオGPも、1985年から、中国&マカオの人達で構成される組織に変わり、今では世界ツーリング選手権、F1への登竜門フォーミュラ3のメッカとして世界に出ようと思うならマカオGPへの出場は欠かせない存在になったのは嬉しいことです。

――その間、マカオじたいも随分とイメージ・チェンジをしたと思います。

「僕が走っていた時代のコースも路面もマシンも今とは比較できませんが、いつも、その時代なりの困難があります。僕のGPクラスでの記録は、日本人初とはいえ1971年の準優勝が最高位で終わってしまいましたが、それから30年後の2001年に佐藤琢磨君が、2008年には国本京祐君が優勝するまでになり、やはり世代が代わって日本のレースレベルが全般的に上がらなくては優秀なドライバーも生まれないということでしょう。

――そのつながりがあったから、去年の11月の60周年記念レースへの手厚い招待になるのですね。

「そういった経緯でしたから、大変ありがたいことでした」

第四十六回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com