リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第47回
グランプリは、鈴鹿から富士へ

(1)船橋サーキット

----前回のお話で、マカオに魅せられた日本人の状況がよくわかりました。ところで、マカオに目が向くキッカケになったといいますか、鈴鹿サーキットで2回のグランプリが大盛況の元で行なわれた後、1965年の第3回日本グランプリは中止になっています。
それもあって、リキさんを初めとする“海外レース志向派”が誕生するわけですが、日本では、1年置いた1966年に、日本グランプリは富士スピードウェイに舞台を移して開催されることになりました。

「その辺りの状況は、実は、日本のレースの歴史上でとても大切な要素がいくつか含まれているんです」

----鈴鹿サーキットから富士スピードウェイに移った事情には、いろいろあったんですね?

「そうです。富士スピードウェイのコース特性、そして船橋サーキットの運営などが微妙に絡んでいたのです」

----船橋サーキットは、なんとなく理解できます。鈴鹿サーキットや富士スピードウェイに比べると、比較的小型サーキットで、クラブマン待望の、そして東京の都心からも随分近い千葉県船橋市に存在したわけですから。

「1965年5月に予定されていた日本GPは、前年までの市販車レースはあまりにも問題がありすぎることから、欧州に倣ってフォーミュラカーレースを導入する動きがあったようですが、時期尚早論が大勢を占めたのと、GP開催権を巡っての問題とがごちゃごちゃになって、結局GP中止以外の解決策がなかったんじゃないでしょうか」

----そうなんですか、鈴鹿の日本GPは非常に盛況に見えましたが。

「第一回のグランプリは、JASA(日本自動車スポーツ協会)と鈴鹿、というかホンダなのか、まあ傀儡政府のような(笑)独断開催で」

富士スピードウェイの初期段階完成予想図。当初、デイトナ・インターナショナル・スピードウェイを模したオーバルコースとして誕生するはずだったが、第一コーナーのバンク部分の工事が完成したところで、ロードコースに設計変更が行なわれた。

----第一回が始まる前に、リキさんはどんなレースなのか? JASAに電話で聞いたりしたようですが、これは取材だったのですか?

「その頃二輪レース以外にモーターサイクル出版社(現八重洲出版)の所属でしたから、取材というか、まあどんなことなのか個人的な興味もあって電話もしましたが、直接JASAの事務局に行ったのです。そしたらね、浅間火山レースのライダーだった水沼平二さんや学校の同級だった江端良昭君、彼はのちに鈴鹿サーキットの総支配人になるのですが、とにかくホンダの知り合いが何人もいるんです、たまげましたねー、ああそうゆうことかと。それでホンダの全面的な後押しがわかったということです」

------鈴鹿が出現した、そこで二輪は新しいレースの時代になった、四輪もレースを実施する機運が高まった時代になったということですね。

「いえ、それは違います。“四輪もレースが必要で、それをやろう”なんて動きはまったくなかったですよ。たぶん、鈴鹿を造った本田宗一郎さん初め、レースの何たるかを知っているホンダグループが“とにかく四輪のレースをぶちあげないことには始まらない”といった調子でしょう(笑)」

----鈴鹿サーキットは、いわば地主的な役目だったわけですね。しかし、ならば、第三回も自然の成り行きとして・・・・。

「ところが、そうは問屋が卸さない(笑)」

----それはなぜなのですか?

「第一回GPをやってみて、レースの厳しさや勝つことの重要性を知ったメーカーが第2回で熾烈な闘いを繰り広げるのですが、テスト走行するにも1時間25万円も費用がかかる。考えてみれば何でもかんでも鈴鹿に金を払わなければならない構図に疑問も出てきたのでしょう。そういった不満はありますよ。何といったってGPをするには鈴鹿しかないのですからコースレンタル料にしたって問題は出てくるでしょうね」

----最初は鈴鹿としても四輪レース普及の目的もあって、コース使用料も協力的な対応をしたでしょうが、JAF(日本自動車連盟)が明確な主催者となれば応分のコース料を払わなければならないでしょうね。

「そう。ところが、その頃のJAFは、発足したばかりで運営力も充分ではないし、結果的に1965年の日本GPは中止になってしまったのです」

----なるほど、その流れの中で船橋サーキットが注目を集めることになった、と。

「日本GPに代わるものとして、ワークスでなくても参加できる“全日本自動車選手権レース”が7月に開催されました」

----浮谷東次郎や生沢徹の活躍で注目されたレースですね。でも、評判がよかった船橋サーキットのはずですが、長続きしなかったのはなぜなのでしょう?

「船橋サーキットは、船橋ヘルスセンターの母体である朝日興行が経営していてね、現在、ララポートというショッピッグセンターになっている場所ですが、結局、経営的に考えると、投資の割に儲からない、ということだったんだと思いますね。いいコースだったので残念だでした」

----意外と、あっさりと消えてしまったのてすね。

「ピエロ・タルフィというF1GPやミッレ・ミリアで活躍し、名誉総監督として鈴鹿の第2回日本GPのアドバイスをしたイタリア人ドライバーの設計で、3種類くらいのコース組合せができるサーキットでしたから、小規模のレースなら二輪でも四輪でもその規模に合わせられたことが魅力でしたね。クラブイベントでも支払えるレンタル料だったこともありますが、マイナス面では、来場者の駐車場スペースが少なかったり、運営設備の不備が多かったことなどが上げられます」

(2)1年間の休止、そして富士へ

----そして1年休んで1966年に富士スピードウェイに移るわけですが、コース特性がどう影響したのでしょうか。

「まぁ、慌てなさんな(笑)。その前に、富士は富士で、いろいろ問題を抱えていた。当初の富士スピードウェイは、ご存じのように、元々はオーバルコースになるはずだったわけです」

----そもそも、名前のスピードウェイは、デイトナ500の開催コースであるデイトナ・スピードウェイの流れと聞いたことがあります。鈴鹿がサーキットなのに対して違う呼称にしたのは意味があった、と。

「そう。しかし、そもそもが、鈴鹿と違って、富士は興行を主体にしなければならないわけです。ホンダがバックに構える鈴鹿のように、メーカーがついていてテストで使ったりできませんから。さらに、そのデイトナに似たおむすび形のオーバルコースにするはずだった計画が、途中で頓挫した。NASCAR形式のレースを日本で開催して経営のバランスを取るのは難しい、ということがだんだんわかったんだと思います」

----“NASCAR形”をやめたことについてなにか問題が出たのでしょうか?

「コース設計の段階から、NASCAR、National Association for Stock Car Auto Racingの略ですが、そことの契約があったんです。経営母体が、日本ナスカー株式会社という名前だったくらいですから。しかし、NASCAR形式のレースを日本で継続することは無理と考えるようになって、いくらかは知りませんが、違約金を払うハメになったのです」

----事情がわからないままに手を出して騙されたんでしょうか。

「それはわからないけれど、当時、その日本ナスカー株式会社はアメリカのNASCAR本部を訪ねて、相当額の違約金を払ったと聞いています」

----その経緯でオーバルの話はなくなったのですね。

「その結果、途中で計画を変更してなんとかあの形、といっても、今は草ぼうぼうになったバンクがあった古い6kmのコースですが、それが完成したのが1966年(昭和41)の春先でした。日本GPは、鈴鹿か富士かという議論があったのですが、結局、鈴鹿は辞退しています。しかし、辞退というより、比較できなかったというのが正しい状況だったでしょうね」

----条件的になにか違ったのでしょうか?

「条件もなにも、鈴鹿は、コースレンタル料を当然、請求しますが、富士は、新しくできたばかりだったし、いわば、“ただでもいい”くらいにビッグレースがほしいでしょうね」

----富士スピードウェイは、鈴鹿に比べれば、遥かに東京に近いし、いろいろ魅力的に映りますが。

「鈴鹿は、ホンダのテストコースとして使えたけれど、富士はいわゆる“レース地主”として生きなければならない。都心から1時間ほどという地理的な利点もあって、富士スピードウェイへの期待は大きかった。ただ、方針を見誤ったと思いますね」

----もしかすると、それが、コース特性になにか関係しているとか?

「ははは、そのとおり。富士スピードウェイは、全長6kmの雄大な高速コースですから、スピードを売り物にすることを考えたわけです。大排気量でスピードを見せるんだ、と。それが、やがて1968年にアメリカとカナダを舞台に隆盛を究めていたカナディアン・アメリカン・チャレンジカップを招聘した『日本CAN-AM』の流れになっていくわけです」

----その頃からレースに興味をもったファンにとって、7000ccの2座席ビッグマシンは魅力的でしたが。

「それは、1966年にインディカーを呼んで開催した日本インディも含めて、興行としてはいいんだけれど、日本でフォーミラは、あってもF2で、観客にとって分かり易い迫力、という意味では大排気量のビッグマシンに適わない。ということで、それが日本人がフォーミュラカーに出て行けない原点になってしまったと思うのです。ある意味、1966年の日本GPが富士スピードウェイに決まった瞬間に、日本のモーターレーシングの方向が決まったと言えなくもない、と」

----ホンダはF1に出て行ってしまっているし、他のメーカーは、第一回と第二回の余韻もあって、富士スピードウェイの方針に合わせて、ビッグマシンに流れていくわけですね。

(3)“ビッグマシン”

「1966年と1967年は、それでも2000ccのプリンス/日産R380やポルシェカレラ6/10が主役だったからいいけれど、その後は、1968年に富士スピードウェイで行なわれた日本CAN-AMにひっぱられる形で排気量がエスカレートして、日産もいすゞも、アメリカ製のエンジンを積むという、なんともみっともない手段に走っています。海外のメーカーとうまくやっていこうとしたと言えば聞こえはいいですが」

----それ以外にも、富士スピードウェイで復活した日本GPにはなにか問題が?

「トヨタは耐久レース指向、日産はスプリントレース指向だったのです。だから、復活した1966年のGPも、レースの方針でモメています。結局、両社の言い分を聞いたような中途半端なレギュレーションになってしまった。ひとつの現れが、6kmのコースを60周するという中途半端な距離でした。1967年も同じくメインレースは60周で行なわれています。1968年には80周に延ばされて、若干、耐久レース寄りになり、1969年には120周レースになっています」

----結局、耐久レーススタイルになるのですがスプリント派だった日産が勝ち続けるというのも奇妙ですね。

「一方で、あまりにもモンスターマシンの狂走になってしまい、1969年、これは当時の流れのビッグマシン最後の日本GPになるのですが、小排気量グループが反旗を翻す事件も起きています」

----どうしてそんなことに?

「レースは一定の排気量/規格のマシンで行うのが基本ですが、当時は排気量の異なるマシンを寄せ集めないと台数が足りないのです。賞典はクラス別と総合というように分けられるのが普通でした。ところが、この時のGPは、ホンダS800のエンジンを搭載したプライベートコンストラクターのマシンから、ローラT-160の7600cc!!まで40台以上だったかな? の参加になったのです。

主催者(JAF)は、GP2カ月前に予選通過は富士スピードウェイ6㎞の一周タイムが2分20秒(平均時速154km/h)以内の規定で参加を受け付けたのですが、が、レース4日前になって突然、この規定を“予選最高ラップタイムの20%を上限とする”に変えてしまったのです」

----それは、小排気量組にとっては随分な話ですね!?

「これを具体的に説明すれば、参加申込み時の2分20秒が2分+αぐらいになってしまい、まず2000ccでも予選通過が難しい基準なのです。要するに大排気量車というか大メーカーでしょうね、“ちっちぇーのと一緒じゃ危なくってしょーがねー”ってなことですよ。小排気量車ドライバーの激怒は当然ですよ。

ぼくもホンダ1300の空冷エンジンを積んだプロトタイプカーでしたから、これじゃあ走る前から予選落ちですよ。そこでね、ぼくやホンダS800ベースマシンの木下昇さん、ロータス47GTの高野ルイさんなどが中心になって規定の撤回をもとめたんですが、がんとして認めないのです。おまけに“お前ら、走りてーならチッコイ車だけのレースを組んでやってもいいんだぜ“ぐらいの調子ですよ」

----話が違うじゃないか、ということになりますね。

「もう爆発ダー、ですよ(笑)。そこでレース運営委員の猛省をうながすクーデター計画を練るんです。決勝レースのスタートを阻止する・多賀競技長を拉致する・コントロールタワーを占拠する・グランドスタンドで抗議のビラをまく、などなど、刑事事件でパクられるの承知での蜂起です」

----お〜っ、結果はどうだったのですか?

「競技長が監禁されてしまってはレースができませんから(笑)。結局は元の予定どおり、無事に翌日のレースに、大排気量と一緒に走ることで一見落着ですが、二日間にわたる夜通しの抗議で、答が出たのは予選走行日の朝4時ですよ。ぼくなんか、とても走れる状態でなく、結局予選落ちしちゃった(笑)」

----外からは見えないいろいろなことがあったのですね。

「まあ良くも悪くも暗中模索の時代、皆んなが燃えていたんでしょうね。この時代は他にもいろいろ複雑なことが起きているんですよ」

----それは?

「日本GPは10月に行なわれたんだけれど、5月に、JAFPGの名前で、もうひとつの“グランプリ”が行われたのですが、JAFのレース体制の独断的なあり方に有力クラブがGPへの協力をボイコットする反旗を翻したのです。それを鎮めるためにクラブ代表者をスポーツ委員会に加え改善する約束だったのですが、これも反故にされたまま秋のGPになってしまったのも騒動の原因の一つでした。」

----そもそも、グランプリという名は、一国で年に1回だけしかできない取り決めですよね。

「“日本GP”は、すでに10月に、大排気量2座席スポーツカーのレースとして開催が決まっていたの、でその年の5月は“JAF”の名を冠したフォーミュラカーのレースが行なわれたのです。そして、それがたすきの役目をして、翌1970年から、フォーミュラレースのJAFGPを挟んで、1971年からフォーミュラレースの日本GPが再び復活するんだけれど、日本でのフォーミュラレースはもう一つ盛り上がらないままだったですね。ジャッキー・スチュワートやジョン・サーティースといったF1の世界チャンピオンも参加して一端は注目を集めたけれど、結局は、1960年代のような盛況を見ないままでした」

----1969年までの、メーカーが巨額な開発費をかけたビッグマシンのレースが終焉して、そこで“第一期日本GP時代”が終わったわけですね。

「そう、1960年代後半は、良くも悪くも、日本のモーターレーシングが、非常にエネルギッシュに活動した時代と言えると思います。この時代の、日本の自動車の周辺を観ると、歴史的ないくつかの動きも起きています」

----1960年代後半に、ですか?

「そう。その辺りについて、次号でお話しましょう」

第四十七回・了 (取材・文:STINGER編集部)

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