リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第49回
S500の価格当てに570万枚の応募ハガキ!!

(1)官庁、政府の横車に喝!

――ところで、観光渡航自由化や東京オリンピックの年に、ホンダが突如F1グランプリに挑戦しましたね。

「ええ、そうなんですが、オリンピックを間近にした夏、日本国中の盆踊りは♪ハァーあの日ローマで眺めた月がよ、今日は都の空照らす~~♪だったかな?(笑)、三波春夫の東京五輪音頭がガンガン流れ、それに新幹線だー、カラーTVだー、旅行だ、キャバレー通いやマイカー族になるぞーって。おまけに服装、ポップス、映画、社会意識etc、何もかもアメリカン文化に毒されっぱなし、浮かれっぱなしの世の中。戦後初めてではなく、日本国始まって以来じゃないかな、あんな極楽トンボの時代なんて(笑)」

――そんなイイ時代が青春だったなんて、うらやましいより腹が立ちます(笑)

「とにかくね、ガンガン働いて頑張れば生活が向上する実感があったのは事実ね。その多くは物質上の豊かさを求める庶民に受け入れられる異常な経済発展が支えたのだけれど、精神面や人生哲学なんか二の次の軽薄そのものの世相だから(笑)、まー始まったばかりの自動車レースもその一員(笑)なんだろうけど、まだまだF1がとんでもなくハイレベルなスピード競技であることなんか知られていない時代にあって、ホンダなのか本田さんというのか、国や世間の動きも関係なく、こっちはF1だぞっ!て感じですよ(笑)」

――そうだったんですね!

「僕らからすれば、えっF1? すっげーこと始めたなーですけど、社会的には何のこっちゃ? よほどのクルマ好きでなければ知りませんからニュースにもなりません。
他の自動車メーカーだって、F1参戦への価値なんか解らないでしょうね。第一に、この2年前(1962年)10月に東京・晴海で開催の全日本自動車ショー、現在の東京モーターショーですが、で360ccのスポーツカーを発表したものの、翌年に販売したホンダ初の四輪車はT360というトラックですから、オートバイ屋のやることは何がなんだかワカラネー(笑)ってとこでしょう」

――オートバイでは成功したホンダですが、まさか本当に四輪へ参入するとは思ってもいなかったでしょうね

「先にも触れたように、鈴鹿サーキット完成で真紅のホンダ360スポーツカーがお披露目され、F1計画も出されていましたから、いつかは参戦するのかと思ってはいましたが、オートバイエンジン排気量の125ccを12個並べて1500ccにしちゃったF1を造っていたとはねー(笑)、やはり異常(笑)ですよ。でも、あとになって考えれば異常でもなく、本田宗一郎さん独特の工夫だったのではないでしょうか。

――工夫? というと

「この頃、オートバイの世界GP参戦も4年目に入り、勝利への目安がかなり掴め始めたのではないかと思います。そうなると、本田さんにすれば、若い時にのめり込んだ自動車レースも戦争で全うできなかった思いを、いつかは実現したい気持ちでいたことでしょう。

その強い思いをもちながらレーシングオートバイを開発していれば、四輪への技術応用はいくらでも考えつくでしょう。さらに二輪GPの制覇も夢ではなくなってきた流れを考えれば、早くF1に出たい気持ちは痛いほど解ります。その個人的野望とは別に、まったく別次元での四輪参入を急がなければならない事情もあったのです」

――別の事情? レースとは無関係の、ですか?

「ええ、レースではなくて、当時の政府は外国からの貿易自由化圧力に日本の各種産業の強化を図る通商産業省(通産省)作成の『特定産業振興臨時措置法案』(通称:特振法)を実現させようとしていたのです」

――特振法?? どんな内容ですか

「粗っぽくいえば民間が勝手にやっている各種産業を政府主導で同一業種ごとにまとめようということです。その筆頭に鉄鋼・石油化学・自動車の産業が特定産業に指定され、合併や整理統合の対象になったのです。自動車でいえばトラックと乗用車を分け、現在トラックだけのメーカーは乗用車に参入できないなどの内容です。さらに小さなメーカーの統合など、およそ自由経済を無視した政策です」

――ああ、その問題ですか、本田宗一郎さんが、大反対して、酒の一升瓶を持って通産省に座り込んだという(笑)

「一升瓶の話は知りませんが(笑)、本田さんでなくても大反対するのは当然でしょう。当時、ホンダは2輪中心で四輪は生産していませんから、こんな法案が成立したら、将来描いていたクルマ造りができなくなってしまいます。幸いに ”どう考えてもおかしい”と考える議員も多かったのでしょう、この法律は廃案になりました。
でも本田さんとすれば、何がなんでも四輪への進出を果たさなければ、いつまたこんな馬鹿げたことが浮上するかもしれない危機感もあったはずです」

――そのような官僚の独善的発想を蹴散らすようなエキセントリックな四輪への飛び込みは、いかにもホンダ的で

「まあそうでしょうね。ただこれだけの大騒ぎの中での四輪進出ですから、他社とは一線を画する自動車でなければインパクトがありませんよ。これからの自動車の在り方やイノベーションを具体化したものとして軽自動車のスポーツカーを発表したのでしょうが――。

マツダもダイハツもオート三輪メーカーで乗用車はなかったですから、マツダはマイクロカーのクーペから本格的軽自動車のキャロルを、ダイハツは貨物車シャーシーを流用したコンパーノで急ぎ市場参入したのに対し、ホンダは注目の360スポーツカーではなく、T360という軽トラックの発売でした、1963年8月ですから第一回GPの3ヵ月後です」

――ホンダも四輪へ急遽進出といったところですが、ダイハツの1000cc乗用車やマツダ・キャロルに比べると見劣りするみたいで(笑)。

「いきなりスポーツカーと思いきやトラックですから(笑)車種からすればそうでしょうが、やはりホンダのクルマなのです」

――ホンダのクルマ……、何か特別な?

「当初は、やはりスポーツカーを出す予定だったと思いますよ。だが軽自動車が隆盛な時代といっても軽はマイカー入門のユーザーが多いですから、誰が考えたって2シータースポーツカーが売れる時代ではありませんよ、それこそ“何のこっちゃ”ですよ(笑)。
やはり、将来へのクルマ造りの夢と現実を考えての結果が軽トラックだったのでしょう。
それにはホンダ独自の視点があったのです。ホンダの得意先は小さな規模のオートバイ店が多いですから、二輪を運べるトラックの方が売りやすい背景もあります。ただトラックといっても360ccDOHC四気筒、キャブレターも四つ! のちに整備性の悪さから単キャブになりましたが、360スポーツと同じではないものの、運転席の下に置いたエンジンはスポーツモデルで開発した構造の、最高回転8500、30馬力! ですから、とんでもないトラックだったのです(笑)」

(2)初めてのスポーツカー

――そうすると乗用軽自動車はその次に、ということになりますね

「いーえ、本格的な軽乗用車はそれから4年後の1967年3月ですから、ずーっとあとになりますが、これがまた大ヒットで」

――当時は、16歳で軽免許が取れたので、高校生の間では、軽自動車は憧れでした

「軽自動車のクラスがあるジムカーナの人気が出たり、軽自動車のエンジンを積んだフォーミュラカーのFJ360が盛んになったり、その内に360ccで36馬力など、リッター百馬力競争になっていくんですが(笑)、その話は別の機会にしておいて、ホンダはT360トラックの次からはスポーツカーに力を入れていくんですね。四輪進出への初陣は軽トラックでもスポーツトラック(笑)いえね、実際にそう呼ばれたんですよ、ただ4気筒の排気音ばかり威勢が良くてね速くない(笑)。

結局、幻の360スポーツは需要の問題があるのと、パワー不足で思うように走らないことが解ったんじゃないかと僕は思っています。それで500ccへと排気量を増大し、トラック発売の2カ月後(1963年10月)にS500の名称で市販するのです。ただ僅か3カ月後の翌64年にはS600になって、やがて800へと大きいエンジンになっていきますが、最初のS500の売り出し方がセンセーショナルでした」

価格当てクイズのハガキ応募が570万! 大いなる話題を呼んだS500。写真は、こちらも業界に例を見なかった試乗会で赤いS500に乗る、喜色満面の本田宗一郎社長。

――初めてのスポーツカーだから大宣伝した?

「今でいうプロモーションの考えがあったかもしれませんが、発売前に新聞、雑誌などにS500の市販価格はいくらか? というクイズのコマーシャルを大々的に展開したのです」

――正解者にはS500進呈とか(笑)

「どうだったかなー(笑)、クイズや懸賞の賞金(品)には制限が厳しい時代だから覚えていませんが、大きな反響を呼んでね、確かハガキ応募の570万枚!は新記録!だとかで、一番多かった答がたしか48.5万円……その価格を参考にして、販売価格を45.9万円に決定したような話を聞いたことがあります。仮に話が合っているならば原価計算などしていないのかなー(笑)」

――それはすさまじい数字ですね。いまならインターネットで情報は広がるでしょうが、当時は、新聞広告やラジオで拡散したのでしょうね

「当時のハガキ代が5円だから合計で2850万円、儲かったのは郵政省(笑)。その話題に輪をかけるように翌年のF1グランプリ参戦ですから、本田宗一郎さんからすれば、特振法なんてヘンテコな法律考え出した連中に”どーだこの野郎”って啖呵切った勢い(笑)。まあそれは品の無い僕の見方で(笑)、とにかく新しい自動車の在り方を早くも提案したのでしょう」

――新しい提案??

「要するに乗用車に求められるのは、乗り心地が良いなどは当然として、何人もが乗れて荷物も沢山積めてという、まあ現代の新車発表会でも何かとゴルフバックいくつ入るとか、荷物スペースに目が行く貧乏根性変わっちゃいないけど(笑)、とにかく自動車というのは“楽しく乗れる/走れるクルマ”でなければならないのだ、の見本を示したかったのではないかと思いますよ」

――なるほど、そうゆう視点もありますね。今でも名車ですから人気が高かったでしょうね

「そりゃ自動車が所有できるなら、どんなクルマだって欲しい時代ですから、スポーツカーなんて憧れの的です。開発には欧州の名車をかなり参考にしたようですが、四気筒DOHC500cc(正確には531cc)44ps/8000rpm! まるでレースエンジンですよ。欲しい人は沢山いますが、この年、賞与を含めたサラリーの正確な平均年収の調査が始まって、その統計では44万7600円ですから夫婦子供二人の生活者収入一年分になりますから、若い層には無理でした。

それでも他社の中型乗用車は年収の3~4年分ですから思い切った価格ですよ。それでも買えない層の方がは多いですから“まあ欲しいけど、二人しか乗れないんじゃねー”ってイヤミを言って本当はガマンして(笑)」

――そうなると街の中、スポーツカーがブンブン走り回るほどじゃない(笑)

「あったり前でしょ(笑)。スポーツカーなんて特別な存在ですから乗るにも勇気がいってね、モテますけど(笑)。ただ幌の屋根でオープンカーになれば何でもスポーツカーに見られた時代ですから、とんでもないスポーツカーもどきがあったり(笑)。

それと、ちょっとクルマに知識がある人や、実際にMGやトライアンフ、ジャガーなどに乗っている昔のセレブからはウソっぽいスポーツカーに見えるんですよ、舶来品崇拝の時代ですから(笑)。他の自動車メーカーもS500のような車がガンガン売れる環境とは思ってもいませんから、ホンダの手法や革新的構造に舌をまきながらも、やはり特殊なオートバイメーカーという見方で、のちのちのライバルとは思わなかったのではないでしょうかね。ま、ぼくの若かった時代の見方ですが」

――しかし、最終モデルのS800は、レースの活性化には大いなる影響を与えるわけですね?

「S500から半年ほど経って、第二回GPの2カ月前に606ccのS600が発売され、後にF1に乗るロニー・バックナム、田中楨助、北野元君など世界GPライダーやホンダスピードクラブのエース達がGPに出場しています。

エスロク(S6)の異名でレース界に旋風を巻き起こすようになったのはこのGP以降で、多くのプライベートがこの車でレースに参加するようになってきました、これは偉大な成果です。

この新しいユーザー層に気づき逸早く対応したのはトヨタです。空冷2気筒エンジンのパブリカを徹底した空気抵抗の少ないデザインで開発したトヨタスポーツ800でS6の1年後でした。そうすると今度はホンダがその1年後(1966年)、S6のエンジンを791ccに拡大してS800となり、トヨタとホンダの小型スポーツカー競争が一世を風靡するのです。“ヨタ8 VS エス8”の時代です、今こうゆう楽しくもエキセントリックなレース見られないですねー(シンミリ……)」

それで、ホンダのモノの考え方は、本田宗一郎さん自身が行ったこともないマン島TTへの挑戦に代表されるように、どんな場所や条件でも、そこで闘うことで自分を磨き活路を見出す、四輪への参入にしても、他には真似できない挑み方で独自のブランドイメージを作ろうとしていたのではないかと思います」

――そういったクルマ造りやレース内容に新しい流れが出始めたのは、1963年と1964年のわずか2回の日本GPレースが大きなインパクトになった、それはスズカという走る場所が出現したことが一大素因ではあるのですが、この流れがもっともっと大きくなる期待に水をさすように3回目のGPが中止になってしまい、場所も富士SWに変わっていきました。その日本のレース界が不透明な時期にリキさん達は海外遠征への先鞭をつける、そして新たなGPで再スタートの時代になるのですが、これも混乱から破滅への道をたどっていくのですね

「その通りです」

――このストーリーも、そのパートに入りかけているのですが、今年から第4期、いやホンダではこの呼び方はしないそうですが、ともかくホンダのF1活動が再開して、マクラーレン・ホンダとしてのF1参戦が始まります。そこで今回、ホンダF1参戦の糸口にふれましたので富士SWとGPの話からそれますが、次回はホンダF1ルーツに寄り道したらどうでしょうか。

「あっ、それはいい所に気づきましたね、昔の話は2,3回遅れても腐りませんから(笑)、新たなホンダF1へのベースを振り返ってみるのも今後の参考になりますね。意義深いことですから、次はその辺りの話に入りましょう」

第四十九回・了 (取材・文:STINGER編集部)

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