1)マクラーレン・ホンダ
――F1GPも先日の(2015年5月24日)第6戦が終わりましたね。市街地公道がコースになる伝統のモナコGPでしたから、何かと注目を集めました。ジェンソン・バトンが予選で惜しくもQ3入りはできませんでしたが、重量検査を無視したドライバー(フェルスタッペン+トロロッソ)と、ギヤボックス交換のペナルティを受けたドライバー(グロジャン+ロータス)がいたために10番グリッドでスタート、初の8位ポイントゲットでした。この結果をどう見られますか。
「おっ、いきなりグサッとくるような難問で(笑)、まあ、おめでとうは皮肉っぽいし(笑)、喜ぶのも早すぎますが、どうにか先が見え始めたというか、レース参加への準備ができてきた感じかなぁ」
――アロンソはリタイヤですが、マクラーレン・ホンダとして段々と速さも身について完走率が高まってきたようで、いよいよ上位進出の時期がきた、と期待の声も上がっていますが?
「そうはいきませんでしょ(笑)。ただ、モナコGPでの上位完走は今までの完走とは違います。とくに市街地コースは華やかなスピードレースを演出するデザインで造られた常設コースと違いますから、マシンも頻繁な加速・減速・ブレーキングに対応できるエンジン特性が大きく響きます。高速は強いけど低速は弱いとか、あちら立てればこちら立たずなんか言っていられないのです。どんなコース場面でも平均的な性能が維持できないと完走もおぼつかない。そういった特殊コースで、さらにエンジンチューニングに制限が加えられる後発参入チームに不利な状況下を考えれば、今回の完走はこれからに大きな成果を残したのではないでしょうか」
――ですね。厳しい言い方をしてしまうと、モナコは公道で、全GP中では最も平均速度が低いものの、ガードレールに囲まれたリスキーなレイアウトですから、ドライバーの意図する運転操作に応じられるマシンのポテンシャルと独特なセッティングが要求され、この中低速コースでは上手くいったようですが。これからのF1本来のハイスピードのサーキットでも同じようにいくのか、ですね。
「当然ですよ、結果だけ見て喜ぶのは、まだまだ(笑)ですが期待は広がりました」
――確かに、勝利はいつか? ばかりで進んでしまうと大きな落とし穴に……。
「F1に詳しい人には、新規参入チームに課せられた技術的ハンディーの問題も解りますが、そういった専門的なことの説明がTV解説でも専門誌でも解りやすい説明が少ないのです。日本でのF1GPも、鈴鹿に定着して連続開催されるようになってから28年経っていますから、F1がとてつもなく大変な世界なのも理解されてきて、ホンダの新たな挑戦を長い目で見るようになってきましたが、技術面や新参チームの立場として何が、どういった面が難しい、困難なのか、ファンが共鳴できるコメントを出してもらいたいですね」
――仰る通りですね。
「F1のレギュレーションは次々と変わり、新しい技術競争ごっこ(まあ、どうかと思いますけどね)ですから、過去に培った栄光の技術力がどのくらい通用するのか僕も興味深いのですが、いずれにしろ、F1のみならずモーターレーシングがどれだけ奥深く厚味のある世界であるか多くのファンが改めて認識するチームコメントが不足してはいないでしょうか」
――実は編集部としても、ホンダチームに、その辺りのことについて、お願いしているのですが。
「そうですか。どんなふうに?」
――リキさんの仰ることと少々異なりますが、一つには、マクラーレン・ホンダというフレーズがどう受け止められているか、というようなことも。
「多くの人にとって、“マクラーレン・ホンダ”といえば、第二期の絶頂期のイメージでしょうからね、16戦15勝した。しかし、そう同じように進められる世界じゃないのは周知でしょう」
――セナとプロストで16戦15勝したのは1988年ですが、第二期に復帰したのは1983年で、勝てるようになるまでには結構な時間がかかっています。
2)ホンダF1のイメージ
「ウィリアムズ・ホンダの初勝利は第二期が始まった翌年の1984年でしたか。デビューしたての情況は試行錯誤の連続だったようですね」
――ウィリアムズの前に、F1復帰を担ったスピリットも、実は川本さんの戦略でホンダが出資して立ち上げたF2チームが前身で、F2を元にF1マシンを作ってそこにターボエンジンを押し込んでの参戦でした。要するに、第二期F1のデビュー前に、F2に始まる段階的な準備期間があった、ということですね。
「川本さんは第一期でメカニックとして現場の辛酸をなめていますから、F1というより本場のレース世界がどうゆうものか良くご存知だったのではないかと思いますよ」
――その翌年の1985年には終盤3連勝して、そこから破竹の連勝が始まり、1986年のウィリアムズがホンダ・エンジンを積んでコンストラクターズチャンピオンとなり、F1の中枢であるドライバーのワールドチャンピオンになったのは、1987年のネルソン・ピケですから、実に5年間かかっています。
「16戦15勝のマクラーレン・ホンダはその翌年の1988年でしたから、やはり簡単にことが運んだわけではないのです」
――さらに、第二期当時のターボは、今年のパワーユニット(※)といわれる動力源より、簡単とは言わないまでも、はるかに単純な構造で、研究開発も、ある意味、開発費とエネルギーを注入すれば対応可能だったと言えるかもしれません。
(※)2014年からエンジン排気量が、それまでの2.4リッターから1.6リッターV6気筒ターボになり、最高回転数 15000rpmと、エンジンの発する熱・回転運動などの回生エネルギー利用の電気モーターとのコンビネーション動力に変更され、エンジンではなく“パワーユニット”と呼ばれるようになった。
「確かに、それでも簡単だったわけではないのでしょうが、ターボ構造は市販車にも採用され、長い歴史もあって、それをレーシングエンジンに高める技術が多様化されていました。しかし、新時代のハイブリッドエンジン(HV:内燃機関&電気パワー)をさらに進化させるかのようなF1パワーユニットが究極の自動車動力になるのかどうか。
第一に、ハイブリッドの原型は120年近く前、既にあったようで、それ以前にも外燃機関+電気モーターがあったというから新発明でも画期的技術でもないのです、おっと素人学者みたいな講説になっちゃったけど(笑)、F1によって急速な進化と新技術が生まれることは間違いないね」
――さらに、ガソリンエンジンがモーターレーシングで異常な成長をしたように、今度はF1がHV技術の牽引役の様相を呈していますけれど、スピードレース本来の見所を犠牲にしてまでの技術開発優先はどうなんでしょうかねー。あまりメカニズムがややこしくなってF1人気が下がらないかと、の懸念もありますね。
「F1に参戦する後発チームにはパワーユニットのアップグレードにも制限があるようですが、多分これはF1参戦への時間的ハンディからでしょうが、そういった制約や目まぐるしく変わる諸規則がF1人気に無関係ではないですね」
――レースの一面は技術開発競争ですから、ホンダ・ターボがチャンピオンエンジンになる過程で、当時の責任者、LPL(ラージ・プロジェクト・リーダー)だった桜井淑敏さんは、開発の状況を、“ボコボコ壊れた”と仰っていました。
「レーシングエンジンというのは破壊と向上の繰り返しですから、これは何もF1だけの特殊な話ではないのです」
――しかし、最近は、シミュレーション技術が発達して、壊すことを事前に察知できるようになっているようです。でも、開発過程で壊れなくても、本番で壊れちゃしょうがない、というか。
「レース中に、何度か、壊れる前にピットインさせてリタイヤしていることもありますね」
――シミュレーションで“読める”ことは、“想定”があるからと思いますが、その想定がどのレベルかわからないのでは困ります。
「研究段階での想定と、実際に人間がマシンを操作する実戦とはまったく違うんですよ。その辺りは経験や人間の勘、想像力なのですが、コンピューター頼りで、それに気づかない技術者が増えているんです。数字の説明や理論ばかりのアタマが良いだけじゃレースカーは造れませんっ!(笑)」
――なので、私、編集長(山口)としては、その想定できる次元がどれほど高いのかを、チームから広く伝えてもらえれば、ファンの応援の仕方がもっと変わると思うのですが。
「以前のF1と違って、こうゆう新しい課題に苦心しているんだ、とか」
――そうですそうです。そうしないと、仮に勝っても……。
「そんなこと言えるワケないでしょっ(笑)、でも、早く目の前が明るくなってもらいたいなぁ。誰だってそう願っていますよ」
――第一期(1964-1968年)の時は、私が原体験をしているわけではないですが、伝え聞くところによると、そうした周囲からのイメージがあって、ホンダは応援したくなる対象だったのではないでしょうか。
「前回だったかな、本欄でも話しましたが、その当時、一部の自動車好きにはビッグニュースでしたが、広く世間の話題にはならなかったですよ。スズカでの日本初の自動車レースは知られたものの、F1って?、そうゆう認識レベルですよ。ただ、オートバイの世界GPタイトルは手中にする、さらに四輪市場にも参入、そしてF1ですから、そのバイタリティーへの憧れや、レースなどの技術部門に携わりたい入社希望者は一気に増え、後年、活躍の技術者でこの時代にホンダへ入った人が多いそうです」
――結果として、そういう挑戦ができる会社に入りたい、というリクルートにも活用できた。
「そうです。ただ、1960年代は日本が一気に飛躍した時代ですから他の企業も活気に満ちていましたが、ホンダの場合は特殊な雰囲気というか、優れた人材が多く育ったのではないですか。だが、近年そういった年代層が一気に定年退職の時期にきましたから、今度のF1チャレンジは新たなホンダへのイメージになるのではないでしょうか。その意味合いでは大変なプレッシャーだなぁ(笑)」
オートバイから四輪車製造への試行錯誤に追われながら、F1参戦計画も進んでいたとは、ただ唖然とするしかない。1963年のホンダ四輪開発現場に、その後F1の監督となる中村良夫さんが中央に写っている。(中村良夫さんのアルバムより)
――第二期の頃のエンジニアの方の中には、1965年のメキシコGPの勝利を映画のニュースで観たのがきっかけで、入社試験を受けたという方もいたそうです。第一期のマネージャーでいらした中村良夫さんや関係者の話では、その影響は大きかったようですが、当時と今を比べて最も違うのは、本田宗一郎さんがいるかいないかというような。
「それはあるでしょうが、でもね、今、往時の活躍のTV番組などでもそうゆう場面が出てきまして、本田さんの薫陶や大激怒を受けた当時の方々は幸福でしょうが、神様を現世に迎えようたってムリな話で(笑)。要は本田宗一郎さんの、何を・どういった考え方・実践手法・失敗例etc即ちイズムを現代にどう活かすのか、が重要なのであって、上辺ばかりの伝説で終わってしまっているように思えてならないのですよ」
――そうですね。本田宗一郎さんが1954年にぶち上げたマン島TTレース出場宣言の中で“自分の造った自動車で世界のレースに挑戦して、我が本田技研の使命は、日本産業の啓蒙にある”と言っていますが、まだ二輪だけの小さな会社の社長が世間にこれだけの檄を飛ばすには、本田さんなりの緻密な計画と方針を持たれてのことだったのでしょう。
「そう、単に会社を立て直すために社員に呼び掛けたのではない。この時代、やたら大物ぶってデッカイことばかり言うのを“ラッパ吹き”といってね、そうゆうオッサンが多かったけれど、本田さんの宣言は次元が高すぎて、言っている意味が解らない人のほうが多かったんじゃないかなぁ(笑)」
――それを宗一郎さんは、社内だけでなく、社外に向けても発信していた……。
「当時、一般メディアで話題になった記憶はないけれど、TT宣言を出した頃、僕はトーハツ(東京発動機)というオートバイに乗っていてね、その販売店にしょっちゅう行っていた時、そこのオヤジさんが“ホンダっていうのは、外国の何ていう名前か知らないけど凄いレースに出るんだってねぇ”、とびっくりな話をしていたのを思い出すけど、二輪業界には知れ渡っていたみたい。でも、僕は良くわからなかったなぁ」
――さらにマン島も、宣言から参戦まで5年、さらに天才ライダーのマイク・ヘイルウッドなどの外国ライダーが乗るようになって、念願の優勝を重ねるようになるには2年かかっていますね。
「そうです、そこが起点になってF1がスタートするわけです」
3)F1参戦の意義
――それだけ準備が大変ということですね。
「準備というか、オートバイGPでこのレベル、この成績に達したら次の目標はF1だ、という路線が敷かれていたのかどうか……、そうとは思えません。確かに四輪市場に乗り出す後発メーカーとして、誰もできないF1挑戦は大きなインパクトになりますが、前回、ロータスから話のあったエンジン供給が破談になって、オール・ホンダF1での挑戦を始めるには、偶然性や流動的な要素もからんでいたのではないでしょうか」
――1983年から始まる第二期も、1978年に二代目社長の河島喜好さんから、モーターレース総責任者の川本信彦研究所社長(当時)に、“F1をやってもいいぞ”という号令が出たようですが、川本さんが“準備が必要”ということで、「まずはF2をやらせてください」とお願いして、地固めをした、という過程があったということです。
「V12気筒1.5リッター、空冷など、エンジンだけでも次々に違うものを開発しなければならなかった第一期、それもたった4年間で、そういった目まぐるしいF1の世界を知ってしまえば、おいそれと手出しできないでしょう。まして最初の試練から休止して10年もたっていれば欧州のレース界も変わっていますから、情勢探りや先の見通しにはF2、それもレース界の御大ブラバムへのエンジン供与は目の付け所が違いますね。ブラバム・ホンダのエンジンは1000ccでしたね」
――ですね。第一期当時の参戦理由として、最初のマネージャーだった中村良夫さんは、“自動車の技術後進国だった日本を、苦しいけれど手っとり早く欧米のクルマの水準に追い越し追いつくための一つの手段としてのグランプリ参加”と、内部の方の意見を挙げて説明されていました。モーターレーシングという極限状態の中で短期間に世界のトップに近づこうとした、ということですね。
「前にも触れていますが、四輪市場への進出、二輪GPの成功が与えた世界的影響、これらの土壌が社内には育っていたでしょうから、従業員も“おー、どんどんやってくれー”の雰囲気にあふれていたでしょう。レースがやりたくて仕方がない本田さんにすればシメシメってところ?(笑)」
――そう考えると、今の参戦の意義はなんなのでしょう?
「僕はね、今度の参戦で一番大きいのは“やはりホンダだねぇ・そうこなけりゃホンダじゃねぇよ”の期待を取り戻したんじゃないかと思うのね。期待といってもすぐに勝つとかでなく、挑戦する姿にまずエールを送っているんですよ。だから勝てなくても良いじゃないではなくて(大笑)、やがては期待通りのことをやってくれるだろう、と、長い目で見られているというか、昔と違ってF1がどうゆうものか解っている人がふえてきたのです。
それと2000年からの第3期でしたか、途中からシャーシー&エンジン自前のフルコンストラクターでの参戦になって、エンジンがどうの車体がどうの、と言い訳ばかりだった時と違い、今回はマクラーレンというでっかいチームが“シャーシーはOKだから、すっげぇエンジン造ってくれって”いうような雰囲気があって(笑)、ファンとしても何か安心めいた(笑)気休めがあって……。
とにかくね、内燃機関が動力の自動車が次世代になって、何の動力が主流になるのか、地球資源存続の美名を看板に、それぞれの思惑がからんだ開発競争ですから、この技術分野を制したいと思うなら、その最高の競争に挑まなければならないでしょう。
仮にHV以上の技術が生まれれば、また流れは変わるでしょうが、トヨタプリウスとともにホンダインサイトでHVの先陣を切ったメーカーとすれば座しているわけにはいかないでしょう。
先月、母国へお披露目に飛来したホンダジェット機は初飛行までに17年、販売運行までに29年かかっていて、そうゆう〝じっくり〟の土壌がホンダにもあるんだなぁ、と感じたけれどF1はそんなこと言っちゃいられない(笑)」
第五十一回・了 (取材・文:STINGER編集部)
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