リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第53回
富士スピードウエイで何が変わったか

新たなレース方向に

――このストーリー第47、48回では、日本GPが鈴鹿から富士SWに移ったことや、海外観光渡航自由化が始まったことで、日本から外国のレースに出場するケースも出てきた話でした。そのあと、今年からホンダがF1活動を再開させたことで、ここ3回ほど新しいF1の話題が続きましたが、今後はホンダの成果やトピックの機会に触れることで、本題に戻していきましょう。

「そうですね、鈴鹿で花開いた自動車レースが過熱し過ぎて、メーカー間の熾烈な争いや色々な弊害を生み、このままでは日本のレース界の先行きが混乱し、レース中止の時期がありました。その後1965年に船橋サーキットの完成でクラブマン中心のレースが生まれ、翌1966年(昭和41年)には首都圏近郊に富士SWが開場したことから日本GPの再開になったのですが、山口さんは富士SWのレースに特別な感慨を持たれているようですね」

――私事で恐縮なのですが、私がモーターレース、特に4輪ですが、興味を持ったのが高校時代の1960年代後半ちょうどこのころです。ホンダのF1も気になりましたが、それ以上にニッサンとトヨタが中心となるビッグマシによる“日本クランプリ”が、情報が多かったこともあって身近でもあり、最も勢いを感じていました。
そして、日本全体が、“なにか”を期待し、夢を抱いていた時代だと思います。モーターレースも例外ではなかったと思います。

「この話は何度も出ましたが、1963年、1964年の日本グランプリに国産自動車メーカーはこぞって鈴鹿をめざしましたが、ホンダは国内なんかに目もくれなかったくらいF1に没頭して、他の自動車メーカーとは異なっていました。とはいえ、ニッサンもトヨタ、いすゞ他のメーカーも次のGP目指して、いろいろ模索していたのは事実です。とくにGPで勝利を逃し、美酒に酔えなかったメーカーは次期決戦への準備にとりかかっていたでしょう」

「しかし、レースがこれ以上過熱したらどうなるんだろう、の警戒論も出始め、それが段々と拡がったことと、もう一つは鈴鹿でGPを開催することへの批判中傷がごっちゃごっちゃになって、GPのみならずレースはダメって、中止しちゃうのだから、昔の大人は単純な思考だったんだね(笑)」

――ハイ、それで船橋ができてクラブマンレースから再開になった頃、富士SWができつつあって、竣工と同時に第3回GPが富士に移るお話も聞きました。
ちょうど、その頃からです、私もレース専門誌を買い始めたのは。その後、どんどん興味が膨らんで富士SWのレースは特に印象が強く、ある種のカルチャーショックとして脳裏に焼きついています。

「確かにインパクトあるイベントが多かったですね。とくにレースの数は多くなったのですが、年一回のGPレースの内容が他のレースに与える影響はますます強くなってきました」

――高校のクラスの中で、日本グランプリの話題が普通に語られたりしていました。週刊『平凡パンチ』のグラビアに、レースが登場するのもそう珍しくなかった時代ですね。

「レーサーが憧れられた時代でしたね」

――そうなんですが、リキさんは、実は我々が憧れたビッグマシンが、日本のレースの方向を見誤らせた、というようなお考えのようですが……。

「いやいや、そういう純粋な少年の夢に横槍を入れるのは申し訳ないけれど(笑)、実際、あそこでのレースがとんでもない方向に向かってしまった時代もあります。特に日本のレースの国際化という面では、その後の成長が少なくとも遠回りしてしまったでしょうね」

――今回は、その辺りを掘り下げてお話を伺えればと思いまして……。ビッグマシンという、その純粋な少年たち(笑)が憧れた大排気量マシンが、富士スピードウェイのバンクを走る姿は憧れでした。さらに、1968年と1969年には、アメリカとカナダを主戦場にしていたビッグマシンの競演として名高いCAN-AMが富士スピードウェイに招聘されて、バンクのあるフルコースではないですが、左周りの4.3kmを舞台に、『日本カンナム』が2年間開催されました。その本場のレースにも、心踊らせました。

「それはそれで、富士SWという大きくて広い、いや広すぎかな(笑)。とにかく、でっかい豪快なコースにふさわしいレースは何だ?の考えが先走ってしまったのは事実ですよ」

――元々オーバルコースになるはずだったのを無理やりロードコースに転用して大きなコースになってしまった。

「要するに鈴鹿とはまったく異なるコースデザインで、鈴鹿がテクニカル重視の欧州型なら、富士はハイスピード偏重の米国型です。だから、第3回GP以降、富士にレースが集中してスピードを売りにしたのは効果的だったでしょう。
山口さん初め多くの若者が、その迫力にハートを揺さぶられたわけですから、それ自体を否定しませんが、僕も何回も出場していますからね(笑)。けれども、猛スピードの出しっこが自動車レースであるような風潮になっては、本当のモーターレーシングが育たないのです」

――お説は随時伺いますが(笑)、その大きな富士SWで1966年にGPが再開となったレースはどのようなものだったのでしょう。

「鈴鹿から富士にGPが移って、それまでのツーリングカー(市販乗用車)中心のレースが大きく変わりました。特に第2回でグランドツーリングカー(GTカー)のクラスにポルシェ904、マーコスGT、ロータスエラン、ホンダS600、日産フェアレディー、プリンススカイラインGTなどツーリングカーよりスピードと操縦性に特化した自動車の白熱した走りに、やはりレースは、こういった車種でやらなきゃねー、と言ったかどうか知らないけど(笑)、スポーツカーの開発に火がついたのは間違いないのです。早速にトヨタ2000GT、プリンスR380が製作され始め、次のGPも鈴鹿で行うとしても、こういったカテゴリーが中心になろうとしていたのです。ところがGPが富士SWに決まったのは良いとしても、どんなスピードも呑み込んでしまうコースにふさわしいレースとは何か?で意見がまとまらないのです」

プリンスとトヨタの思惑を表わす1966年日本GPのスターティンググリッド。手前の2台はプリンスR380はレーシングスポーツカーのプロトタイプ。その奥には市販間近なトヨタ2000GTのプロトタイプ。それに日産フェアレディを改造したプロトタイプが並ぶ。鈴鹿から富士に移った初めてのGP。コースの“規模”がその後の流れを変えていくことになる。

――それは自動車、というかマシンの種類のことですか?

「まず、自動車レースを始めた意義は、レース車つくりから派生した技術を市販車に活かし、国産自動車の性能を高めることにあったのです。1955年に、性能が劣っている国産オートバイの質を高めるために浅間高原レースが始まったのと同じです。ところが、第2回GPでは10クラスのレースですから、一つのクラスの周回数も短く、短時間だけ走れれば良いギンギンにチューンしたマシンで良いわけです。果たしてそのような競争に意義があるのか疑問も出始め、もっと周回数の多い、耐久性能が問われる内容でなければならない、という意見がでてきます。そうなると排気量の異なるツーリングカー全部が出られるクラス分けなんか出来ませんから、現に市販している車をチューンするのでなく、各メーカーの技術力を発揮したレーシングカーでレースをやろう、という方向が出てきます。そうなると純粋なレーシングカーが造れる、また、その意欲があるメーカーしか出られませんので、ツーリングカーとGTカーの補助的クラスが作られ、大方3種目のカテゴリーにまとまるのです」

――レースクラスのスリム化というか、今日の原型のようなものが生まれるのですね。

「ですから富士SWでなく、仮に鈴鹿でGPが続いたとしても、この3クラスが主流だったでしょう。ただ、ツーリングやGTなど市販車以外で、メーカーの技術力を発揮する種目となれば、これがまた難しくてね。ロータスやポルシェのような2座席&ボディーで覆ったレーシングスポーツカーもあれば単座席のオープンホイールカー:フォーミュラカーもあります。それで、フォーミュラかレーシングスポーツか、また喧々諤々で。フォーミュラカーを中心に考えるべきだ、の意見もあったのですが、大勢はF1に乗り出したホンダのマネなんか出来るかっ、これはまったく僕のヤブニラミか嫌みだけど(笑)、素通りされちゃったみたい(笑)」

――えっ、もしかしたらメインはフォーミュラカーになっていた?

「それは、いずれ話しますが、とにかく富士SWでのGP再開は、メインのレーシングスポーツカー(一定数以上市販のレース用スポーツカー)&プロトタイプスポーツカー(試作のスポーツカー)・グランドツーリングカー:GT(一般に購入できるスポーツカー)と特殊ツーリングカーの3クラスで行ったのです。ここで、ツーリングカーに‘特殊’の名称がありますが、市販乗用車に大幅な改造を認めたもので、第2回GPのギンギンチューンの名残りですね。そして正規のレースではないのですが、フォーミュラと小型プロトスポーツ混走のエキジビジョンが加わりました」

――そしてプリンスR380が華々しいデビューを……。

「まあ、そうあせらないで(笑)結果としては、プリンスからはR380、トヨタは2000GT、それにポルシェ906やフォードデイトナなど新粧の富士SWにふさわしいマシンが揃いました。ただ、富士だからではなく、第3回GPが鈴鹿だったとしても同じようだったでしょう」

――そうなんですか、富士だから本格的なマシンが揃ったように見えますが。

「これも鈴鹿の第2回に深く関係しているのです」

――鈴鹿と富士ではコースの形態も違うのに、ですか?

「鈴鹿の第2回となれば、やはりポルシェ904(ポルシェカレラGTS)が伝説ですが、日本の自動車メーカー、それも技術者が初めて目にした市販レーシングカーだったでしょう」

――初のGP第1回で国際スポーツカークラスにポルシェカレラ2やロータス22など出ましたけど、それとは別で?

「確かに日本初登場ばかりでしたが、外国のスポーツカーを外国から持ってきて外国のドライバーが走ったのとは大きな違いがあるのです。第2回では、その年の春先に販売されたばかりのポルシェ904を式場壮吉君が買って、彼自らがドライブして、プリンス自動車が総力をかけて造ったスカイラインGTを蹴散らしてしまった凄さです。要するに、日本人でも買うことができる自動車にメーカーが敵わなかった事実ですよ。尤も‘買える’といっても当時の値段が1千万円とも言われたようで、それがホントなら今の2億円近くになりますからねー(笑いどころか唖然--)。まあ、憧れのジャガーEが約500万円でしたから、その2倍以上は確実でしょうね」

――そんな凄いのを買った人がいるのも驚きで(笑)

「話というのは、それも庶民に関係ない額のお金になると尾ひれがつくもんで(笑)、式場君が買えるわけネーとか、あれはプリンスを一人勝ちさせないためにトヨタが買って彼に乗せたんだ、とか色んな噂が飛び交い、メディア格好の材料でした。僕はヒンがいいから(笑)そんな下世話な話に興味ないですが(笑)とにかくね、日本のメーカーもポルシェみたいなものが造れるようにならなくてはダメだ、のショックを与えましたねー」

――R380もその影響から?

「そうでしょうね、第2回GPが終わった夏ごろには‘よしっ、ウチだって’と、プリンス自動車の試作が始まり、それがR380の原型といいますから。いろいろ批判渦巻く第2回GPの内容を変えるには各メーカーの技術力をレースカーに表わす考えも芽生えたのでしょう。それがフォーミュラかどうかは既に話しましたが、いずれにしろ第3回はプロトタイプなり市販レーシングカーなりの路線が敷かれ出していたのです」

――そうなると、プリンス一社だけが先走っていたようで

「いえ、トヨタも同じですよ。第1回と違って第2回で良いとこなんか全然なかったトヨタにしても、やがてGPはレーシングカーが中心になる予想はしていたでしょう。ただトヨタには日産フェアレディーのようなスポーツカーがないですから、系列会社がパブリカを高度にモディファイしたトヨタスポーツ800を出しますが、これは1965年3月ですから、GPが中止にならなければ当然にトヨタ戦力の一つになったでしょう。しかしトヨタが狙う本格的なスポーツカー計画も1964年末には動き出していたようです。これはオートバイのヤマハと共同開発のトヨタ2000GTですが、プリンスR380のプロトタイプレーシングカーでなく、市販を前提にしたGTカーですから両社の路線は異なっています」

――でも、第3回のときは、まだ市販していませんね

「そうです、まだ試作段階です。それと第3回のメインレースはスポーツカー中心の方向は決まって、それは正解なのですが、周回数の短いスプリントレースと耐久性重視の意見で又もや荒れて、結局、プロトタイプスポーツカー&市販スポーツカーによるスプリントでも耐久でもない60周360㎞で両者の折り合いをつけるのです」

――そうなると、トヨタ2000GTは市販前ですからプロトタイプスポーツカーですね。

「そうです、プリンスと同一のジャンルですが、トヨタはこのレース1年後(1967年5月)に市販開始していますからプリンスのプロトタイプとは根本的な違いがあります。それと、ニッサンの看板スポーツカー・フェアレディーに6気筒DOHCツインスパークのエンジンを載せ、FRPボディーで軽量化したフェアレディーSなる特殊車?、オート三輪車から四輪トラックに転向、さらに乗用車に乗り出したダイハツが1300㏄のプロトタイプスポーツカーで出場を決めるなど、日本のレースも大きな方向に向かい出したのです」

――それに、またもやポルシェが加わって

「そうなんですよ、どうしても人騒がせなポルシェがついて回りますが(笑)、それと肝心な僕はこのGPに出られなかったのですが、突如に状況が変わって……、まあそれも次回ということで」

第五十三回・了 (取材・文:STINGER編集部)

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