第3回日本GPが踏み出した新たな方向
――前回は、自動車メーカーの覇権争いの様相を呈し始めた過熱なGPレースを一時中止した。その代わりに自動車クラブ主催のレースが、東京近郊に出現の船橋サーキットでの開催を挟んで、富士スピードウエイでの日本GPが再開され、新たな日本のレースが始まった話でした。
「そうですが、元々はGP再開の場所は鈴鹿サーキットが当然のように見られていたのです」
――えっ、関東にもサーキットができたから、富士SWになったのではないのですか?
「そういった雰囲気はありませんでした。第一に当初の日本ナスカーから富士SWに変わったとはいえ、その成り立ちから米国型のハイスピード専門の競技場で、通常のレースのイメージとは別の代物と見られていました。僕もそうでしたし、でっかいアメ車が豪快に走り回り、スタントカーのような見世物というか興行性の強い特殊なレースをやるんだろうってね。だから第3回GPも鈴鹿が当然で、じゃあどんなレース内容(クラス)がふさわしいのか、という課題の方が先行していたのです」
――スポーツカーや、やはりフォーミュラカーという路線だったのでしょうか。鈴鹿と言えばホンダですから。
「鈴鹿・ホンダ・日の丸F1で、“日本もフォーミュラカーをやるのかい?”てなことで何か疑い深い見方で(笑)。そうゆう意見も当然にありました。とくにオートバイ世界GPに関わったり、欧州の自動車事情に明るい見識の人達からはね。鈴鹿サーキット自体が当時のF3シャーシーを20台くらい保有してましてね。やがてはフォーミュラカーレースの開催計画があったでしょうが、大方の日本グランプリへの意見は、従来の車両規定を厳格に見直しての市販車改造クラスとスポーツカーですね。しかし、結局はGP開催の条件や運営方針をめぐって鈴鹿とJAF側の紛争で、鈴鹿がダメなら富士があるよーってな感じで富士になっちゃった、というのかな(笑)。まあ、裏でどんな取引があったか知らないけれど、富士SWとすれば渡りに船・漁夫の利というか、ラッキーな話で(笑)」
――せっかく新たなレース方針が出かかったところで振り出しに。
「まあ、振出しですが、前回も言ってるように、今度は富士の高速コースにふさわしいレースとは何か? ということになったものの、日本には本格的なレーシングマシンは無いし、外国から招いたのでは外車ショーになっちゃって(笑)国産自動車技術向上が名目のGPにならないでしょう。そういった状況で目玉となれば、やはりスポーツカー(GT)になってしまいますが、トヨタ2000GTは翌年発売ですから、市販車では日産フェアレディ、トヨタS800、ホンダS800、べレットGTなど、あとはクラブマン所有のポルシェ、ロータスなどの外車を集めれば何とか格好はつきます。とにかく、慌しく富士でのGPが決まったので、日本のレースの指針などの考察もないその場しのぎです。GP再開の基本はそうゆうレベルで始まったのです」
富士スピードウェイで初めて行なわれた1966年GP。バンクを行くポルシェ906とプリンスR380。下は、B5サイズのプログラムと公式通知、そして、英語のままで冊子になった車両規則書。
――GP再開の場所は決まったけれど、超高速コースにふさわしいクルマがない(笑)。
「そこから、速いクルマとなればGT車ですが、日本で速いとなればスカイラインGTS-54Aくらいでしょ。第2回GPのように、高性能な外車スポーツカー買っちゃう者も出てきますから、市販車ではなく、また、外車に負けないスポーツカー開発をうながす意味もあってプロトタイプ(試作車)のクラスをGPの目玉にしよう、の意見でまとまったのです。それでも、短距離スプリントか耐久レース型なのか、もめたようで、どっちでもない60周360㎞に落ち着いたということでしょう」
――それで、ようやく日本も本格的レーシングカーへの一歩を踏み出して。
「プロトタイプスポーツカー=試作のスポーツカーですから、本来は市販を前提に開発中の種類になるのでしょうが、実質は一定の生産量を義務付けた二座席のレーシングカーということでしょうね」
「それと従来は、GPというのは唯一無二の最高レースを表す意味で何クラスもある大会そのもの(全体)をGPレースとしていたのですが、第3回からは、いくつかあるクラスの中で最もレベルの高い種目一つにGPの称号をつけることになりました。プロトタイプスポーツカーのクラスがそれにあたります」
メーカーの思惑と“新生GP”
――でも、日本にはそれに該当するマシンがなかったのでは?
「トヨタ2000GTの話は既に知られていましたが、まだ開発途中でしたから、それをベースにしたマシン、まあ本当の意味のプロトスポーツカーですね。それに対し、プリンスは第2回GPで、まさかのポルシェ904に蹴散らされた雪辱に開発中のR380ですが、これは市販目的ではなくプロトの車両規定に準じた本当のレーシングカーですから、トヨタとは対照的です」
――同じプロトタイプでも、トヨタは世界レベルの市販スポーツカー、プリンスはレーシングカー。大きな違いですね。
「プリンスは第2回GP終了後すぐに、翌年のGP用に特別マシンを開発し出したようですね。プリンス自動車の先祖も旧中島飛行機だから、やはり戦闘的なようで(笑)。短期の開発だから、ブラバムのフォーミュラカーをベースのシャーシーにプリンス2000GTの直列6気筒SOHCエンジンをベースにした、4バルブDOHC・ドライサンプ潤滑・ウエーバーWチョークキャブレター3個などの特別エンジンを搭載したR380を造り上げたけれど、GP中止で一年遅れのデビューになったわけです。でも、この延期は幸いだったのではないかと思いますよ。これほどのエンジンでも当初は200馬力程度だったのが250馬力くらいに上がったという話ですから」
――これで、安泰かどうか解りませんが、国産マシンの新生GPが始まる、と。
「まっ、そうだった、でしょうね。でも、またポルシェが出ばってきて(爆笑)それも前回の904をもっと進化した906ですよ。世界にまだ数台で当時の価格が1千万円強とかの話でしたから今ですと1億数千万ではないでしょうか。それを買っちゃった御仁が瀧進太郎さん。彼は、この一件から注目されるようになって、ますますエスカレートするのだけど、その発端は第2回GPの後だったかな、川口オートレース場(かな?)のサンデーレースから船橋レースで火がついて、それも最初からロータスのレーシングエラン買ってですから発端の度合いが違う(笑)」
「それで(笑)一変に第3回GPが脚光を浴びて、それも東京近くの富士SWですから注目されるわけです。GP運営者は瀧に感謝、でしょうね」
――そうなると、トヨタ2000GTとプリンスR380だけの対決でなく、第2、第3の滝さんが出て来る?
「そうです、フォードデイトナコブラ(ドライバー・酒井正)、ジャガーXKE(横山精一郎、安田銀治)などに、僕の最初のマカオのオーナー・金原達郎さんが買ったアバルトシムカ(佐藤清人)やロータスエリート(波嵯栄菩武)などのエントリーがありまして、まあ初めての富士ということもあるのでしょうが、結構、サマになるもんです」
――結構な陣容ですが、肝心な日産は?
「そうそう日産を忘れちゃあいけない(笑)。日産は、僕の見方ですが、第1回GPのスポーツカークラスで外車のトライアンフやMGを寄せつけずフェアレディー1500で優勝しましたが、これはワークス体制ではなかったのです。当時、日産は1963年からアフリカのサファリラリー参戦準備の最中でしたから、鈴鹿の四輪レースは寝耳に水だったのでしょう、僕もそうでしたが、おっとオレと日産を一緒にしちゃいけないね(笑)、それで鈴鹿のGPどころではなく、日産車の愛好者クラブの田原源一郎さんがレースに出るというので側面的な手助けをしたのです。それで勝ったのは幸いですが、GPの影響があまりにも強いので、翌年の第2回から本格的なワークス体制を敷いて、二輪レースで活躍していた田中健二郎や鈴木誠一らを起用するのですが勝てそうな車はありません。それで1300ccクラスに出場ですが17台の参加中ドル箱のブルーバードが15台(!)。やはり日本のレースに出遅れたのです」
「それで、この富士GPにも、それなりの車はありません。唯一の市販スポーツカーはフェアレディ1600(SP310)ですから、このシャーシーを改造して開発中の6気筒の2000ccを積んだたった一台のフェアレディSを登場させるのです。このエンジンはDOHCで一気筒のプラグは2本・ツインスパークのようですが詳しくは知りません。いずれにしろ、これのドライバーは仲間の北野元で、テクニックは最高レベルですから豪雨の予選でトヨタに15秒の差をつけてポールだったのですが晴天の決勝ではダメでしたねー」
――日産が、1台だけというのは寂しいですね。
「まあ寂しいね(笑)、でもね日産は微妙な立場に立たされていたのではないだろうか、とも思うのです」
――微妙な立場?
「ええ、日産は5月のGP後8月にプリンス自動車と合併、というか日産が吸収でしょうね。これはプリンスがR380を開発し出した頃には、その動きがあったらしのですが、これはあくまでも僕のヤブニラミですが(笑)、とにかくプリンスの技術や造りかけのマシンなどは、もうすぐ日産のものになるのですから、何も降って湧いたような富士のGPに間に合うマシン開発なんか必要ありませんよ。それでも技術者からすれば何かやりたいでしょうね、その形がフェアレディSだったように思えるのです」
――なるほど!! 日産以外のメーカー、ホンダなどは?
「仇敵の富士SWにホンダワークスが出るわけないでしょっ、当時の感覚としてはね(笑)。それ以外で意外(笑)なのは、ダイハツP3というプロトタイプが出てきます。元々オート三輪メーカーでしたが、ホンダやマツダと同じく、四輪車に乗り出さないと整理対象にされそうな頃、四輪の商業車(ライトバン)ダイハツコンパーノを造り、それを純乗用車コンパーノベルリーナに派生させたのです。すっきりしたデザインはイタリアのヴィニャーレで、エンジンは四気筒OHV1000ccです。そのエンジンをベースに1261ccのDOHCを開発し、乗用車のシャーシーにFRPボディーを載せ、駆動もFR、最初のライトバンの構造そのものですから後輪サスペンションも板バネ(リーフスプリング)で、まあよく造ってくれたもんだ的(笑)レーシングカーですが、早く三輪車メーカーから脱皮しようとする、その意欲をGP出場という形に表したのは立派ですよ」
――ダイハツといえばリキさんも出番で。
「ええ、僕も健在な形をGPで表そうと(笑)、ではなくて、僕の出番は偶然だったのです。以前にも話しましたが、ワークスを離れなければならない運命からブリヂストンで高速タイヤのテストドライバーをしていましたから、特定メーカーの車ではレースに出られない立場だったのでGP出場は諦めていたのです。それでも回数は少ないながら外車やスポンサーの車で国内レースやマカオGPにも出ているのを知っているメーカーや友人もいて、前年の船橋レースから活動始めたダイハツチームのリーダーの吉田隆郎さんから『ウチのチームに加わらないか』と誘ってくれたのです。それでBSに相談したらGPだけのポイント契約なのを考慮してくれて出場が決まったのです」
――それでリキさんもFR、板バネのレースカーで(笑)。
「いえね、プロトのGPクラスの他には、市販スポーツカーのGTカークラスとツーリングカー、それにエキジビジョンとしてフォーミュラジュニアの計4クラスがあって、僕は市販車セダンが中心のツーリングカーでした。それも大幅な改造規定にしたことで特殊ツーリングカー(TS)という名称のクラスです。ツーリングカーは後年、改造の範囲でグループ1や2へとFIAの車両規定に準じていくのですが、この時点では、第2回GPの改造ごっこの後遺症が整理できず、特殊って都合よい名前で(笑)、僕と寺西孝利君が1000ccのコンパーノベルリーナを受持ちました」
ハイスピードのコースに併せた特殊ツーリングカー
――ツーリングカーもコースに合わせてぶっ飛ばさなきゃならないから特殊改造でも良いとか(笑)。
「そうゆう魂胆はなかったと思うけど(笑)、でも、プロトだろうがGT、ツーリングは当然、殆どの個所はアクセルペダル踏みっぱなしだから(笑)やはりそうかな(笑)」
――プリンス・スカイラインがやがては2000GTに、トヨタ1600GTやべレットGTなども、鈴鹿の第2回GPの改造競争から派生したように、富士の特殊ツーリングも自然な流れだったわけですね。
「まあ、そう言えるのかなー?、とにかくハイスピードの富士SWだから普通の改造市販車でいいのか、という声もあったでしょう、第一にエンジンだってギンギンにチューンしたのでなければ5周も保てないでしょう、スロットル踏みっぱなしですから(笑)。そうなると、市販キット程度ではどうにもならないから、ワークスや優秀なチューナーの世話になれる一部の者になってしまいますねー、やはり……」
――どうもツーリングカーには向かないスピードごっこのようで(笑)、それが大事故につながっていくということでしょうか?
「ああ、いすゞべレットGTがバンクを飛び出して永井賢一さんが亡くなった事故ですか。レースでは何が事故原因か解らないことが多いですからねー……。でも、このGPは富士SWのこけらおとしで、それも第一レースですから。ショックでしたでしょうね、と言わざるをえないのです、僕と一緒のレースでしたから」
――あ、リキさんも参加していた!!
「前日の予選が土砂降りだったのが、初のGPを祝うように富士山がドーンと現れた快晴でした。600ccのホンダS6からプリンス2000GTの特殊ツーリングカーが20周のレースのスタートを切りました。僕の予選順位は27番でTSIクラスの上位にいまして、50台近い全車が一斉に第1コーナーのバンク目がけて飛び込んでいくのは壮観よりも無気味でしたよ。それでも1周目は平穏で2周目も数十台が固まってバンクに飛び込んだ時に事故が起こったのです、と言っても僕はあとで解ったのですが。とにかく僕の車のフロントウインドウが、あっと言う間にコナゴナに割れて視界を失ってしまったのです」
「バンクの途中ですからね、コワイというより下手に進路変更したら追突や横転の大事故になりますから、数秒前の視界の記憶を頼りに徐々に内側に下り停車したのですが。それがあとになって、べレットが前方でバンクのガードレールを飛び越えて何10mだか墜落した時と重なるので、鉄片なのか石ころなのかが飛んできたのですね、とにかくねバシッって大きな音とともに無数の太陽光線が目にささって……。それで僕はオシマイ、僅か一周と数百m(苦笑)、レースって解んないものですよ。それにしても凄惨な事故ですね」
――レースは中止にならなかったのですか?
「続行でしたね、第一に何が起こったのか、すぐに解らなかったのではないですか、コース上は変わらないのですから。まあ、そんな事故もなかったかのようにGTカークラス、午後のGPクラス、エキジビジョンフォーミュラカークラスが続き、瀧のポルシェ906は給油ミスやエンジントラブルで砂子義一のプリンスR380が優勝したのだけど、どのクラスもエントリーから想像する内容濃いGPにはならなかったように感じるのです」
1966年5月3日第3回日本GP結果 ◆GP(60周) 1. (Ⅱ-1)砂子 義一 プリンスR380 2. (Ⅱ-2)大石 秀夫 プリンスR380 3. (Ⅱ-3)細谷四方洋 トヨタ2000GT 5. (Ⅲ-1)安田 銀治 ジャガーEタイプ 7. (Ⅰ-1)吉田 隆朗 ダイハツP3 ◆GT(20周) 1. (Ⅱ-1)高橋 国光 フェアレディ1600 3. (Ⅲ-1)山西喜美夫 ポルシェ911 5. (Ⅰ-1)高橋 利昭 トヨタS800 ◆TS(20周) 1. (Ⅲ-1)須田 裕弘 スカイラインGT 2. (Ⅱ-1)浅岡 重輝 ベレット1600GT 12. (Ⅰ-1)見崎 清志 ホンダS600 *参考文献:日本モーターレース史(山海堂)
第五十四回・了 (取材・文:STINGER編集部)
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