――前回は鈴鹿に代わる日本グランプリが新設の富士スピードウェイで行なわれ、それが終わったと思ったら、アメリカのインディカー・レースをやるという凄い人が現れて(笑)、日本のレース界は何がなんだか解らないレースに振り回されちゃった(笑)。リキさんは、それを一連のつむじ風、“風の又三郎”みたいな光景と表現していますが。
「ええ確かに、つむじ風だったでしょうね。前回に述べていますが、本場インディのレース内容を富士で行なうことなんか出来っこありませんから、まあ、アメリカン・テイストのショー/見世物なのは想像できました。アメリカ人は欧州型のロードレースより、コース全体が見渡せ、全出走車が目前をグルグル走り回るオーバルコースのレースが好きですね。
前にも話しましたが、インディカー・シリーズのレースマシンの形はフォーミュラカーのようでも、ヨーロッパのそれとは丸っきり違い、左回りがし易い構造は代表的です。それを、いかに単純な高速コースといえど富士はロードコースですからね。なんか基本的なこと解ってないで始めちゃったように思えてなりませんでした」
――そうなると、冒険的な(笑)日本インディ(インディ富士200マイル)から参考になるものはなかった?
「プロモーターも、‘俺たちが本場のレース見せてやる、よー見習えっ!なんて意識でやったわけじゃないでしょ(笑)。ただね、興行主の神彰(じん あきら)さんの儲けがどのくらいだったか興味ないけど、何も役立たないわけじゃなく、それなりに得るものはありました」
――何か、お褒めのようで(笑)。
「どんなことでもムダはないのです(笑)。日本のレース界にとっては、東京の近くに富士SWというレースコースが出来たことが多くの人に知られたことや、本場のレース界の華やかさ、多くの有名人によるレース全体のPRなど、その効果は大きかったでしょう。もっと大きな目で見れば、これはオートバイも同じですが、当時の日本では〈レース=自動車メーカーの宣伝〉との見られ方ですから、話題はトヨタだのホンダだのメーカー中心でした。それが、銘柄に無関係で、同じような形のマシンが走り回り、話題の中心はジム・クラークやマリオ・アンドレッティなどのドライバー、〈人〉なのです。要するに、自動車レース(モーターレーシング)というのは“スピードを追求の技術力と人間のスピードを操る限界が合体したスピード競技”の見本を示してくれたと思っています」
富士スピードウェイは、大柄なインディ・カーが小さく見える巨大なコースだ。1700mに近いストレートと、その幅30mを売りにする状況の中で分かりやすいのは“スピード”だった。1966年10月に開催された「日本インディ」は、モーターレーシングそのものの存在を広める役を担った。
――なるほど。リキさんのインディへのイメージは、なんというか、もっと低俗(笑)なものと思っていたのですが、結果としてはインディ歓迎派だったのですね。
「歓迎とか否定の問題じゃなくて(笑)、貴方、山口編集長もTV観戦してイエローフラッグばかりの記憶だったように、どっちみち本場のレースなど再現できっこない、ショー的イベントに過ぎなかったけれど、インディの偉大さが日本に上陸した効果は大きかったと言うことです。ただ、それが日本のレースに与えた影響となれば別の課題ですが」
――本場ではアメリカ最大の、いや、“世界最大の”と言っているようですが(笑)その影響は別だ、と?
「これは前にも述べていますが、広大な富士SWのコースで日本GPといったって、どんな内容のレースをしたら良いのか暗中模索で始まり、GP終了後の評価・分析も進んでいない間にいきなりインディですからね、そりゃあ大きなインパクトだったでしょうから、“やはり、このでっかいコースにはアメリカ流レースが最適なんだ”って、独りよがりした偉いサン多かったんじゃないでしょうか」
――元々、富士が計画段階ではオーバルコースになる予定だった関係もあって、大きな富士にはハイスピードのレースという、短絡的な考えがあったのかもしれませんね。
「ええ、その通りでしょう。それにインディが強い刺激になって、次のGPは大馬力&超高速マシン、富士SWにふさわしいレースはこれだっ、のイメージが独り歩きし始めたのです。残念ながら、富士SWの出現で鈴鹿への関心も薄れ、首都圏近郊の観客を集めるにはどんなレースが良いのだろう? ということや、SWのでっかいコースなら凄っごいレースができるだろうなー、と、勝手な想像が先走ってね(笑)。アメリカのレースなんか知らないのに、‘もうギヤチェンジなんか不要で、アクセルとブレーキだけの車になるからテクニックより度胸一本のレースになるよ’なんて訳の解らない話なんか出たりね(笑)、多分、AT(オートマチックギヤ)が出始めた頃だから、レースもそうなると思っての話なんでしょうね。僕なんかも、もしそうなったら、どう走ればいいんだろう? なんて心配になったり(笑)。とにかく、アメリカ/でっかい/凄いレースを強調したがる風潮も出始めてたのです」
――そうなると迫力満点でないと。
「そうなりますね。僕は前にも言っていたと思いますが、初めてSWのコースに立った時、ヒェーッ、これじゃードライビングテクニックがどうのこうのより、バカッ速いマシンを手に入れる方が先だなーって思いましたもんね。これは僕の著書〔サーキット燦々〕にも詳しく書いてあるけど、鈴鹿はコースを造る時、ただ力まかせに走るような形ではない/真っ直ぐもあれば曲線もあるコースは一般路上の延長線、のコンセプトに基づいたものでなければならない理念がありましたから、富士SWとはまったく思想が異なるのです」
――鈴鹿の方が難しい?
「難しいかどうかはドライバーテクニックのことでしょうが、どっちが優しいとか難しいじゃなくて、レースを制すのはどこも難しいですよ。解りやすい例では、鈴鹿だと、マシンの性能6ドライバーの能力4、富士だと、マシン8:ドライバー2というような表現になるのでしょうか、外国の公道コースではマシン5:ドライバー5、もっとテクニカルなコースならマシン4:ドライバー6のように、自動車やオートバイのように機械(マシン)が介在するモーターレーシングは複雑ですが、富士のコースでは、やはりマシンの優劣が大きいことは否めません。ただし、とんでもないヘタッピイが金と暇に飽かせて高性能なマシンで走れば勝てるわけじゃない(笑)。け、れ、ど、その方が有利かなー(爆笑)」
――そうなると、富士SWを制するには限られた条件のチームやドライバーだけ、になりそうで。
「まあグランプリやビッグイベントでは、そういった傾向が強まるのは仕方がないでしょう。とくに観客を集めるには必然的にダイナミックな内容が求められますから、大馬力超高速レースがエスカレートしていき、1968、69年の日本GPで、それが頂点に達しました」
――まさしく、高校時代の私が胸を踊らせた一連のレースです。私にとって、当時は世界のレースとなればカンナムとルマンで、F1よりもそちらの方への憧れが強かったですから。
「ええ、日本ではF1がまだ縁遠い存在でしたから、1968年の日本CAN-AMもビッグマシンの流れを加速させました。まさしくこれが7000ccのビッグマシンぞろいで、山口編集長が高校生の頃なら、そりゃあ夢中になりますよ、健康的です(爆笑)」
――ありがとうございます(笑)。健康的かどうかは置いといて(笑)、日本GPもビッグマシンになってゆきましたね。これはファンとして、まったく不自然さを感じずに観ていました。でも、リキさんは本欄53回で“日本のレースがとんでもない方向に向かってしまった時代”があったと話されましたが、まさにその辺りなのですね。
「僕の持論では、日本のレースの国際化という面では、その後の成長が少なくとも遠回りしてしまったということです。前にも述べましたが、富士SWのでっかい豪快なコースにふさわしいレースは何だ? の考えが先走ってしまったのは事実なわけです」
――いずれにしても、当時の高校生にはビッグマシンレースは憧れの的で、1968年の日本CAN-AM開催には非常に興奮しました。でも、一番観たかった最強ワークスのマクラーレンや、ウィングを初めて装着した純白のシャパラルなどは来日しませんし、ずーっと続くものと思っていたら2回で終わり。今考えればインディと同じショーイベントでしかなかった。ただ、従兄弟に連れられて初めて現場で観たのが1968年の日本カンナムだったので、ビッグマシンは強烈だったです。
「そうだったんですか? その強い印象をぶち壊すようなこと言ってゴメンなさいね(笑)」
――(笑)。ヘアピンの土手でスタートを待ちました。左周りです。いまの最終コーナーはワインディングの曲がりくねったレイアウトになっていますが、いまとは反対周りですから、高速の左コーナーを回ったマシンたちが、ヘアピンの右手から、ローリングスタートに向けてフォーメーションラップで回ってきただけで、鳥肌が立ちました(笑)。そしていまの1コーナーから一斉に加速した音を聞いて、雷が落ちたかと思ってビックリしたのをよく覚えています。
「それですっかりモーターレーシングの虜になったわけですね(笑)。もしかすると、僕が思っているような真っ当な、というか、欧州型国際基準のレース内容を進めていたら、編集長はレースファンになってもらえなかったかもしれないなー(笑)」
――いや、いずれにしてもクルマ好きのオヤジの影響で、その時はレースに猛烈な興味がありましたから(笑)。しかし、凄まじいインパクトでした。たぶん、それを観ていた多くの人もそうだったと思います。
「確かに富士SW=ビッグマシン、超高速、ダイナミックetc、たしか1964年東京オリンピックの頃だったか“大きいことはいいことだ!”っていう大判サイズの板チョコレートのTVコマーシャルがあって、何でもでっかい方が良いんだっていうジョーク混じりが流行ったけれど、その亡霊がレース界に乗り移ったみたいな(笑)ものだった」
――ありました、ありました!! しかし、たった一回のインディだったから、日本への影響はそんなにあるとは思っていませんでしたが。
「確かにすべてインディの影響とは言えないけれど、当時の日本は欧州よりアメリカンムードに弱かったから洗脳されちゃったでしょうね(笑)。
それと、インディとは別にもう一つのビッグイベントがあったのですが、あまり語り継がれていないのです。インディの一週間後には、二輪のオートバイ世界GPもあったのです。これも驚きの内容でね」
――えっ、オートバイのグランプリですか!? !
「そうなんです、レースはオートバイの方が大先輩ですから。ホンダは1959年から、スズキが翌60年、そしてヤマハが61年から相次いで世界GPに参戦していました。鈴鹿を造った目的の一つには、日本で世界GPを開催することもありましたから、第1回世界選手権日本GPロードレースが1963年に始まり、64、65年と鈴鹿が舞台でした。ところが1966年の第4回は富士SWになってね、僕もビックリポン(笑)。まさかオートバイGPまでも鈴鹿を離れて富士になるとはねー」
――やはり首都圏に近い場所でアピール?
「そういう考えもあったのかなー?、よく解らないのですが、肝心なホンダが欠場しちゃってねー、単なる地理的理由だけじゃないかもしれませんねぇ」
――二輪も四輪もアンチ鈴鹿サーキット?
「ワカンナイー(爆笑)、とにかく、この当時、世界選手権シリーズは12戦あって、日本GPは最終戦でしたがホンダは50、125、250、350、500cc全クラスのメーカーチャンピオンを決めていたのです。これは凄いことで、世界中のメーカー(チーム)どこも達成したことがない前人未到の快挙です。その大記録から今年で50年経ちますが、まず未来永劫こんな記録は出ないでしょうね。
それで、ホンダとすれば、もうやることはやりつくした、の思いもあったのでしょうが、正式な不参加の理由として“富士のバンクは危険すぎる”ことをあげています。オートバイには不向きなコースだということでしょう」
――四輪の日本GPで事故後、早くも死の30度バンクなんて言われたり、二輪じゃ想像もできません。
「確かに平均速度約170km/hから換算すればストレートでは約240km/hですから、そのままバンクに飛び込むとなれば、考えただけで“おーっコワッ!(笑)”。オートバイじゃ僕だっていやですよ(笑)。まあ、富士でのGPは、自前の鈴鹿コースでガンガン走れるホンダへの反発が無いとはいえないが、プライベートのヨシムラ・ホンダなどは出ていたし、観客も6万人超といわれる盛況でした。やはり新設SW、首都圏近くの開催は意義深かったですよ。もっとも、この年オープンしたSWの最初のイベントもオートバイでしたからね。とくに、このこけら落としのオートバイレースも、もう一つの意義深いものでした」
――ほーっ、何か特別な事情でも?
「これは本欄でずーっと前に述べていますが、元々、戦後日本のロードレースはメーカー対抗のレースから始まったのです。そのスピードレースをアマチュアにも普及し、公道での暴走を是正しようと全国のオートバイクラブに呼びかけ1958年に第1回クラブマン浅間火山レースを成功させたのは月刊モーターサイクリスト誌の故酒井文人さん(現八重洲出版・酒井雅康社長の父)でした。このクラブマンレースは毎年開催され、日本はこれがあって現在の二輪・四輪レースがあると言えるくらいの功績で、鈴鹿が出来ればもっと盛んになるように思われたのですが、クラブマンレースを主催するMCFAJ(全日本モーターサイクルクラブ連盟)は鈴鹿からボイコットされてしまいます」
――やはりアンチ鈴鹿ですか?(笑)
「そう短絡的じゃなくて(笑)、要するに鈴鹿サーキット完成を機に国際的基準のレース運営を目指して各メーカーの拠出金で組織されたMFJ(現日本モーターサイクルスポーツ協会)と、かたくなにアマチュアリズムを重視し、メーカーの関与を制限するMCFAJとの対立が深まり、クラブ側はその後のロードレース開催ができなかったのです。そこに富士SWが出来て、4年ぶりに第7回全日本クラブマンレースが再開できるようになったのです」
――富士SWもクラブ連盟も渡りに船ですが、オープンした1966年は日本のレース界にとって、まさに波瀾の年だったのですねー。
「ええ、いろいろありすぎましたねー(笑)、とにかく1966年という年は富士SWに振り回されたようで(笑)」
――リキさんも再開した日本GPの特殊ツーリングカークラスでは、TS‐1クラス優勝を本命視されながら、永井選手のアクシデントに巻き込まれて……。
「ホントにね、レースってまったく予想できないことが起こるもんだねー(笑)まさか、いきなり窓ガラスが割れて何もかも見えなくなっちゃったんだから(笑)。でも、人生というのは思いがけないことが起こるものでね、その年の秋口になって、突然、ダイハツの吉田隆郎君から、マカオGPに出場するからリキも走ってくれって。この成り行きは№43で語っているから端折るけれど、結局、吉田君と僕がワークスチームで走り、ぼくがGPクラス(距離360㎞)の1000ccクラス2位に入って、それが縁で僕とマカオの長い関係が始まるのですが、何ごとも諦めちゃいけないねー(笑)」
――とにもかくにも実り多かった年?
「実りすぎかな(笑)。富士SWは、その後も話題多い舞台になって日本のレース界のエポックメーキングでしたが、日本GPがビッグマシン中心になりそうな傾向への警戒も出始め、それじゃあ、広大なサーキットでのクラブレースはどうあれば良いのか、の議論も活発になってきました。その兆候は早くも翌1967年になるとアマチュアが参加できるカテゴリーが模索されるのです。
その辺りは次回に話しますが、その富士SWも今年は記念すべき50周年の節目ですね。さる3月7日に山口編集長も出席された記念式典&記者会見で、富士SWの原口英二郎社長は“今まで以上の存在価値を示していく”という内容の力強いスピーチをされましたが、今後、どのような歴史を積み重ねていくのか期待したいですね」
第五十六回・了 (取材・文:STINGER編集部)
制作:STINGER編集部
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