――前回まで、日本GPを中心とした日本のレース界が鈴鹿サーキットから富士スピードウェイに移ったような様相を呈してきたけれど、新設富士SWの広大なコースレイアウトで、どのような種目が適切なのかの方針も立たないなかで、突如インディカーレースが上陸して、つむじ風のように大馬力・ハイスピードのレースを見せつけて帰ってしまった(笑)。それにヒントを得たように、次の1967年第4回日本GPでは、高速・豪快な種目が当然のように叫ばれ、いよいよ超高速レースの時代が始まりだしそうな話が中心でした。
「ええ、その通りですが、その前に、今年のF1は何か波乱含みの様相で動いていますが、マクラーレン・ホンダも第5戦スペイン(5月15日)でJ.バトンが9位、続いて5月29日の6戦モナコはウェットでスタートしたレースでしたが、F.アロンソが5位、J.バトンが9位と、ポイントゲットのポジションになってきましたね。続くカナダでは入賞できませんでしたが、まっ、確実に進化の兆しが出てきたということでしょう」
――表彰台も、もうすぐ、というわけには?
「そんなわけにはいきませんでしょう(笑)。とにかく、ホンダさんには粘り強くやってもらうしかないでしょう。
F1の話題はまたにして本題に戻りますが、富士SWは首都圏近くのレース場ですから、個人や愛好クラブなどのプライベート参加が一気に増えました。彼らの中には、いずれはワークスマシンで日本GPを走るようになりたいなー、の夢を描く人もいたでしょうが、多くは自分の手の届く範囲内のスピードレースを楽しむプライベート、そういったグループが台頭し始めました。
まあ、第1回日本GPの時もプライベートがいたのですが、それは高価な輸入車が持てるような裕福な人達でした。そして第2回になると殆どがメーカーと関係のあるドライバーになってしまうのですが、第3回にはプロトタイプカーのGPクラスは別として、ツーリングカー/GTカークラスにはプライベートが急増し、日本のレース界の転換期でもありました」
――それも、その前年の1965年に、首都圏にオープンした船橋サーキットの影響があったでしょうか?
「船橋で最初のレース自体が、各地に芽生えた自動車愛好家クラブ有志が主催したこともあって、本格的なプライベートイベントを目指したものでした。とはいえ、GP中止の時代ですから走ることが目的のワークスクラスの参加が目立ちましたね。それでも仮に船橋がなくて、二つ目のレース場が、いきなり富士SWで、そこでGPだったとしたら、どうなっていたんでしょうね……、多分、外国からドライバーやチームを招待しなければ成り立たなかったでしょう。船橋で台頭しだしたプライベート、それはドライバーだけでなくレースオフィシャルやエントラント、メカニックなども含めてですが、大きな流れだったのは否めません」
――今では、どうしても鈴鹿から富士へ、になってしまいがちですが、船橋が及ぼした影響は大きかった。
「とくに船橋サーキットは3.1㎞、2.4㎞、1.8㎞と、ビギナーからハイレベルなレース、それぞれのコース設定ができる強みがありました。当時のトップクラスの平均速度を大ざっぱに見れば船橋112km/h、鈴鹿130km/h、富士172km/hくらい、と大きく違いますから日本のレース草創期の得がたい存在でしたが、船橋は僅か2年(1967年5月まで)で閉鎖してしまいましたが」
――船橋が今に続いていたら、レースはもっと活性化した?
「残念ですが、レースコースのレンタルビジネスは難しいでしょうし、船橋も採算が合わなかったのでしょう。ただ、自動車競技は実に幅広い人数や分野で構成されるものですから、プライベートが入門しやすいレースができる施設や環境があれば、その世界に関わる人口は一気に増えるもので、彼らの発言権や意向も強くなります」
――グランプリ中心のレースへの不満も?
「GP自体は日本の最高レースとして、年一回欠かせない存在ですが、この時代にあってはGPの内容が、プライベートのトップクラスが成長して出場できるレベルになったとしても、参加マシンやレース規定への格差が大きすぎて手が届かないことへの不満も出始めます。GP主催者(JAF)とすれば、メインのGPクラスの他に門戸の広いGTカークラスなども設けているとはいえ、そちらも実質はワークス対抗の域を脱していないことへの不満もあります」
――要するに、GP、GPで牽引してきた日本のレース、そして拡がってきた底辺への対応もはっきりしないことへの不満があった。
「そうでしょうね、何かと言うとGP中心のレース界への不満ですよ。これだけ多くなったプライベートやクラブチームが参加しやすい、あるいは興味あるイベントも育っていない、要するにアマチュアの出番が少ないのです。もっとも、走る場所が鈴鹿から一気に三個所になったといっても、それだけでレース界が育つわけではありませんが、この3年間に行われてきたイベントに新風を吹き込むような試みも現れ始めるのです」
――新風を? インディより凄いレースとか、ということでしょうか。
「そうゆうことじゃなくて(笑)、富士スピードウェイ2年目のオープニングシーズンを飾ったのは24時間レースだったのです」
――フランスのル・マン24時間のような?
「そうです、主催者は1963年第1回日本GPの後に、やがて販売が予定されたホンダS500で、ソフィアリエージュラリーに出場した(本稿第2章No.50参照)オーストリッチカークラブ会長の古我信生さん(故人)が、「アマチュアでもワークスでも、いやっというほど走れるよ」、ということで始まってね(笑)。
確かに走れるクルマは多くなってきて、船橋、鈴鹿、富士で有力なクラブ主催のツーリングカー & GTカーのビッグイベントをシリーズ戦にして盛り上げようとの提案からJAFの全日本選手権が制定されました。このシリーズに富士も前年から加わった。そうなると、スプリントレースに焦点を合わせたクルマは多いけれど、耐久となれば燃料タンク始め何もかも改造しなくてはならずクラブチームには大仕事ですが、大勢の仲間が参加できる面では楽しいイベントです」
――それでプライベートが中心の新しいクラスを増やそうと考えた?
「まあ、古我さんにはそういった考えもあったでしょうが、一番熱心だったというか渡りに船か、それはトヨタ・ワークスですよ。
エンジン大型化の潮流の中で、トヨタは、耐久レースを標榜、レース以外でも、発売間もない2000GTで世界スピードトライアルにも挑戦した。
――ん? そうなんですね。どうしてトヨタが?
「最初の日本GPにしてもトヨタさんは新しいことへの目の付け所が違う(笑)。トヨタ2000GTと小型スポーツカーの市場を独り占めのホンダS600に対抗したトヨタスポーツ800のバリバリワークスに細谷四方洋、大坪善男、田村三夫、川合稔などの精鋭が参加することになって前評判が高くなりました」
――日産などは?
「この富士24時間レースは4月上旬に開催でしたが、第4回日本GPの1カ前ですから、日産は前年のGP終了後に(1966年8月)プリンス自動車と合併というか、R380、スカイライン、同GTのマシンからGPチーム青池泰雄監督始め中川良一、桜井真一郎諸氏の人的財産、技術力の持参金付きのような婿入り? 嫁入り?(笑)、とにかくオール日産になっちゃった。それで日産R380-A2というプリンス時代のマシンの進化版を登場させるのが大仕事で、24時間レースなんかやってられない、という事情だったのでしょう」
――でもトヨタも、GPに熱心だったのではないですか?
「いえ、最終的にトヨタは参加しませんでした。やはり鈴鹿以後の新しいGPレースの在り方には最初から意見対立があったようで、第4回GPも前年と同じ内容のまま行うことへの抵抗もあったのではないかと、これは僕の解釈です」
――そうなると富士24時間レースはGPの短距離(スプリントレース)とは異質の競技ですから、GPの前哨戦とはいえませんが、単なるクラブマン向けの新たなイベントで済ませないのではないですか?
「おっおっ、山口編集長は何十年も前の24時間レースなんて見ていないでしょうが、凄い洞察力ですね、さすがは『オートテクニック』や『GPX』の編集長だったわけだ(笑)。その通りでね、主催者の古我会長はフランス好きだったから(笑)、富士のイベントを増やすにはガンガン走れるもの=和製ル・マンの発想だったかどうか知らないけれど、あまり大層な考えだったとは思えないなー(笑)。ただ、新設富士スピードウェイにふさわしいイベントという面での考えはあったでしょう。古我さんは長距離の競技が好きだったし。
でも当時のニッポンて凄いよね、前年はインディで今度はル・マンだから(爆笑)。とにかく外国のいいところ、面白そうなことは何でも真似ごとが多い世相でね(笑)」
――じゃあトヨタが出るから、企画が実現したわけではない。
「主催者からすれば、あちこちに、こうゆうレースはどうでしょうかねー? くらいの反応チェックはしたでしょうが。ただ、トヨタは鈴鹿以降のGP内容には批判的な面もあったし、レースを自動車造りの立場から見た場合トヨタなりの考え方もあったでしょう」
――ビッグマシン、超高速化へのGPには同調できないとか?
「ビッグマシンがどうのこうのでなく、とくに富士SWのコースの特性から、短距離の瞬間的速さを競うのでなく、長距離の耐久性かつスピード重視のレースを望んでいたでしょう。それに対して、日産にはフェアレディー、プリンスにはスカG(スカイラインGT)などの市販スポーツカー、それにR380のプロトタイプスポーツカーがあるのに対し、トヨタには700ccのパブリカを幌屋根のオープンカーにしただけのパブリカスポーツしかない。とにかくオープンカーになれば何でもスポーツカーの時代だから(笑)。そういった状況じゃGPなんか出られないトヨタの逃げ口上なんて悪口雑言が多かったけれど、それは当時の自動車レースの在り方を知らない記者(ジャーナリストやメディアなどの呼び名は無かった)連中のたわごとでね」
――そうなるとリキさんはトヨタ擁護派になりますか?
「そういった短絡思考でなく(笑)、レースは何の目的で行われるのかという物ごとの筋道、まあ理屈ね、とくにGPではそれが大きな命題だったのです」
――レースとは何かと言っても、殆どの人はスポーツ、モータースポーツでしょう。
「欧米で各種スピードレースがスポーツの範疇という解釈になったのは確か1970年代末から80年代にかけてのように記憶しているのと、レース自体が日本でいうスポーツの概念になじまない性質もあるけれど、まあ一般的な解釈はレース=スポーツになってきたのでしょう。
でも、鈴鹿で1963年に始まった自動車レース開催の意義は“日本の自動車進歩”であって、その時代、日本の自動車製造技術はどのようなレベルにあるのか、まず実際に性能の極限が要求されるスピードレースをやってみれば解る。まずはレースをやって見ることだ/やって見なければ解らない、すべてはそれからだ、のポリシーが既に鈴鹿側にあって始まったことなんです、オートバイの世界GP経験者なら当たり前のことなんだけど、四輪には唐突な話だっただけのこと。でも、いざ始めて見れば、レース(サーキット走行)効果は一目瞭然、あれよあれよという間に日本の自動車界はレースだらけになっちゃった(爆笑)レース場が三つもできてね(笑)」
――レースは、やはり技術面重視?
「まあそうでしょうね、とくに僕らの時代にはね。だからトヨタからすれば市販車づくりに応用できる技術向上のレース内容。それには、耐久性重視の長距離走行のレースが必要だ、になる。トヨタはそれを実証するように1965年(と言われる)からヤマハ発動機と共同開発(ヤマハの技術供与という方が正しいとも言われるが、そんなこと僕はどっちでもいい)に入ったトヨタ2000GTの市販を前にして、このクルマの優秀性を誇示したかったのは事実、それもレースなどの公の場でね。とくに市販スポーツカーで遅れたトヨタは、同じ市販車でも国内メーカーのみならずポルシェなどの外国スポーツカーに引けを取らない世界的レベルの高性能車で他をリードしたかったに違いない」
――GP用のマシンがないトヨタ、ということになりますが。
「ですからトヨタ2000GTの真価が発揮できるGPなら大歓迎だったでしょう。2000GTは前年、富士初のGPに試作車(プロトタイプ)の段階で参加したけれどレース用に開発された砂子義一のプリンスR380にかなうわけがない。
とくにR380は、鈴鹿の第2回GPでポルシェ904に翻弄されて、これがある面では良い刺激になって、翌1965年の第3回GPに向けて、904に負けないレーシングスポーツカーの開発に入ったけれどGPが中止になっちゃった。そして富士最初のGPでは2000GTを3周遅れにする勝ちっぷりだったけれど、GP中止のお陰で日産とすれば開発期間が一年延びたのはラッキーだったでしょうね。
一方のトヨタ2000GTは開発途上だし、ましてレーシングカーと市販車目的の開発では大きな差がありますから、もしGPがレーシングスポーツカーやプロトスポーツカーで続けるならトヨタは新たなカテゴリーのマシン開発をしなくてはなりません」
――そうなると、トヨタ2000GTが活躍できる別の場を求めないと
「そうです、そこで正式な市販に入る前に、トヨタはレース、とくにGP優勝以上の評価を得られる独自の挑戦を試みるのです」
――独自の挑戦? 海外レースですか?
「レースはクルマの性能を誇示し、開発への効果を引き出す大きな試練ではあるけれど、運・不運が大きいレースでは、性能だけを取り出すにはムリがあります。それで、この時代、世界の自動車界では数々の記録挑戦が盛んでした。その殆どは速度と耐久性を競うものですが、ポルシェ始め欧州のメーカーが樹立している記録を打ち破って世界のスポーツカーになろうと、トヨタはスピードトライアルという記録挑戦を行うのです。
それは第3回GPから5カ月後の1966年10月でしたが、通称“谷田部試験場”と呼ばれた茨城県谷田部町(つくば市)にあった一周5.5kmのオーバルコースで6時間走行の平均速度、48時間ぶっ通し走行の平均速度など、時間と距離で区切られた13項目の記録を更新したのです。細谷四方洋、田村三夫、福澤幸雄、津々見友彦、鮒子田寛の諸氏が4日間交代でのドライブですが、途中で台風が襲う中での記録ですから、晴天ならばもっと凄い記録が出ただろうと言われますね。
因みに12時間部門の平均速度は208.79km/hで、すべてが世界新記録でした」
――ちょうど50年前にそんな凄いことやっていたんですね!!
「トヨタは、この当時から長距離や耐久レースに取組んでいましたから、のちのル・マンや先月(5月)末のニュルブルクリンク24時間レース参戦はトヨタDNAでしょう」
※諸取材が重なり、掲載が遅れましたことをお詫びいたします。
第五十七回・了 (取材・文:STINGER編集部)
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