リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第61回
絶頂モンスターマシンのグランプリ

――前回は、1968年GPがテーマでした。日本CAN-AMの初開催もあって、富士スピードウェイで行なわれたそのレースは、日本のレース界に明るい兆しをもたらしたのではないか、と私には見えましたが、リキさんは「さーて、それはどうかなぁ」とのことで。

「そうでしたね」

――1968年と1969年の日本のレースが、高校生だった私にとって大きなインパクトを持った最大の理由は、ビッグマシンの道を辿ったことでしたが、その集大成というか、最も印象的な1969年日本GPについて力さんの印象はどんなものだったのでしょうか。

「その当時に、この問いかけをされていたら、呆れけーちゃって何も言えなかったのでは……(爆笑)」

――そこなんですよ、僕らには何が呆れかえったのか、良く解らないのです。私がモーターレーシングに興味を持って数年ということもあり、まぁ、思春期で吸収しやすい高校生、さらには時代的にも自動車レースは時代の寵児でした。通っていた高校のクラスの2/3は日本グランプリにそれなり以上の興味をもっていたので、大排気量のレーシングカーというのに猛烈な憧れがありました。

「まあ第一回GPからレーシングドライバーとして日本のレースに取組んできた立場と、レースを見に来る観客の立場は丸っきり違いますが、レース車両の規定がコロコロ変わるのです。富士SW(スピードウェイ)での最初のGPでは2000ccまでのプロトタイプスポーツカーと市販スポーツカー(GTカー)、特殊ツーリングカーという3クラスのレースでしたが、この巨大なコースに見合う、また、観客が喜ぶのはプロトタイプのようなレース専用車であることが解ってきて、GPの方向が見えてきた。これは良いことだったでしょう。そこで、次の年には、この流れがもっと大きくなって、GPクラスへの参加が増えるものと思われたんですね」

――主催者側(JAF=日本自動車連盟)の思惑通りには行かなかったということでしょうか。

「ええ、結局、レース、とくに日本の自動車メーカーのレースに対する考えにも色々ありましてね」

――基本的には、レースは市販自動車性能向上のための技術発展が目的ですね。

「そうです。そのためにレースがある、レースに出る、というスタンスが前提ですが、それなら、どうゆう種類のレースであるべきか百家争鳴で、その方向によって、レース参加への損得が先に立ってしまうのです。まあ、メーカーの参加なしには一人歩きできない時代ですから、一社でも多く参加してもらいたいために、レース車両や競技内容の規則を考え出すのですが四方円満な方法なんてありませんよ(笑)。結局、力のある、発言力の大きい通りになるのであって(笑)、いつの時代も同じね」

――う~ん、そうなると、レース専用マシンでのGPには賛同しても、内容になるといろいろ難しい問題があった、と。

「結局、スピード重視のスプリントがロードレースの真髄、ということで、鈴鹿サーキットから富士SWに移った翌年の1967年GPの内容が明らかになってみれば、トヨタは欠場、育ち始めたコンストラクター達のマシンも、まだ期待したほど多くない。プリンスからニッサンになったR380-2に続く日本あるマシンなればポルシェ906ぐらい、急遽、エンジン排気量の制限を外しても数ヵ月後のGPに間に合うものではないから10数台しか集まらないGPになってしまった。これじゃーダメだとばかりに、前回のストーリーにある排気量無制限のGPになってしまったわけです」

――そして、もっと耐久性のあるGPというトヨタの意見も入れて周回数も80周に増やした、と。

「トヨタの言い分かどうか知りませんよ、ホント(笑)、まっ、耐久レースを重んじていたのは確かだけど。いずれにしろ、その主導はメーカーと、億の大金叩ける一部のプライベートだけ。メーカーにしても1300ccエンジンのダイハツの参加はあるものの、メインはニッサン、トヨタに限定されてしまう。まあ、GP以外のクラスにエキジビジョンだったフォーミュラカーが正規のレースクラスに格上げされたりの向上はあったけれど、観客の興味はGPですから、それを盛り上げるためだけしか考えられていなかった」

――リキさんは、前回「熾烈なメーカー対抗だった第2回GPの雰囲気に戻ったような、それに、プライベートチームが大金叩いて大資本メーカーに挑む光景も何か安っぽいドン・キホーテ的に見えちゃって」とおっしゃっています。

「はっきり言ってそうですよ。この時代、レースとは何かも知らない、単なる流行もの(はやりもの)とはしゃいでいるとしか思えないような傾向が多くてね。カネ叩いて速いマシンを手に入れればメーカーだろうがワークスドライバーだろうが恐るに足らずの調子でレースをかきまわすのもいてね。そういった風潮に、僕ら二輪レースからやってきたドライバーなら少なからず嫌悪感を持ったんじゃないかな。でも、カネの力には敵わねーこともあってねー(爆笑)」

――なるほど、そういうことでしたか。その雰囲気は良く解ります。でも、1968年の日本グランプリから、小は30台以上の800cc、大は6300ccまでのマシンで賑わいました。1969年になると、さらに勢いがついて、高校生は大きなエネルギーを感じたのです(笑)。

「見る側からすればビッグマシンの競演は正に主催者の思い通りの展開になったでしょう。ただ大きく変わったのは周回数(レース距離)でした。富士SWでのGPになった1966年と1967年が60周、1968年は80周に周回数が多くなってきます。これは参加チームにも、速さを重視する短距離型であるべきとの意見と、レースは市販車性能の向上を目指すものだから瞬発的速さでなく耐久性を競う長距離が望ましい、との二大ポリシーが常について回るのです」

――観客の立場にいた私には周回数について、それは長いのか短いのか、あまり記憶にないのです。とにかくビッグマシンが次々に登場したことが気になったのですが、いずれにしろ両者の言い分を満足させることで、さらにレース周回数を増やす方向になったわけですね。

「まあそうですが、これも、どこまでがスプリントで何キロ以上がエンデュアランス(エンデューロレースは和製英語)なのか明確な規定がなかったのです。そこで、マシンに搭載可能な燃料タンク量、その安全性、燃料補給回数、ドライバーの体力(健康面)など勘案して、前年の6kmのコースを80周480kmから短距離のような中距離のような120周720kmにして、ドライバーが交代できる二人制にしたわけです」

――いきなり周回数が40周も増えるのことへの抵抗はあったでしょうね。

「それは知りません。ただ、40周多くなったからといって、それで壊れちゃうようなマシンでは話にならないでしょう(笑)。ただ、この当時、一般的な見方をすれば、スプリント派のニッサン、エンデュアランスの実績多いトヨタの二社なら、耐久レースに強そうなのはトヨタと見るでしょう。しかし、前年の1968年、トヨタはV8気筒DOHCの3000cc自社製エンジン搭載のトヨタ7を開発し、細谷四方洋、大坪善男(故)、鮒子田寛、福澤幸雄(故)の4台体制でGPに復帰したのですが、ニッサンは2000ccのR380をさらに向上させたR380AⅡに、5000ccを超える排気量のエンジンを積んだR381で参加することが明らかになって、結果は、ニッサンの策謀にはまってしまった」

1968年日本GPに向けて、トヨタが初の本格レーシングカーとして投入したグループ7のトヨタ7(上)と、大金を投じてタキ・レーシングが持ち込んだビッグマシンのローラT70。

――それは、1968年日本GPでニッサンが急遽、シボレーのエンジンで走った話ですね。

「ニッサンも3000ccのトヨタ7の開発を知れば、R380のベースエンジン2000ccのままという訳にはいかないでしょう。それが3000か5000か知りませんが、前年の1968年11月に、ワールドチャレンジカップ 富士200マイルレースと銘打った北米から招待のCan-Amシリーズのイベントに集まった5000~7000ccのモンスターマシンの影響が大きかったことは見逃せないでしょう。当然ニッサンは、トヨタ7以上のビッグエンジンを開発していたようですが、結局、日本GPには間に合わず、米国のシボレーエンジンに縋る(すがる)ことになった、ということでしょう」

――レース結果からすればトヨタ7は、ニッサンに“してやられた”ことになるのでしょうが、このままじゃすまない、エスカレートしていくのは当然ですね。

「ええ当然ですね(笑)。主催者の言い分からすれば、大幅な長距離レースにして、“単なるハイスピードを見せるだけではありませんよ”“耐久性も重視したレースですよ”、という姿勢を示したでしょうが、GPの決勝が出来るかどうかを左右するドライバーの反乱が起こったりした事件もあったのです。

――排気量が大きくなって何か凄いレースになるような、我々ファンにとっては嬉しいことでしたが、レース開催にはそんな複雑な問題が発生していたことなどは知りませんでした。

「こういったことについては次回に披露しますが、いろんなことが混ざり合って、いや混乱かな(笑)、日本のレース界が最高潮に沸騰したのが1969年の日本GPなのです。これは日本の自動車レースが始まって以来僅か10年足らずで、猛烈な覇権争いだった第2回GP以来再び起こったレース近代化途上への避けられない競演か狂演だったでしょう。編集長は、この当時のレース、といっても主に富士SWでしょうが、とにもかくにも特別な感化を受けたようですから(笑)、編集長なりの感激や驚愕なりもお聞きしながら1969年日本GPを振り返っていきましょうか」

――まさに思い入れというか思い込みというか、たくさんありますので、次回、よろしくお願いいたいたします!!

第六十一回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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