リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第64回
日本GPはCAN-AM化を目指すのか その2

大馬力、超高速への流れ

――前回は、日本GPのCAN-AM化への流れは更に太くなって翌1969年GPの開催につながる、ということで、その1969年GPの実態を見てみよう、ということでした。

「そうでしたね」

――ポルシェ910に代表される市販のプロトタイプスポーツカー、ニッサンR380、それにトヨタ2000GT、フォードコブラなどの車種で日本GPが構成されていくものと想定されていましたが、グループ7というマシン製造の自由度が大きいカテゴリーが導入されレースの流れが大きく変りました。

「そこへトヨタ7が現れ、ニッサンもR380からシボレーエンジンのR381で対抗する。さらに、この1968年の日本GPの半年後にCAN-AM(カンナム)レースが行われ、本場のビッグマシンが富士のコースに咆哮し、大馬力、超高速レースへの流れが加速しました」

――どんどん大きくなる排気音に興奮しまくりで(爆笑)。私が自動車レースに興味を持ち始めたのが1966年、ちょうど日本GPが鈴鹿サーキットから富士スピードウェイに移った時でしたから、それ以前の鈴鹿の歴史は実感がないのです。日本のレースがあたかも富士スピードウェイで生まれたかのように思い込んでいましたから、もっともっと凄っごいレースになるんだろなぁという期待でいっぱいでした。

「やはり異常だ(爆笑)これじゃあ、レースってスピードばかりではない、という僕の思想なんか吹っ飛んじゃうわけだなー(爆笑)。でも、これがレースに対する一般的興味なんでしょう。なんせ、日本のレースって、まだ6年しか経っていないし、とくに高速コースの富士スピードウェイが派手にメディアに出まくった時代だから当然だろうね」

――当時は、ニッサンR380とポルシェカレラ6の戦いから始まって、そこにトヨタが加わり、滝レーシングが参加して、さらにはダイハツやいすゞまで繰り出すようになる。という感じで、レースは際限なく急成長するイメージでした。

「仰る通り、1966年からの数年を見ると、出場台数も増え、観客も増加の一途で大きくなっていきましたね。」

――排気量も、ニッサンだけをとっても、2000ccから5000ccになって、1969年には6000ccになりました。1968年にトヨタ7を投入するトヨタも、それまでの2000GTの2000ccから、1968年にはヤマハ発動機と共同開発の3000ccを積むトヨタ7が登場して、翌年は5000cc、さらに、ターボ搭載で1000馬力に突入と言われました。結局トヨタのターボもニッサンの6000ccターボのR383もレースには出ず仕舞いでしたが、CAN-AMやル・マンに挑戦するのではないか、という話を匂わせるように書いた自動車誌もあったので、こっちは気もそぞろ(笑)。

「多分、その流れはあったのでしょうね。その取っ掛かりのように1969年日本グランプリがあったようにも思えます。実際に優勝したニッサンR382はターボではないけれど、今度は本当のメイドinニッサン6000ccエンジンだったから(爆笑)」

――5000ccと思われていたニッサンR382が、決勝直前に6000ccと分かってトヨタが慌てた、とか、これも必勝の作戦だったのでしょうか?

「そりゃ慌てるだろうね(笑)。意図的かどうか不明だけれど、5000ccが完成すれば、もっと馬力が出る6000ccとなりますが、その完成度が確実だったのか、それとも不安は抱えながらも一発勝負に出たのか解りません。ただ、前年の5500ccシボレーエンジンは、どうにも年に一度の日本グランプリに間に合わぬ急場しのぎでしたから、時間的には6000ccを手懸けるのは特別なことではないでしょう」

――“時間的”には、と仰る意味は?

「やーごめん、今までならGPから次のGPまで一年ですから、新たなエンジンやシャーシーを開発するなら、その間に完成させなければなりませんよね。ところが1968年5月のGPの次1969年は5月ではなく10月へと半年延びましたから、その分、開発陣には有難かったんじゃないですか」

――そうなると、いきなり大排気量化してきたマシン開発に時間がかかるのでGP開催を先延ばした?

「そんなセコイ話じゃなくて(笑)、ビッグマシンが加速する中で、もっと高尚(かな?)な動きが出てきたのです」

ビッグマシンの“狂走”

――え、全然知りませんでした。どのように高尚で(笑)

「エスカレートするビッグマシンの狂争に、“何かおかしいのではないか・この流れがいつまでも続くわけがない・GPのみならず、レース全体の方向性を再検討すべきだ”などの意見が急浮上してきたのです。ちょうどそれは、僕の持論そのものでした」

――そこで、小休止が必要だ? と。

「いいえ、そうじゃなくて、この時代、富士スピードウェイのビッグマシンの盛況、鈴鹿は鈴鹿500キロや12時間耐久レースなど鈴鹿なりの特色でレース界を盛り上げていました。その一方で、日本で始まったばかりのレースが早くもゴタゴタし出したのを、“一体何やってんだい”とばかりに、1964年、突如F1レースに挑戦したホンダが、1年後の1965年メキシコGPで優勝、1967年にはイタリアGPを制するなどの活躍をした後、ホンダは1968年いっぱいでF1活動休止宣言をするのですが、こういった遠大な挑戦への影響もあったのでしょう、日本でもフォーミュラカーへの関心が高まってきた時期でもありました」

――日本グランプリのクラスには前からフォーミュラカークラスがありますが。

「確かに日本GPが鈴鹿から富士に移って、それまでの市販車改造車レースを一新する方向には誰もが賛同したものの、スピード重視の短距離(スプリント)か耐久力重視の長距離(エンデュランス)か、さらに出場車の中心は、市販GTかレーシングスポーツカーか、いやプロトタイプカーも入れるなど百家争鳴のまま、あれよあれよという間にビッグマシンがエスカレートしてしまったことを以前に述べました。この過程でフォーミュラカーの意見も根強くあったのですが、所詮は始まったばかりのレース熱に浮いた我田引水の主張に押しまくられ形勢は少数派。結局は時期尚早のテストケース的扱いで、1966年GPのエキジビションとして登場するのです」

――その後、次の1967年のGPからは正規のクラスになりますね。

「グランプリクラスを筆頭に、GTカー、ツーリングカー、フォーミュラカーと正規クラスに組入れられ、やっと一人前に昇格して、段々と参加台数も増えていきます。そういった普及度はエスカレートする“ビッグマシンGP”への批判が高まっていったわけです。

何せ、このビッグマシンレースへの仲間入りには、今から50年弱前の時代ですから、マシン購入だけでも2~3千万円、中には億に近いカネが必要です。これがアメリカのようなプロイベントならまだしも、日本の優勝賞金は300万円ですから、根底から狂っているんです。そういったことに多くが気づいたのでしょう、GPの再考を求める強硬論も出て、例年5月3日のGPをフォーミュラカークラスを最高峰とするJAFグランプリを新設し、従来のGPはビッグマシンのまま10月10日体育の日に変更したのです」

――それで1969年の日本GPは前年のGPから1年半、今までより半年延びたのですね。

「半年延びたのは意図的なことでなく、この日程変更は1968年GP後の8月に発表されたのですが、その方向に行く下地は1968年GP以前には固まっていたのでしょう。いずれにしろ時間がいくらあっても足りないマシン開発陣にとっては準備期間が半年長くなったのは大きなプラスでしょうが、技術者にはそうとばかりも言っていられない変更もありましてね」

――もっとでっかいエンジンにしようとか。

「いや、そう簡単にはいきません(笑)。大きな変更というのは1966と1967年が60周、1968年には80周になって、それが1969年には120周と、一気に周回数が増えたのです。多分、長距離耐久性を加味すれば高速化ばかりの傾向が抑制できるように考えたのではないかと推測されますが、開発陣にとっては、120周720㎞というのは公衆の面前で繰り広げられる日本初の大実験の場でもあったでしょうね」

――そうなるとエンジンの耐久性と高速化の双方を満たすとなれば一般的には大排気量に。

「この時代の技術力では当然の方向でしょうが、労働力は増えるしゼニはかかるし、開発陣は大変だったろうなー(爆笑)。とにかく1968年GPと、日本初のCAN-AMの影響は1969年GPの決勝スタートラインに並んだマシンの概要に大きく現れています。

満員のスタンドから大盛況の1969年日本グランプリのスタートを見下ろす。

これは本欄前段で述べていますが、トヨタ7は3000ccが5000ccに、ニッサンR382は5000ccが6000ccに、これに前年はニッサン&トヨタの大メーカーに挑むと華々しく騒がれたタキ・レーシングは、ポルシェ・ワークスのジョー・シファートのポルシェ917(4500cc)、長谷見昌弘のTAKI LOLA T70(5000cc)、ハンス・ヘルマンのポルシェ908(3000cc)など手持ちのマシンに頼る一方、黒沢レーシングが2輪チャンピオンから4輪に転身したマイク・ヘイルウッドを呼び寄せて7000ccのマクラーレンM12に乗せ、さらにチーム・ヤスダは7600ccのローラT160で参加させ、二大メーカーばかりのGPじゃあないとばかりに、いすゞも5000ccシボレーエンジンのイスズR7を投入し、それら勢ぞろいのモンスターマシンがドドドドッバババッーンと唸りすっ飛んでいくんだから、これじゃあ山口編集長も狂喜するはずだねー(爆笑)」

――ええ、もー話を聞いているだけで当時が彷彿としてよみがえり涙がこぼれます(笑)。

「でもねー、大きな問題もあってねー。とにかくエントリー数の56台で見れば3000cc以上が約40%を占め、これに1000cc以上3000cc未満が同じく約40%、残りが主にホンダS800のエンジンをグループ7シャーシーに搭載した850~900ccクラスという割合でしたから、大中小のマシンの混走になるわけです」

――そうなると排気量による速度差は大きくなりますね。

「その通りですが、今の全日本スーパーフォーミュラでは3000ccの単一規格排気量でも、スーパーGTはGT500と300の2クラス混走、他のレースでも数クラスのマシンが一緒に走り、総合とクラス別の賞になるのが普通なのです。できるなら全車同一排気量が理想です。しかし、車両規定に基づいて製造されるフォーミュラカーや同一銘柄・車種のワンメイクと違い、ほとんどのレースは排気量が異なる混走なのです。

日本GPも、ずっとこの方式できて、それはモンスターマシンが台頭してきたGPでも同じですが、1969年10月10日決勝の3日前になって大混乱が起こるのです」

小排気量の反乱

ここに、1969年8月初旬に発行されたその1969年GPの特別規則書があります」

――えっ、そんな古い資料をリキさんはお持ちなのですね。混乱の中身は解りませんが、こうゆう大レースは予め細かく決められたレース規則、大会内容などが発表され、チームやドライバーはそれに基づい参加申し込みをするのでしょう。

「この特別規則書に参加受付8月23日、参加申込締め切り8月30日とあります。これは問題ないのですが、レースというのは、そのレベルに応じたドライバー技量があるかどうかが基本的資格ですから、いくら多くの参加者があっても、予選を通過しなければどうにもなりません。その予選規則は1周のラップタイムで決められますが、その基準はGPクラス2分20秒、GTカークラス2分40秒、ツーリングカークラス2分50秒で、この基準をパスできる自信がある者が参加申込をするわけです」

――う~ん、GPクラスは2分20秒ですか。平均速度ですと160km/h弱になりますか。ストレートでは220km/h。小排気量車には辛いですねー。

「でも前年の1968年GPの予選で、S800エンジンのマクランサなどは2分18秒弱ですから、この1969年は、もっと進化しているでしょう。まっ、それはおいといて、いずれにしろ多くの参加者は、この規則で本舞台の富士スピードウェイに向かっていったわけです。そして決勝に向けて公式練習に入ったのですが、決勝3日前になって(10月7日)突然に予選タイム基準の変更を示す公式通知が出たのです」

――決勝直前に予選通過基準を変更されてはたまりませんね。そんなことができたんですか?!

「できちゃったんですねー(爆笑)、突然変更内容は、『GPレースの予選タイムは2分20秒以上で(ここまでは従前のまま)、かつ、ベストラップ者の20%増し以上のタイムを予選通過タイムとする』に変更してしまったのです。GP-Ⅰ(1150ccまで)、GP-Ⅱ(1600ccまで)GP-Ⅲ(2000ccまで)、GP-Ⅳ(3000ccまで)、GP-Ⅴ(3000cc超)の内、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲクラスがその対象です。

まあ、そのクラス関係者のいきどおりは暴動の様相を呈してきましたね。おまけに、“どーせ、この基準には届かないのだろうから、決勝前日の予選日に40周の特別レースを組んだから希望者は申し込むこと”ときた。要はモンスターマシンの邪魔になって危険だから、という理由しかないのだけど、中小排気量車ドライバーは速度差が違うことは承知で大排気量車が迫ってくれば進路を譲る、また大排気量車も排気量差によるコース上のマナー、時には遅いマシンの位置関係を自分の有利にすることもある。それがレースなのですよ。参加者は予選基準だって最初のレース規則書に基づいて参加申込をし、そして参加が認められたのですから。これじゃあ、20才になったから成人式と思っていたのに、背が低いからダーメと同じですよ」

――仮に、予選基準2分20秒以内、そして、トップのラップタイムの20%以内であると、具体的にどんなことになるのでしょう。

「どのマシンも公開練習での走りですから正確な速さは解りませんが、前年の1968年GPの予選で、5500ccシボレー・エンジン積んだニッサンR381で高橋国光君が予選トップでした。そのタイムが1分50秒ですから、これを例にすれば2分12~3秒になりましょうか。この時から1年半の進化をみれば4~5秒速くなっている筈ですから、この基準をあてはめたら20台くらいしか決勝に出られないでしょう。またもやモンスターマシンパレードになってしまいますよ」

――そうなると大会組織者の言い分は単に速度差の大きいことは危険だということ。でも参加チームの中に、そういった声がなければ運営側だけじゃごり押しできないでしょう。

「そうでしょうね、主催者の速度差が大きい=危険というだけでは話になりません。大メーカーはメンツかけた一戦ですし、他のビッグマシンチームにしても、ちっちゃいのがチョロチョロしてりゃあ邪魔なんだろうから、組織側に“おいっ何とかしろっ!”で、こうなったのは明らかですよ」

――観戦者からすれば大中小いろいろなマシンが入り乱れ、その中をビッグマシンが駆け抜けていく、まさに興奮の光景だし、“これぞGP”と。私は観る側だったので、グランドスタンドから見えるパドックでそんな混乱が起きているとはまったく知りませんでした。

「僕個人としても抗議書を提出したり、主催側と何度も話合いましたが木で鼻をくくる応対しかない。そこで、急遽、小中排気量車ドライバーの集会をしましてね、全員もう怒り心頭ですよ。そこで強硬な抗議が通らず主催者側が急に変更の予選基準を撤回しないのならレースボイコット、更にGP決勝当日、実力行動、まあ暴動ですな、大会阻止に出ることを決めたのです。結局、僕とGPⅠクラスの木下昇さんに一任されちゃって交渉が続くのです」

――やはりリキさんがリーダーになって(笑)、どのクラスでエントリーしていて、どんな実力行使を。

「リーダーなんてものでなく首謀者(爆笑)。この年の春先、ホンダが本格的四人乗り乗用車を市販して、僕はその1300cc横置き空冷エンジンがレーシングマシンになると考え、新進気鋭のコンストラクターのエバ・カーズと提携して2座席レーシングカーを開発、GPⅡクラスに2台エントリーしていました。エンジンは鈴鹿RSCチューンを貸与して頂いていましたので問題なかったのですが、マシン全体のバランス問題など山積で、そこへ10月9日の公式予選直前の7日に大事件発生ですから、深夜に及ぶ交渉です。

しかし交渉は難航し、僕らは実力行使の準備をするしかないと判断し、10日の決勝日、コントロールタワーを占拠・放送室を占拠し場内放送で決起説明・グランドスタンドで抗議文の頒布・スタートラインへの障害物設置など、数十人の役割分担、行動計画を練りました。8日になっても主催者側は、あれは何々委員会が、どこそこの部署が等々、逃げ口上ばかりで、どこが誰が責任ある窓口か解らない状態でした。

――となると。

「もー、これは実力しかない。この時代、急成長社会の矛盾に対して若者の反発が多かったのですが、それに対する論理的説明もできない政府は権力で、社会の大人達は年かさで押さえ込もうとする。その典型が学生運動で、ついに革マルや赤軍などのテロ集団を生み出すのですが、不条理の説明ができないことへの実力行使はどこにもあって、このGP騒動もレースだけの課題ではないのです」

――納得できない主催者への反動ですね。

「その通りです。戦後貧困から脱皮して新しい時代、経済成長の印しでもある自動車レースも、戦争生き残った古~い思想の大人達に牛耳られているのですから、スピードレースの哲学なんか解りゃしませんよ」

――それで、暴動になればリキさんは首謀者だから(爆笑)警察沙汰でしょう。

「千万人といえども吾往かん(ワレユカン)、そんなこと覚悟の上ですよ。レーシングドライバーライセンスは停止され警察にお泊りでしょうね(爆笑)。それでも構わないと思っていましたよ。結局、僕らの度重なる抗議と不穏な動きが察知されたのかもしれません。公式予選前日(8日)昼から始まった何回目かの交渉は延々夜半に及び、予選日9日の朝方になって、変更した予選基準を当初の規則に戻す回答になったのです。

――結局、円満に終わった。

「エンマンなんてもんじゃないですよ(笑)、こんな事件起こされ、どうしてくれるんだっ!ですよ。もう疲労困憊で2台のマシン整備はメカニック達が進めてくれていましたが、公式練習で僕が走れないのですよ、闘争で。寝不足でふらふら、とてもレーシングカーに乗れる状態でなく、マシン不調も治らず予選落ち、バッカみたい(爆笑)。僕のとこからは2台エントリーしていて、もう1台は最初の僕のマシンの改良型だから何とか予選通過して」

――大変お気の毒でしたが(爆笑)、私の資料では56台エントリーの内31台が決勝スタートラインに並んだ。

「そうでしたね、850ccから7000ccのマシンが、ずらーっと並んで、走れない僕はそれをピットから眺めて、涙ばかり出てねー。それは、走れない悔しさと俺達の闘争で32台も並んだ壮観に感激した両方の感情だったようでね。そのマシンが、ドッドッドドグヮーンとすっ飛び出したスタートは凄かったねー。ピットにいるっていいもんだね、良く見えるし(笑)。こっちは走っていないから勝手なこと言えるしね(笑)」

――そうなるとリキさんも私と同じ観戦者だったわけですね、グランドスタンドとピットの違いはありますが(笑)。

ビッグマシンの大実験

「スタンドの方が直線からヘアピン、そして右へ大きく曲がる300Rに入っていくまで良く見えますよ。僕のいるピットだとグヮーンとすっ飛んでくるマシンが目の前をビュンッで終り。ピット屋上だと最終コーナーの立ち上がりからバンクの手前、それにヘアピンと見渡せるから絶好の場所なんだけど、僕のチームはもう1台の若手が乗るマシンを出しているから、それをほったらかしに出来ないしねー(笑)。それにしても120周の長丁場、良く走るねー、レースって凄いもんだねー良く解る(笑)」

――その120周、720キロですが、基本は2人のドライバーの交代制ですが、優勝の黒沢元治さんは一人で走りきった、3時間42分という長時間でした。

「GPクラスのドライバーは正2名補欠1名の計3名が登録できて、その中の誰が走っても構わないのです。今の時代では健康上の理由から、一人のドライブ時間は2時間までとかの制限が普通ですが、この時代には制限がなかった。ただ大方のチームは60周で給油とドライバー交代をしましたが、ガンさん(黒沢元治)は一人で走り通したのでチームメイトの1966年GPの覇者のヨッチャン(砂子義一)は走らずじまいでした」

――これには特別なわけでも。

「このストーリーは僕が知っていること・経験したこと・見聞きしたこと・僕なりの推測でまとめていますから、当時の専門誌記事の方が詳しいですよ。ただ事実と合致しているかどうかは別(笑)。だから、いろいろ言ってますが、以前にガンさん(黒沢)と雑談した時に僕が感じたのは、一人で走りきるしかなかったのでしょう」

――一人で走らざるを得なかったというのは待機ドライバー(砂子)に任せられない?

「ちょちょっと、それじゃ砂子さん怒っちゃうよ(笑)、レースはニッサンR382の黒沢、北野、トヨタ7の川合稔、細谷四方洋、高橋利昭/ヴィック・エルフォードの5車が先頭グループになった。レース中盤になると、R382とトヨタ7のリーダー争いになるのだけど、これについていけるのは、ポルシェ908(3000cc。田中健二郎/ハンス・ヘルマン)やポルシェ917(4500cc。ジョー・シファート/デビッド・パイパー)、ポルシェカレラ910(2000cc風戸裕/長谷川弘)くらいで、シボレーエンジンの5000ccや7000cc果ては7600cc!などのモンスターマシンもエントリー時の威勢良さはどこへやら(笑)。結局は、ニッサンvsトヨタの覇権争いになりましたね。

でも、両者ともマシン状態に心配がなかったどころか、エンジンは言うに及ばず色んなトラブルを抱えっぱなしだったようです。とくにガンさんのR382はエンジンの回転が一定せず、サスペンションの動きにも変調が出て、ドライバーにはその原因が解らないけど、“こうゆうエンジンの使い方をすれば”、“こういった走り方をすれば”、どうにか維持できそうだ、いや保ってみせる、といったそのドライバーならではのカン/テクニックが出るものなのです。多分、ガンさんの場合1回給油ピットインしていますが、本来ならばそこでヨッちゃん(砂子義一)にバトンタッチするところだけれど、ことの次第を告げる間もなく、このまま俺が行っちゃう方が正解だろうと判断したのではないかと思うのです。それにしても凄い体力だねー、800kmですから。こうなったら意地なんだろうね」

――それにしても120周を走りきったのは、2台のR382(1位/黒沢・2位/北野)だけで、3位の川合稔(トヨタ7)が1周遅れ、4位と5位のトヨタ7(高橋利昭と細谷四方洋)が117周で、あとは大きく周遅れになっています。やはり、ニッサンVSトヨタでした。

「スタートから3時間42分、トヨタ初め前々から耐久性を加味したGPを標榜のチームにとっても、120周のスプリントがこんなにも過酷なものとは思ってもいなかったのではないでしょうか。上位陣のマシンはどれもトラブルを抱え満身創痍の状態で走りきったのではないでしょうか。とにかく、後になって“良くこれで保ったもんだ”の故障個所があちこち見つかったようです」

――見る側からは、マシン開発から度重なるテスト、それも例年より半年も余裕がありましたから大きなトラブル無く決勝に臨んだように見えますが。

「確かに半年の余裕がありましたが、開発陣にとってはいくら時間があっても足らないのですよ。度重なるテストである程度のレベルに達したとしても、それはテスト走行、トレーニングのことであってレース本番状態とは違うのです」

――充分なテストで問題がなくても決勝は事情が違いますからね。

「テストで良いタイムを記録したとしても、テストはテスト。誰にも邪魔されず、ドライバーの得意な走り方の結果です。それがレース本番になれば抜きつ抜かれつで、ブレーキの場所、スロットルの開け閉め、ステアリングの動き等々、マシンはテストとは違う様々な扱われ方をします。やはり本番でないと本当の強さ弱さが掴めない。やはりレースは大衆の面前で繰り広げられる壮大な実験なのです」

――そうなると1969年日本GPはビッグマシン初の大実験でもあった。また将来、本場CAN-AMへの布石でもあった。

「カンナムに挑戦かどうか解りませんが、これだけのビッグマシンを開発した力を国内の覇権争いだけに終わらせるとは誰も思っていなかったでしょう。ただ、このGPの結果について、当時のメディアは5000ccと6000ccの違いが如実に現れたとしていますが、そう言えるのか疑問です。

なぜならトヨタ7の5000ccはV型8気筒、ニッサンR382はV型12気筒で、トヨタ7の3000ccから5000ccへの発展型と違い、いわば借り物のシボレー5000ccから完全に脱皮した新開発エンジンです。ただR382のV12が最初は5000ccから始まったものの期待する馬力が得られず6000ccに排気量アップしたと見る向きもあります。

いずれにしても、5000、6000ccというビッグマシン開発はエンジンのみならずシャーシーの他、タイヤも含めて日本では総て未知のジャンルだったわけです。1967年GPまでのレーシングカー、スポーツカー造りとは異質の分野だったのではないでしょうか。

その開発中にはヤマハの袋井テストコースでトヨタ7をテストしていた福澤幸雄がコースアウトして炎上、命を落とす悲劇もありました」

――いずれにしても、当時、大きな影響を受けた私としては、このGPが終わった1ヵ月半後、前年に続きCAN-AMが開催されましたが、1968年と1969年日本GPウィナーのニッサンR381とR382が、このレースに参戦しなかったのは、日本GPウィナーの名を汚したくなかった、というような印象をもっていましたが、その辺りはどうなのでしょうか。

「ああ、ワールドチャレンジカップ富士200マイル、通称日本カンナムですね。前年日本初このイベントにはトヨタも出て、善戦の模様は前回本欄で述べましたが、2回目の1969年日本CAN-AMでは、非力が明確だった3000ccを5000ccに排気量アップして日本GPを走って3位に入った川合稔が優勝しました。いま考えると、この勝利は驚くべきものだった気がします。

このカンナム番外編にトヨタは、マクラーレンM12にトヨタの5000ccを積んだマシンも用意して、鮒子田寛に走らせましたね。最近、鮒子田さんとの雑談で、マクラーレンM12シャシーは、それまで鮒子田さんたちが指摘していたトヨタの車体の弱点がすべて問題にならないレベルにあったとのことでしたから、GPでは色々な問題を抱えていたのです。

また、このイベントにニッサンが欠場したのは残念ですが、そのチームごとの体制、レース出場の目的が異なりますから何とも言えません。ただ、トヨタはGPだけでなく出場する価値のあるレースには積極的に参加しています。これもマシン開発の一環でしょうからニッサンとは随分違いますね」

――2回目の富士カンナムに出なかったニッサン、積極的参加のトヨタ、どちらも本場のCAN-AMやル・マンに行くにはまだまだマシンの熟成が足りなかった。我々が胸を踊らせて期待していた活躍はできなかったかもしれませんね。

「状況からすれば、その通りでしょう。また一気に燃え上がった1969年GPの光景が、次回1970年GPで再燃するのか、まさにファン目線ですが、この後、日本GPはどうゆう道をたどったのか、その辺りや新たに加わったもう一つのGP(JAFグランプリ)はどうだったのか触れてみましょう」

――もう一つのGPとは、フォーミュラカーですね。今、ホンダが苦戦しているF1もありますから、良いタイミングかもしれません。また、大きく成長するビッグマシンはどうなっていくのか、次回も宜しくお願いします。

◆1969年日本GP結果

  1. Ⅴ-1  黒沢元治/砂子義一   ニッサンR382 3時間42分21秒47 120周
  2. Ⅴ-2  北野元/横山達     ニッサンR382
  3. Ⅴ-3  川合稔         トヨタ7
  4. Ⅴ-4  エルフォード/高橋利昭 トヨタ7
  5. Ⅴ-5  久木留博之/細谷四方洋 トヨタ7
  6. Ⅴ-6  シファート/パイパー  ポルシェ917
  7. Ⅳ-1  ヘルマン/田中健二郎  ポルシェ908
  8. Ⅲ-1  風戸裕/長谷川弘    ポルシェ910
  9. Ⅱ-1  高野ルイ/吉田隆郎   SEKISUI LOTUS 47GT
 10. Ⅴ-7  高橋国光/都平健二   ニッサンR382
 11. Ⅲ-2  大塚光博        フェアレディ2000SR311
 12. Ⅰ-1  黒須隆一        DAY&NITE Spl.
 13. Ⅴ-8  蟹江光正/見崎清志   トヨタ7
 14. Ⅰ-2  戸坂六三        RQコニリオ
 15. Ⅴ-9  津々見友彦       ISUZU R7
 16. Ⅴ-10 米山二郎/西野政治   ISUZU R7
 17. Ⅰ-3  遠藤邦機/増田万三   3VワールドSpl.
 18. Ⅱ-2  杉山武/三冨輔充    EVA CANAM
 19. Ⅱ-3  米村太刀夫/粕谷純一郎 BELLETT R6

第六十四回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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