リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第66回
日本GPはカンナムレースへの試金石か

――前回No.65では1968年、1969年と続いたビッグマシンのGPが、マシン購入始め莫大な金がかかることから、ビッグプライベートチームが相次いて撤退し、1970年の日本GP開催が危ぶまれました。それに対しニッサンは6000ccエンジンをターボ化したR383で、トヨタも5000㏄ターボで530PSから800PSと言われる大馬力のニュー7を用意しました。新たな雌雄を決し、"本場カンナムレースに挑む筋書き"があった、と。

「そこにもってきて、降ってわいたような自動車排気ガスの厳しい規制です。その技術開発が急務でレースどころではなくなったわけですね」

――それをクリヤしなければ米国への輸出もできなくなるということで、メーカーはレースなんかやってる場合じゃない、と。

「結局、1970年GPは取りやめになったわけですね」

――もし、排気ガス規制問題がなかったらGPはこの内容のまま続いていったでしょうか?

「ビッグプライベートも不参加で、レース内容も排気量無制限のままということでしょうが、ニッサンもトヨタもやる気でいたでしょうし、それまでのプライベートとは違ったチームも出てくる、ひょっとしたら日本カンナムに出たチームの参加もあったでしょう。その流れは日本の二大メーカーが満を持して開発したビッグマシンで本場カンナムに挑んだでしょうね」

――うわー、そうなっていれば、、話だけでドキドキしちゃいます(爆笑)。

「単純だなぁ(笑)。でも、それを期待していたファンは多かったと思いますよ。仮に、そうであったら、メーカーの目標はカンナムですから日本GPはビッグプライベートの復帰や新生チームの参入など新たな姿になったかもしれないなー。ただ、マシンは製作の自由度が大きいグループ7(レーシングスポーツカー)やグループ6(プロトタイプスポーツカー)を踏襲したでしょうが、エンジン排気量はオープンでなく3000cc辺りの制限が考えられたでしょうね」

――なるほど。そういった考えが実践されれば迫力も損なわれずにオープンスポーツカーのGPは継続されたかもしれませんね。

「まあ、R382もトヨタ7も、ドライバーの中には300キロを超える速度のホームストレッチから30度バンクに突入する際、グッと歯をくいしばるのね、自然と。それで歯を痛めるのでボクシング用のマウスピースをくわえるようになるのだけれど、そのマウスピースが割れちゃうくらいの過酷なドライブなんです。だから迫力も結構だけれど、3000ccくらいのマシンなら迫力充分なレースになりますよ」

――30度バンクは、ききしに勝る凄さだったのですね。

「バンクの善し悪しではなく、富士のコースは元々バンクをつないだオーバルコース計画で始まったけれど、1コーナーのバンクが完成した後にロードコースに変更したことや、当時の土木工事ではバンクの路面が波打った仕上がりになったままだから危険といえば危険、特異といえば特異なコースなわけです。まあ、このまま5000ccや6000ccの排気量オープンマシンが続けば、ラップタイムは、1分50秒から1分40秒台になったでしょうから、必然的にバンクは大きな課題の一つにはなったでしょうね。ただね、こんなバンクと長いストレートのコースで鍛えたマシンなら本場カンナムで充分に闘えただろうね(爆笑)。
まあ、こういった想定より、日本GPはこのままで良いのか?という問題提起がGP運営内部、また多くのレース関係者から噴出しだしたのは事実で、どのみち日本GPの改革は避けて通れなくなったのです」

――簡単に言えばニッサンもトヨタも出ない日本GPなんかありえない、と。

「結果的にはそうなんでしょう。日本GPとなれば10万人を超えるファンが押し寄せる。それを主催するJAFは、本来、日本の自動車レースの導き役・調整役であるべきなのですが完全なプロモーターになってしまっていたから二大メーカーが出ないGPでは採算とれるかどうか算盤勘定も入りますね。そうなれば、商売になるよう富士SWに支払うコースレンタル代の駆け引きもあるでしょうし、そこには"日本GP"という自動車レース最高の称号を冠したイベントへのセオリーも高度な思想も無くなっちゃって、簡単に"中止"の道を選んでしまうのです」

――JAFが打ち出した春はフォーミュラカーのGP、秋はレーシングスポーツカーのGPという二本立ての考えは、面白いと思っていたのですが。

「僕も素晴しいと思っていましたよ。それが簡単に崩れてしまうのはメーカー主導の弱点をさらけ出した証しでしょう。だから、JAFスポーツ委員や有力な自動車クラブの中にはGPの在り方に疑問を呈していた者も多かったようで、GP中止は当然の成り行きと見たのか諦めたのか(笑)大騒ぎにならなかったみたいでね」

◆早かった日本へのフォーミュラカー登場

――そういった状況のところにフォーミュラカー推進派が台頭してきて。

「台頭って、革命じゃないんだから(爆笑)。ただ、この時代、世界的に自動車レースが盛んになってきて、旧来の車両規定、例えばプロトタイプGTカーならヘッドライトがついていて座席が2つ以上とか、市販車と同じ構造などはレースになじまないなどの考えが出始め、安全性が保たれていれば余計な規定は不要とばかりに、マシン製作に自由度が広いグループ7規定が登場します。この自由度がどんどんエスカレートしてエンジン排気量無制限になり、ビッグマシンの過熱に突っ走った一部のメーカーとノンメーカーとの差が広がりすぎてしまったといえます。
一方において、メーカー以外のコンストラクターが増えてプライベートの軽量車がレースの底辺拡大にもなったのですが、やはりレーシングマシンは厳格な車両規定の下にあるべきとする考えは1965年に開催されるはずだった第3回GPを前にして強くなり、その流れはずーっと続いていたのです」

――そうなるとロードレースというスピード第一の競技にあって、規格・公式という意味のフォーミュラは、車体寸法、エンジン排気量に厳しい規定があるものの、車輪はオープンで良い、一人乗りで良いなどレースにかなった考えのマシンなのですね。

「その通りなのですが、鈴鹿サーキットができた、GPが始まった、クラブマンレースも多くなった、と言っていたらホンダはいきなりF1挑戦でしょ。他のメーカーからすればF1なんてまったく手が届かないもので追従できるわけもないし、その挑戦の意義も理解されませんよ。必然的にフォーミュラカーに対する食わず嫌い・見ぬふり的距離感が生まれてもおかしくないし、『レースは市販車性能向上に直接つながるものでなければならない』の定義が基本が更に強まってきます」

――フォーミュラカーとなれば市販車とかけ離れているから、レースは市販車向上のためにあるという定義になじみにくい。やはりスポーツカーみたいな形でないと。

「まあ、前にも話しましたが富士SWのコースレイアウトにも関係ありますけどね。とにかく、鈴鹿で最初のGPが始まって、日本のレースも欧州のようなフォーミュラカーが主流になるような兆しはありましたからね。だから第1回GPの時、欧州のドライバーとマシンを集め〝国際スポーツカーレース〟というクラスを設けて、本場のレースはこうゆうものだの披露をしたのです。この時はピーター・ウオア&ロータス23のレーシングスポーツカーやポルシェカレラ2などのGTカーの混合でしたが、翌年第2回GPでは『JAFトロフィーレース』という名称をつけたフォーミュラカーだけのクラスを設け、見本としたのです」

――日本の自動車レースが始まって直ぐにフォーミュラカーレースがあったのですね。そうなると、この年はホンダがF1初挑戦の1964年ですからフォーミュラカーを知らせるには好都合のチャンス。

「編集長は僕が思いもつかぬ考えしますねー(爆笑)。でも言われてみればフォーミュラカーとはこうゆうものといったPRには絶好だったなー、初めて気づいたけど(笑)。それはともかくとして、この見本レースがなかったらフォーミュラカーへの関心はもっと遅くなったかもしれないなー」

――その日本初のフォーミュラカーレースはどんな内容だったのでしょう?

「基本的には第1回GPにペチャンコのロータス23で参戦したピーター・ウオア初め、マイケル・ナイト、F.フランシスなどの欧州で活躍のドライバー、それに日本に一番近いマカオGPやシンガポールGPなどに参加しているアルセニオ・ラウレルなどで、マシンはブラバムFJやロータス22や27などのシャーシーに1100ccのエンジンを積んだ当時のF2既定のもの。余談だけど僕が後に深く関わるマカオGPは、既に日本より10年も前からレースやっていてねフォーミュラカーも盛んだったのです」

1964年に鈴鹿サーキットで行なわれたJAFトロフィー・レース。ロータスやクーパーに混じって、日野コンテッサのエンジンを積んだ国産のデル・コンテッサが、ゼッケン1と2の他にもう1台、計3台がエントリーした。

――まだ2回目のGPだから、当然、日本からの参加は無かったでしょうね。

「ところが、このレースには日本からの参加者もいてね、大事なことを忘れちゃいけないねー(笑)。立原義治さんともう一人、忘れた(笑)それも日本製のマシンでね」

――えっ、もう既に国産フォーミュラカーがあったんですか。

「この人はオートバイレース時代から僕も良く知っているけれど、四輪レースが始まるや日野自動車が製造の乗用車・日野コンテッサでツーリングカークラスにも出ていて、日野自動車がスポンサーのせいもあったでしょうコンテッサのエンジン893ccをベースにした940ccを積んだデル・コンテッサという、まあホンダF1以外では国産初のF3フォーミュラカーになるのでしょう」

――エンジンはわかりますが、シャーシーは外国製でないと走れないでしょう。

「その当時、立原さんが所属する105マイルクラブ会長の塩沢進午さんの所と日野自動車の協力で製作したと聞きましたから、純国産でしょうね。要は、こんなにも早くフォーミュラカーに興味を持って製作ばかりでなく実際にレースに出て14台出走の6位ですから立派なものですよ。だから、これも仮にですが、第3回GPが引き続き鈴鹿であったとしたらフォーミュラカーの正規なクラスが設けられていたと思いますよ」

――それが富士SWという超高速コースに移って状況が一変した。

「状況が一変というか、とにかく第2回GPのように各社が市販車をギンギンに改造したクルマで、ウチが勝った、どこの車が速いといった"まやかし"は止めよう、そして市販車レースでなく、スピードレースを象徴するクラスにGPの称号を冠しよう、ということになって誰もが異存はないのだけれど、そうなると、どんなマシン、どんな内容のレース、となって喧々諤々、今まで述べたように混乱が連続したままGPが続いたということです」

◆フォーミュラカーレースは日本GPに成りうるか

――それで1966年にGPが再開されてプロトタイプスポーツカーが登場してきた。

「これも以前に触れましたが、結果的にはメインレースはグループ6規定のプリンスR380やトヨタ2000GTなどのプロトタイプスポーツカーが主役になりました。しかし、そこに至るには大変な混乱がありましてね」

――多少、おさらいになりますが再度の確認を。

「要するに、レースへの参加は個人でもメーカーでもレースに出られるクルマがあるかどうかが基本的条件ですね。この時点で見れば市販車ベースのツーリングカーはどのメーカーにもありますが、スポーツカークラスとなれば、ホンダ(S800)トヨタ(スポーツ800)ニッサン(フェアレディー1600)プリンス(2000GT)くらいで、とてもGPクラスにふさわしい車種はありません。結局、トヨタが市販目前とする2000GT、プリンスR380のプロトタイプタイプスポーツカーをメインとしたクラスをGPにする方向になるのだけど、では、耐久重視かスプリントかで紛糾し、その中間的な60周(360㎞)で落ち着くわけです」

――そうなると、この時点ではフォーミュラカーの話題もない?

「いえいえ、前々からフォーミュラカーは出てくるのですが、ホンダは別として、どこのメーカーも興味を示さない、あれは別物といったスタンスです。フォーミュラカーの育成は必要とは言うものの単なるポーズだったでしょう。ただ、三菱はフォーミュラカーでのGPを主張していましてね」

――それはホンダのF1挑戦と同じく、三菱も市販車と一線を画したレース車に技術をつぎ込む、といった考えで。

「自動車メーカーとしてのポリシーかどうかは解りません。ただ三菱にはコルト・モータースポーツ・クラブというのがあって、そこのドライバーには望月修、益子治、加藤爽平など、元二輪レースで名を馳せた者が多く、レースとはどうゆうものか、どうあるべきかなど、まあ、僕と同じようにね(笑)、そういった考えがメーカーにも影響していたと思いますよ。でも多勢に無勢でしょうが、JAFスポーツ委員も将来的な方向を考えれば無視できず、育成策の一環で1966年GPのエキジビジョン(展示、公開)レースに組入れたのでしょう」

――でも、日本にはマシンがありませんね、それと、どのクラスのフォーミュラカーですか。

「結局、第2回GPの時のデル・コンテッサやデルのシャーシーにいすゞべレットやロータスのエンジンを積んだもの。三菱は言いだしっぺの立場ですから、自社乗用車コルトのエンジン(1000㏄)を使ったメーカー製造の本格的F3を登場させました。この時代、フォーミュラカーのクラス分けはF1が3000㏄、F2が1600cc、F3が1000ccですが、フォーミュラカーなら何でも良いってんで、600ccから1600ccのごちゃ混ぜ13台の10周レースから日本のフォーミュラカーレースが始まったのです」


◆『JAFトロフィーレース』結果表
※1964年第2回日本GPで行われた日本初のフォーミュラカーレース

1. M.ナイト BRABHAM 15周 38分46秒4
2. P.ウォア ロータス27 15周
3. F.フランシス ロータス22 14周
4. A.H.ラウレル ロータス22 14周
5. R.S.リトラー ロータスQOJ 13周
6. 立原義次 デル・コンテッサ 13周
7. R.ダンハム デル・コンテッサ 13周
8. R.Q.アイアー クーパー  12周
9. J.ツェー ブラット 12周
10. L.ルース ロータス15 12周
----以下、リタイア
 M.エヴァンズ LOLA MARK-Ⅲ
 小島 常男 デル・コンテッサ
 J.S.グリーン ELVA
 A.オーウェン COOPER

第六十六回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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