――前回の第66回では、日本の自動車レースは日本GPを頂点に位置づけて数々のカテゴリーが発展してきましたが、スピードレース専用のマシンともいうべきプリンス(後のニッサン)R380やトヨタ2000GTなどのプロトタイプスポーツカーが、もっとレース専用のグループ7レーシングカーへと車両規則が次々と変り、遂にエンジン排気量も無制限のモンスターマシンに拡大していった、と。
「ええ、その結果は、自動車レースってスッゲーもんだ、と多くのファンは新たな超スピードの興奮に湧きましたが、ビッグマシン化する中で、僅か2年で活動停止に追い込まれるチームが続出しました。とりわけ、1970年は、日本グランプリ連勝に満を持して6000ccのターボ化して開発するR383のニッサン、5000ccのトヨタ7をこれもターボ化して530PSから800PSにしたと言われるトヨタの二強もGP参加中止を打ち出し、急成長する自動車レースの仇花か恐竜の共食いか、呆気なく消滅してしまいました」
――前回に述べられた通り、それは日本のレース界の無理が祟ったということよりも、米国の厳しい自動車排気ガス規制の導入に対応する技術開発を急がねばならない。そうしないと米国への輸出ができなくなるという大問題に直面したのですね。これは日本だけでなく世界中のメーカーの課題になったわけですが、特に米国輸出第一の日本にとってはレースどころではなくなってしまったわけで。
「その通りですが、今の時代になると、レースを中断しなくてはならなかったほどの重大さが良く知られていないようですからその概要をまとめてみましょう」
「世界中に自動車が普及し始め、とくに米国では1950年代から都市部の光化学スモッグが問題視され、工場排煙や自動車エンジン排ガスなどによる空気汚染防止の大気浄化法が1963年に制定されます。さらに長年この課題に取組む米国議会のマスキー議員が自動車エンジン排気ガスの一酸化炭素(CO)、炭化水素(HC)などの窒素酸化物を1975年までに10分の1まで減らす大気浄化法の改正法案を提出します。当初は、米国でさえ、そんな無理なこと言ったって、というスタンスでしたから、日本もあまり重大視していなかったようですが、それが1970年に制定されてしまうのです、通称マスキー法と呼ばれます」
――マスキー法の話題が大きかったのは覚えていますが日本では、まさか、そんな法律が、と思ったようですね。
「1960年代の後半から日本でも工場や自動車排気ガスによる大気汚染が言われだし、光化学スモッグという名称で明らかな被害が発生したのは1970年ですが、クルマが増えるに従い、大気汚染問題は出ていました。しかし、その大きな原因が自動車だと思っている人は少なかったでしょう、僕もその一人でしたから、そんなに解決を急ぐ課題ではないだろう、のスタンスでした」
◆マスキー法を打破したホンダ
「米国でマスキー法云々というニュースも入っていましたけど、そんな早くにエッライ法律が実施されるなんて思ってもいなかったのが本音ではないですか。もっとも米国では、こんな厳しい法律でのエンジンなど造れるわけがない、とばかりにビッグスリーや、その2〜3年後に起こる石油危機と技術的困難を理由に次々に法律の修正があったりしますが自動車業界には深刻な課題でした」
「ところが、なんと1973年12月に、ホンダが、小型乗用車のシビックに搭載するCVCCエンジン(1500cc)が、米国のマスキー法1975年規制合格第一号車の快挙を成し遂げたのです」
――これに成功のCVCCエンジンの構造を明らかにし、他のメーカーへの技術供与をするホンダの姿勢も大きく評価されましたね。
「ホンダは四輪メーカーとすれば、まだ小さかったでしょうが、F1GPや二輪のワールドGPでワールドワイド気風のホンダさんのモータリゼーションとは何か、からの観点でしょう。いずれにしてもホンダは、、日本のメーカーだけでなく世界中の自動車メーカーに"possibility・可能性"への道筋を示したのではないでしょうか」
――日本のモンスターマシンは、これへの対応でピリオドを打ちましたが、大気汚染のクルマ悪者論は無くなり今の原点になった、と。
「ただね、僕自身、レースという競技を通じての技術向上は市販自動車の、走る・停まる・曲がるの基本性能をどんどん高め、地上を走る喜び・楽しみを倍加させ、安全面にも寄与する性能向上をもたらすという市販車向上に関わっていることの喜びや誇りがあったのですが、突然のように米国に突きつけられた課題は、レースが果たしてきた役割が全く通じていなかったようで、正直愕然としましたねー」
――レースマシンのエンジンはどうやって馬力を上げるかの技術には熱心でも、排気ガスは筒抜けのパイプから無遠慮に空中に放出していたわけですからね(爆笑)。
「ホント、騒音も一緒にね(笑)。そう考えると排気ガスを抑制する技術ってレースエンジンとは間逆だし、考えちゃったなー。僕が考えたって、どうなるもんでもないけれど(爆笑)」
1966年に富士スピードウェイで行なわれたフォーミュラカーレースは"エキジビション"の名前がつけられた。混走するスポーツカーが、なんとも時代を感じさせる。 (photo by 『無我夢走』/三栄書房)
――レースが続くのかどうか、そっちの方が問題で?
「さすが編集長、良く解っているねー(爆笑)。ただ、ずーっと後になって、CVCCが成功した話の関連で、排気ガスのクリーン化の基本は吸入した燃料と空気を完全燃焼させることだから、それを最高に要求されるレーシングエンジン技術からの派生は大きかったのを知って、なんか安心しましたね(爆笑)」
――やはり、レースというのは奥の深いもの、単なるスピードごっこに見られては困る(笑)。
「そこで、モンスターマシンが滅びた後のGPということで、フォーミュラカーレースが脚光を浴びてくるのだけど、1966年の富士SW初のGPにエキジビションとしてフォーミュラカーが登場する過程は前回までに語りました」
◆1966日本GPのテストケースとしての『フォーミュラカーレース』
――そのエキジビションは600ccから1600ccごちゃ混ぜの13台で10周(60km)のレースを行い、正にフォーミュラカーが日本に根付くのかどうか、テストケースだったのですね。
「僕もね、フォーミュラカーやれやれと言ったって、第一に、1964年の日本GPに外国から招待したフォーミュラカーレースに、日本から出たのは自家製の2台だけですからね。当初は5〜6台集まればいいかなってほどのもんですよ。まして、次回GPの予定も立たなかった状況だから、かなりムリして13台集めたようです」
――フォーミュラカーの種類をエンジン排気量でみれば、この1965〜1966年は、F1が1500CC(1961〜1965年、1966年からは3000cc)F2が1000cc(1964〜1966年、1967年から1600㏄に)、それに市販車エンジン1000cc未満のF3(欧州各国独自の規定あり)と3種になりますが、このGPでは、どのクラスだったのでしょうか。
「そう、クラス分けをはっきりさせなければレースになりませんが、とにかく日本にはマシンが無いのでね。最初に参加マシンと順位を記したほうが解りやすいでしょう」
順位 | ドライバー(年令) | マシン名 | シャーシー | エンジン | 排気量cc | 周回数 | タイム |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 望月 修 (35) | コルトF3A | 三菱3A | 三菱R28 | 997 | 10 | 24'00"73 |
2. | 古平 勝 (27) | ブラバム | ブラバム | フォート゛コスワース | 1000 | 10 | 24'35"25 |
3. | 本田 正一 (25) | デル・べレットGT | デルMK3B | いすゞG160 | 1579 | 10 | 25'29"96 |
4. | 松永 正義 (40) | ロータス32 | ロータス32 | フォード | 997 | 10 | 25'33"66 |
5. | 荒尾 正和 (39) | アローべレット | アロー | いすゞG160 | 1579 | 9 | 25'35"49 |
6. | 横山 靖史 (29) | TOJIRO Ⅱ | ホンダAS285改 | ホンダAS285E ※ | 606 | 9 | 26'48"04 |
7. | 塩沢 勝臣 (24) | デルコンテッサ | デルMK3A | 日野 | 1298 | 8 | 25'30"74 |
8. | 平山 義雄 (30) | デルコンテッサ | デルMK3A | 日野GR100 | 1251 | 8 | 25'32"13 |
9. | 矢吹 圭造 (29) | TOJIRO Ⅲ | ホンダ改マクランサ | ホンダ ※ | 606 | 4 | 24'38"13 |
守屋清太郎 (25) | モスターFJ | モスター | 三菱KE43 | 1000 | |||
川村 輝夫 (32) | デルコンテッサ | デルMK3A | 日野GR100 | 1251 | |||
三保敬太郎 (29) | デル・エラン | デルMK3A | ロータス | 1488 | |||
S.Simmes (24) | DEVINスポーツ | デヴィン | GM ※ | 5360 |
望月 修の優勝速度 149.92km/h
――なるほど、フォーミュラカーレースといっても、確かにごちゃまぜだ(笑)。さらに※印はグループ7なのかGTかわからないですね。
「だから、名前も"エキジビション"(爆笑)、思いっきり集めても国内のフォーミュラカーは10台程度ですから、それでは余りにも寂しい。その当時、フォーミュラカー育成の一方で、市販車をベースにしてレーシングスポーツカーを製作する街のコンストラクターが誕生し始めたのです。京都の林みのる氏のマクランサ、東京のレーシングクォータリー・山梨信輔氏(故)&デザイナーの浜素紀氏によるコニリオ、藤壺技研などなど次々とマイナーレーシングカーとも言えるマシン造りが増えてきました」
「ところが、好き者や趣味での製造マシンに対する安全性や信頼性に疑問を呈すセンセイ方も多くてね、認知度が低いのですよ。そういったこともあったでしょう、テストケースとして走らせたらどうか、で、こうなったみたい(笑)」
――でも、その後を見れば、両方とも良いチャンスだったのではないでしょうか。
「僕もそう思います。翌年GPにはメーカーマシンだけでなく、ライトレーシングスポーツカーでの参加も増え、ドライバーのみならずコンストラクターの成長が日本のレース界の底辺を支えていくようになるのですが。それに比して、翌年1967年日本GPで、フォーミュラカーは正規のレースクラスになるのですが、期待するような普及度はありませんでした」
――それはエキジビションではあるけれど、フォーミュラカーへの関心は盛り上がらなかった?
「まあ、無理もないですが、フォーミュラカーといっても正式にF3と呼べるのはたったの3台ですし、"乗ってみたーいっ"と思える手作りフォーミュラはまだまだですから。その点、三菱は早くからフォーミュラカー活性化論の急先鋒でしたから、フォーミュラカーの出発点であるF3を、しっかり、まじめに造り上げましたね」
「メーカーが手がけるフォーミュラカーだと、すぐホンダ的な独創マシンを考えてしまいますが、ブラバムを範とする鋼管パイプ構造のシャーシーに自社市販乗用車コルト1000のOHV直列4気筒997cc(市販51HPを90HP/8000rpmにチューンした)エンジンを搭載したコルトF3Aでした」
「後年、僕もこのマシンで出場したことがありましたが、市販車OHVの1リッターエンジン、これが偶然かどうか小柄でF3シャーシーに適するサイズだったこともあって、優れたバランスのマシンでした」
――この1966年日本GPの優勝者の速度記録を見ますと、GPクラスの砂子義一選手(プリンスR380)が166.33km/h、GTカークラスの高橋国光選手(日産フェアレディー)が148.96km/h、特殊ツーリングカークラスの須田裕弘選手(プリンス2000GT)が150.31km/hですが、エキジビションとはいえ望月修選手のコルトF3Aは、なんと149.92km/hで、とても1000ccとは思えない速さですね!!
「ええ、ですからレーシングスポーツカーが走る姿に比べると速度の面でフォーミュラカーは劣るように見えますが、この上のF2、F1になればもっと速く迫力あるわけですが、この時点では知られていなかったのです。したがって、モンスターマシンに代わってGPの主役になるまでには随分と時間がかかっていくのです」
「今回から、日本のフォーミュラカーレースがどのようにして始まり、どう育っていくのか、語っていきますが、やがて2018年のF1シーズンが始まる時期でもありますので、F1取材が長い山口編集長に、その辺りをお話頂いたらどうかと思いますが如何でしょうか」
――そうですね、日本のフォーミュラカー出発点を語って頂いたのにふさわしいでしょうから。
今年は、ホンダが復帰4年目です。まず注目は、ホンダのパワーユニットを積むトロロッソ・ホンダ。ホンダは、去年までのマクラーレンと別れて、セカンドクラスのチームであるトロロッソとジョイントしたわけですが、イタリアのファエンツァに居を構える愛すべきチームなのです。
マクラーレンとの関係は、第二期ホンダF1時代のマクラーレン・ホンダの強烈な強さのイメージがあったことで、期待が勝手に巨大化していわば妄想レベルになっていましたが、実はマクラーレンは、ホンダと組む前からチーム力を落としていて優勝どころか入賞も危ぶまれるチームだったのです。トロロッソは、いまはセカンドクラスですが、伸び代という意味ではいわば無限の可能性を持っていて、ホンダとのジョイントを大歓迎しているムードもありますから、本当に楽しみです。
「ただし、いきなり優勝争いをするわけではないですからね」
――仰る通りですね。でも、ホンダのパワーユニットも去年終盤にはそれなりのレベルになっていて、今年はさらに加速度的にポテンシャルを上げると見込めます。メルセデス、フェラーリ、レッドブルの3強にどこまで近づけるか、という辺りに着目して、3月25日の開幕戦オーストラリアGPを待ちたいと思います。
「それは楽しみですね」
――正直、1960年代終盤から1970年代にかけての当時、"ビッグマシン"の迫力に圧倒されていてフォーミュラカーには興味があまりなかったのですが、こうしてお話を伺っていると、当時のバックボーンを知ることで、さらに現在のF1GPへの興味を深くできる気がしてきました。
「ちょうどホンダが第一期と呼ばれるF1チャレンジを始めたのが1964-1968ですから。その辺りのホンダの考え方と、日本のモーターレーシング界全体の進み方を観るのは、なかなか興味深いことになるかもしれませんね。次回は、その辺りを紹介しましょう」
第六十七回・了 (取材・文:STINGER編集部)
制作:STINGER編集部
(mys@f1-stinger.com)