◆ホンダのF1挑戦とジャック・ブラバム氏
――前回(No.68)は1967年日本グラプリのフォーミュラカークラスがエキジビションから正規のレースクラスに格上げされ、本格的な普及の土台作りが始まったものの、意外にも参加者は増えなかったとのお話でした。ただ一つ、三菱自動車が国産初の1600ccのF2マシンを開発し、ポルシェ910やニッサンR380Ⅱに負けず劣らずのラップタイムで走るポテンシャルを示し、これが唯一の成果であったという内容でした。
「そうでしたね。まあ三菱の一人舞台、いや、望月さんと益子さんだから二人舞台か(笑)、レース内容は寂しい限りでしたが本物のF2の見せ場はありました。それまでフォーミュラカーは、グループ7のレーシングカーに比べて迫力に欠けると思われていたのですが、速さは充分ですし、コーナーリングの鋭さなどはボディーで覆われたレーシングカー、ツーリングカーなどには見られないものでした」
――そういった特徴が知られるようになったけれど、問題はどのようにして参加台数を増やしフォーミュラカーレースを盛り上げるか?ですね。
「その通りですが、富士SWで2回目のフォーミュラカーレースが行なわれ、1967年日本GPの後になると、鈴鹿でもフォーミュラカーレースが開催されるようになり、一気に、という勢いではありませんがフォーミュラカーが急に増え出したのです」
――フォーミュラに縁が薄かったのが急に身近になった。一見すれば、何とか造れそうな構造だし、ポルシェ906やローラのように莫大な資金でなくても買えそうな感じ(笑)だから、プライベーターが外国製を輸入したのでしょうか?
「いえいえ、そうじゃなくて、僕も後から実情を知ったのですが、日本にはフォーミュラカーの車体(シャーシー)が何台もあったんですね」
――えっ、そうゆうメーカーが既にあってフォーミュラカー開催に備えていた?
「いーえ、そんなドラマ的暗躍ではなくて(爆笑)。これはホンダF1に関係してくるのです」
――うーん、やっぱり、そこにいきますか。F1のついでにホンダがフォーミュラシャーシーをどんどん造り出したんでしょうか。
「いーから、ちょちょっと待ちなさい、どーも早飲み込みが多いんだから(笑)。これには複雑な技術面の話があってね。繰り返しですがホンダF1の初陣は1964年でしたね。この時代、フォーミュラ1のエンジン規定は1500ccで、ホンダのRA271はV型12気筒の構造で先進諸国を仰天させました」
――そうでした。バイクで世界チャンピオンになったホンダの参戦は大いに注目されていたようです。
「そのF1の下にはフォーミュラ2のクラスがあり、1964年からエンジン規定は1000cc。ちょっと横道ですが、F1の排気量は、1966年になると、自然吸気は3000cc、スーパーチャージャー付きは1500ccと倍になってしまいましたから、ホンダの1500ccは短命で大変だったでしょうね」
――たしかに、デビューの年は右も左もわからない。で、2年目に大改造したRA272は、たった1年の短命というのが宿命でした。
「そこでF2の1000ccが肝心なのです。この時期F1で活躍していたオーストラリア出身のジャック・ブラバムさんは、F2でもエースで、ホンダの初陣からRA271の構造や製作技術に注目されたようです。尤も、オートバイ世界グランプリでホンダは連勝していて、250ccや500ccクラスのマシンでは4気筒、6気筒など、多気筒エンジンを駆使していましたから、四輪レース関係者だってホンダだけでなく日本の技術に注目していましたよ。知らなかったのは日本人だけ(爆笑)」
――なるほど。そこでホンダはF2にも挑戦するのですね。
「間違っちゃいないけど、まあお聞きなさい(笑)、ホンダのF1初陣から間もなく、ジャック・ブラバムさんは、このF2に搭載する1000ccエンジン製作をホンダに依頼するのですね。ブラバムさんはドライバーであると同時にフォーミュラカーのシャーシーメーカーのオーナーですからF2で名を挙げ、ブラバムシャーシーの拡販を狙っていたのは当然でしょう」
――F2は、多くが知っているV12のRA271の陰に隠れたようにあまり騒がれませんでしたから。
「F1という言葉じたい、日本の世間で通用する言葉ではなかったからねー。僕も正直いって大きな興味は持たなかったですよ」
――それにF2用の1000ccのエンジンは、特別生産ですし。
「研究所ですから何でも造るでしょうが(笑)、ホンダが1963年に市販のスポーツカー500ccで始まって、翌年に600ccになり、1966年1月にはS800になりますね。その流れ、からすれば、F2エンジンのスペックでは、DOHC4気筒で994cc、出力は150hp/11000rpmとありますから、超特別かどうか(笑)でしょうね。まあ、今想えば超特別ということではないようで、僕だってS800を1000cc近くにボアアップすることをトライしたくらいですから。それで、ホンダの超特別1000ccエンジン(笑)をブラバムのシャーシーBT18に載せて1965年から欧州F2選手権シリーズに参戦したブラバムさんが、1966年には11連勝の快進撃をしてしまうのです」
――それで、ブラバムさんが自分のシャーシーを日本に売り込んだ?!
「いえいえそれは逆でね。鈴鹿サーキットは欧州の各種コースを参考に造りましたから、ましてホンダのお膝元テストコースだったから、F1テストは当然だし、フォーミュラカーはごく当たり前の存在だったでしょう。1964年第2回日本GPの後でしたけれど、〝いずれは鈴鹿でフォーミュラカーのレースをしなければ〟という話が結構出ていましたから、ブラバムさんとの関係はエンジンのことだけでなく色々拡がっていたようです」
――なるほどぉ、フォーミュラカーを育成しようという流れだったのですね。
「とくに、日本でフォーミュラカーレースを普及させるには、マシンへの知識、ドライビングテクニックなど、フォーミュラカーの基礎から教える講習制度をサーキットが独自に行ったらどうか、という話もありました。要するにフォーミュラカーによるレーシングスクールですね。多分、それは現実的な構想だったのではないでしょうか」
◆鈴鹿サーキットの英断
ホンダが講習用として所有していた約20台のフォーミュラカーが放出され、多くのプライベーターがフォーミュラレースを実現させた。
――そうなると、講習用のフォーミュラカーが必要ですね。
「そうなんですが、富士SWにグランプリが移ちゃって、この話はしばらく忘れられたようだけど、富士最初の日本GPのエキジビションフォーミュラカーレースの後に、〝そういえば、鈴鹿のフォーミュラカースクール、どうなっちゃったんだろう〟となって、鈴鹿サーキットの倉庫に20台くらいのフォーミュラカーシャーシーが眠っている話が明らかになってね」
――1959、1960年のF1連続世界チャンピオンのブラバムさんと彼のエンジニア、ロン・トーラナックが立ち上げたMRD(Motor Racing Development)製作のBT(ブラバムのBとトーラナックのT)のシャーシーは、その後のF1でも大活躍しますが、そんなに早く日本に、それも大量に存在していたのは驚異ですね。
「その通りなんですよ。ただ、鈴鹿サーキットでのGPが富士に移ったことや鈴鹿自体の運営方向などもあって、このお宝ブラバムのシャーシーは講習会もできずお蔵入りしていたんですね。後から解ったのはブラバム製のF2用BT18、F3用BT16のシャーシーが20台ほどあったようです」
――いやーもったいないですねー。
「とにかく鈴鹿としてもGPも富士にいってしまう、フォーミュラカーの話など出てもこない、これでは講習用マシン造ってもどうなんだろう、という自問自答もあったと思いますよ」
――欧州のレーシングスクールではフォーミュラジュニアと呼ぶのでしょうか、最初からF2やF3の本格的レースマシンでなく、1000cc以下の市販車エンジン積んだフォーミュラで教習する話を聞きましたが、レースを広めるには日本にもそういった施設あれば良かったでしょうね。
「僕もそう思います。今では各サーキットで独自の教習システムがありますし、昨年、インディ500で優勝した佐藤琢磨さんも鈴鹿のレーシングスクールからスカラシップで上がっていったドライバーですね。でも50数年前の日本ではレース自体が続くのかまったく分からない時代ですし、まず、スピード出したくてしょうがない連中が勝手に始めちゃったようなものだから(笑)。ただ、欧州のような系統的システムなのかどうか知りませんが、鈴鹿では何らかの教習というか講習か、走り方を教えるシステムの課題は持っていたと思いますよ。ブラバムシャーシーも、その目的だったのでしょうが、とにかくレースの流れが富士山の方に行っちゃって鈴鹿とすれば、それどころじゃーない(爆笑)」
――その当時にレーシングスクールあったら随分と状況は変わったでしょうね、そうだったら私も入学していたかも(笑)。
「そうかもしれないね(笑)。それで、鈴鹿が保有しているフォーミュラカーシャーシー、その中の何台かは1000ccエンジンが付いたコンプリートのマシンもあったようだけれど、今すぐレーシングスクールを開く計画もないし、フォーミュラカーレースが普及するなら鈴鹿もホンダも大歓迎でしょうから、保有シャーシーでレースに出てくれる人に譲ったら(売却)どうか、という大所高所の判断があったようです」
――ほー、スクール開設じゃなくて、レースをしてもらう、現実的で鈴鹿はやはりホンダのDNAを引いている(笑)。
「そういった大げさなことじゃないと思うけど(笑)、レース界にとっては画期的なことですよ。仮に鈴鹿が、いずれスクールを開くのだからと、そのままにしておいたら鉄屑になっちゃったでしょう。ずーっと後になってスクール実現の頃には古くさいシャーシーじゃ使い物になりませんよ。そういった総合的な判断もあったでしょうが、いずれにせよ立派な方針です」
――となると、放出されたフォーミュラカーがどう生かされるのかが知りたくなります。
「次回はその辺りをお話しましょう」
第六十九回・了 (取材・文:STINGER編集部)制作:STINGER編集部
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