リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第72回
軽自動車のフォーミュラカー

◆フォーミュラカーレースの波及効果

――前回No.71では、大馬力モンスター化グループ7マシンが席捲する日本GPへの反動のように、それまで日陰の身だったような(笑)フォーミュラカーが台頭し始め、とくに鈴鹿サーキットが保有していたマシンを入手したチームが増えた効果もあって、1968年日本GPで、スピードカップレースという名称になったフォーミュラカーレースの存在が高まったことをお話しいただきました。

「その通りですね。それは国際規格のフォーミュラマシンを普及させるべきとする三菱自動車の孤軍奮闘的な姿勢や鈴鹿の英断も大きく影響していますが、何と言ってもホンダのF1挑戦の話題が段々と一般社会にも入り込み、レースファンには特にフォーミュラカーへの関心が高まったこともあります。まあ残念なことは、この翌1969年からホンダはF1活動を休止し、挑戦再開は13年後ですが、フォーミュラカーレースが日本のビッグ2レースの一翼になるにつれレース界底辺が一挙に広がりだすのです」

――フォーミュラカーがレースへの興味を高めた?とすれば、どんな興味なんでしょう?

「うーん、何て言うのかなー、、フォーミュラなんて細っこいマシンじゃ平均速度191km/hで疾走のモンスターマシンの迫力には敵いっこない、と言われながらも1600ccのエンジンでも183km/hで走り、コーナースピードは抜群に速いフォーミュラマシンの特性が理解されたのは大きいでしょう」

――レースを観る側からも出走台数が多ければ興味も違ってきます。

「車両規定が緩いグループ7マシンが登場し、これならプライベートコンストラクターでも製造出来るとなって、市販車エンジンを搭載したマクランサ、コニーリオ、藤壺、エバカーetc.色々な銘柄が生まれましたね。一時は、それらのマシンがスタートラインに並び活況のように見えましたが、檜舞台である日本GPの3000cc、5000ccエンジン、お金で比べれば億円マシンと同列ではなく、所詮は参加台数の手助けだったようです。これが仮に排気量2000ccまでのグループ7とかの規定であったなら、このカテゴリーはもっと普及したでしょうが、まぁ節操も哲学もない連中がねぇ。えーい、この話はヤメッ!(爆笑)要するにグループ7マシンが底辺に広がる施策に力を入れなかったのです」

――でも、フォーミュラが台頭してきたといっても、それでレース界の環境が変るものですか?

「変ったというか、フォーミュラマシンへの理解が深まったということでしょう。これには鈴鹿のマシンが外部に出て、本物のマシンが多くの目に触れるようになったこともあります。フォーミュラカーとはどうゆうものか、それまでは誌面の説明や写真でしかの知識しかなく、フォーミュラカーとなれば何か手の届かないレベルのような見方があったのは否めません」

――ほー、そういった存在ですか。でも、日野コンテッサの1300ccエンジンのフォーミュラカーが既にあった話はこのストーリーにも出てきましたが。

「その通りですが、どんな分野にも、やることが早すぎると一人舞台、世の中になじまないもので」

――それってリキさんも同じですね(笑)。

「あなた、少しは口を慎みなさいっ(爆笑)、まあ合ってるけどね(笑)。そのフォーミュラカーは何台か造ったようですが続きませんでした。話を戻しますとね、クルマとなればスポーツカーへの憧れが強かった時代ですから日本のレースの代表的車種も〝スポーツカーっぽい〟マシンの方が広く世間に映りやすいのです。だから市販スポーツカー、プロトタイプスポーツカー、プロトレーシングスポーツカー、グループ7カーへ、どんどん変っていっても車体はボディーで覆われ、名ばかりのパッセンジャーシートがあって二人乗りみたいでオープンカーとなれば、初めてレースを観る人・車に縁遠い人にも解りやすいでしょ。レースって、そうゆうもんだったから、一人乗りタイヤむき出しのフォーミュラカーは特殊なものでした」

――それが三菱F2や鈴鹿マシン、ですか?

「おっ、いいネーミング(笑)」

――それらに牽引されたフォーミュラカー育てようとするドライバー、コンストラクターなど内部からのパワーが広がった動きも出ましたね。リキさんは上級クラスのフォーミュラカーでしたから別でしょうが僕は360ccのレースに興味を惹かれていました。

「そうそう、前回で編集長もミニフォーミュラカーレース、それに夢中になった話をされましたね。そうなんです、僕が言うフォーミュラの波及効果はそれなんですが、グループ7ではエンジンや車体、大小様々なマシンが誕生したのと違って、エンジン排気量・車体寸法など、プライベートチームや街のコンストラクター主導型ともいうべき日本独自のフォーミュラカーが登場しましたね」


◆底辺を変えた日本独自のフォーミュラカー、新発想のプライベーターマシン

――そうです、360ccのエンジンを積んだベビーフォーミュラというようなもので、サンデーレースの主流になるほどの勢いで広がりました。

「そうでしたね、でも、どんなことから始まったのか僕は良く知らないのです。その辺りは山口編集長の方が詳しいようですから僕が逆に教えてもらいたいですね」

――教えるとはおこがましいですが(笑)、日本のモータリゼーションが一気に高まり、その基礎になったのは360ccの軽自動車でした。マイカーが段々と普通車になっていきますと軽自動車の中古や廃車も増え、そのエンジンと駆動部分を利用してレース車を造る人たちが現れたのです。

「なるほどねー、欧州でもフォルクスワーゲンのエンジンを利用したフォーミュラ・ヴィーがクラブマンレースを普及させたように、日本でも同じ現象ですね。特にフォーミュラカーの代表的シャーシーであるブラバムが出回り、その構造が知られるようになりますと、ウチでも俺でも造れるんじゃないかという人出てくるでしょうね。ワーゲンの場合、後輪駆動部分をミッドシップに積めばエンジンと駆動構造はそのまま使えますからね」

――そうなのです、軽自動車の駆動方式はRR(リヤエンジン/リヤ駆動)かFF(フロントエンジン/フロント駆動)で、とくにホンダN360のFF部分をそっくり取り外してフォーミュラカーにしてしまうのです。最初はFFだったスズキ・フロンテはRRになりますが、この2ストローク3気筒エンジンのフォーミュラカーも登場するようになってきます。

「そうでした、段々と記憶が戻ってきました(笑)、最初はフォーミュラジュニアFJ360の名称で始まり、やがて、軽自動車の排気量が550ccになるとFL500というクラスになるのですが、いずれにしろ軽自動車のFF、RRを流用したフォーミュラカーは日本のレースの底辺を支えるまでになっていきました。もっとも軽自動車本体をチューンしたミニカーレースも盛況になって、日本のレース界はプライベートチームや街のコンストラクターに支えられ今日があるのですね」

――リキさんがそういった理解でいて下さるのは大変嬉しいのですが、この№72ではフォーミュラカーレースがモンスターマシンの日本GPに組み込まれていた一クラスのスピードカップレースから独立してJAF GPとなり、二大GPの一翼になっていく話をして頂く予定から方向がかなりずれてしまいましたが(笑)。

「かなりどころか大きなミスコースかな(笑)。でも、モンスターマシンの時代から今日への転換期みたいな時期の話だから読者にはご理解頂いて」

――その方向でお願いします(笑)。

「それだったら、11月17、18日に鈴鹿サーキットでレースヒストリーイベントとも言える"サウンド オブ エンジン"が開催され、ミニフォーミュラの50年というプログラムがありますから、参考にされたら如何ですか。1969年からJAF GPになったフォーミュラカーレースの話は次回にさせて頂きましょうよ」

――そうですね、私はこの時代にレースをかじり始め、後に自動車/レース専門誌の編集長を務めるきっかけでしたから、そうお願いできれば有り難いです。

「それで結構ですよ」


◆底辺レースを広げた軽自動車&免許年令

1969年8月31日に行なわれた『富士ミニカー レース』。軽自動車のエンジンを搭載したハコとスポーツカー、そしてミニフォーミュラが混走したこの奇妙なレースが、実はミニフォーミュラに発展してゆく。

――その鈴鹿の『サウンドofエンジン』の会場で、ミニフォーミュラの歴史を簡潔にまとめた『ミニフォーミュラ 50年の軌跡』というタイトルの素晴しい資料が配布されましたが、私がFJ360に興味を抱いたのには明解な理由があるのです。

「なるほど? それは関心深いですね」

――ちょうどお話を伺っています1960年代終盤から1970年代にかけての頃ですが、1968年まで軽免許が16歳で取れました。私が16歳の高校2年生になったのが昭和43年=1968年で、12月生れの私はアウトでしたが、ギリギリ16歳で軽自動車免許が取れた羨ましい同級生もいたのです。彼らの中には軽自動車でジムカーナに出ている者もいて、モータースポーツへの感心が高くなったのは、まさに軽自動車のおかげでした。

「そうでした、高校生が軽自動車でジムカーナやラリーに出る光景が増えましたから僕なんか嬉しいかぎりでした。でもその後、軽免許は廃止で運転免許年齢が18歳になってしまうのですが若い人たちの間にモータースポーツが広がったのは確かです」

――免許年令が引き上げられたのは残念でしたが、まずはクルマを所有することから軽自動車は非常に身近でした。カートをやっている同級生と、軽自動車でジムカーナに出場している同級生は、どちらも憧れの的だったのです。とくに"エヌサン"で親しまれたホンダN360や、スズキ・フロンテSS、スバルR2などの中にはレーシングな性能を想起させるモデルも存在して、360ccで36馬力というハイパワーモデルも登場しました。要するに、憧れの"リッター100馬力"が現実となって、高校生だった我々の目の前に現れたのです。まさに軽自動車は若者に特別な親近感をもたせてくれる存在だったのです。

「なるほど、そんなにもホットな感情っていいなー、今は、もーダメだなー(爆笑)」

――思えば、ありがたく良い時代でした。それも、単にクルマが手に入るというだけでなく、興味を持ち始めたモータースポーツの入り口として軽自動車はうってつけのイメージがありました。

「それは軽自動車でも出来るレースやラリーなど、結構いろいろな競技会があったのも影響していますね」

――そうです、軽自動車を使ったカテゴリーが注目され、最初は、市販車を改造したいわゆる"ハコ"がメインでしたが、その内、リキさんのお話にあったエヌサンのエンジンを積んだフォーミュラカーのレースが盛んになりました。

「そのFJ360は、パイプを組んで手軽に作れることもあって、あちこちからオリジナルのマシンが出現し盛んになったのでしょうが、軽自動車構造の一部に目をつけ日本独自のレース車を造りだしてしまう器用さに感心するのです。〝ものづくり〟という言葉が近年盛んですがプライベート7カーやミニフォーミュラは日本人の特技の一つですよ」

――今考えると、ビッグマシンに対する憧れとは対局に、最も親しみのある小さなクルマとして、軽自動車そのものや、そのエンジンを使ったレースに高校生だった私の興味も広がったのです。

「嬉しいですねー、11月の鈴鹿『サウンド オブ エンジン』では、ちょうど今年、ミニフォーミュラが誕生して50年の区切りを記念したイベントが行なわれましたが、僕はレジェンド レーシング ドライバーズ クラブの会長もしていて、特に僕が言い出した会員ドライバーによる富士スピードウェイでのレース主催者だったので鈴鹿には行けませんでしたが、大変な盛況ぶりだったと聞いています。多分、往年のミニカーレースに傾倒された方が多かったのではないかと思います」

――そのイベントでの資料を拝見して、改めてミニフォーミュラを見直しました。FJ360とFL500を併せると、1台だけ造られたものを加えると、なんと100車種もあったそうです。レース好きの自動車修理工場でもパイプを組んで、グラスファイバーでカウルを造って手軽にレーシング・コンストラクターになれるという意味で人気があったのでしょうか。

「えっ100種類ものミニフォーミュラが! 多分、バックヤードビルダー、要するに、裏庭でレーシングカーを作るガレージが、あちこちにあったのは知っていますが驚きですね、ふーっ」

――レース界の頂点であるワークスに対して、プライベーターのそのまた末端に位置するバックヤードビルダーという言葉も舌触りがよくて夢もあって大好きでした。とはいえ、改めて資料をみて思い出しましたが、ミニフォーミュラは、"ミニF1"とも呼ばれていて、関西の鈴鹿サーキットや西日本サーキット、関東の筑波サーキットや富士スピードウェイでのレースに参戦していたマシンは、仕上がりもきれいで、それこそ全国津々浦々のバックヤードビルダーがこつこつ造ったクルマも含めて、いろいろな形があって興味深かったですね。

「とにかくサーキットを借りるにも空きが無いくらいのイベント数でした。鈴鹿なんか一周6キロのコースを東コース西コースに分け、西コースは殆どミニカーレースでした。その内、フォーミュラやセダン別々だったイベントがコースが空かないというのでハコとフォーミュラがごちゃ混ぜのレースがあったりしてね」

――そうですそうです!! 3種類のカテゴリーがごちゃ混ぜで、規則も流動的だったと思いますが、とても新しさを感じる魅力的なレースでした。

「まあ面白いには違いないけど、かなり無茶だなー(爆笑)、安全の意味でもね」

――ハコとフォーミュラが混走で、ぶつかったらどうなるのかと思いました。それで、そういったレースの結果はどうだったのか編集者の性癖で(笑)調べたのですが、鈴鹿のFL記念イベントプログラムにも、レース結果がすべて出ているはずのJAFのホームページにも、富士スピードウェイ関連の資料にも、結果がないのです。

「僕もそこまでは知らんなー、多分、勝手にやっちゃって、モグリイベント??(爆笑)」

――とはいえ、最近で言えば、ちょうど数年前から人気が出ている富士スピードウェイの軽自動車ベースのK4GPのように、いろいろな思いを積み込んだ様々な思い思いのクルマが参加して、なんだか夢があるレースだったことを覚えています。そのレースをきっかけに、やがてFJ360、そしてFL500に発展していったというようなことですし。

「ええそうです、軽自動車のエンジン排気量が360ccから550ccと大きくなり、これは高速道路の発達もあって360ccでは安全に高速走行が難しいという事情もがありました。そこからFJ360とは別に早くも550ccエンジンのフォーミュラカーが出現するのだけど、目ざといというか素早いか、とにかく何でもレース出来るものにしちゃうんだねー(笑)。それで既に公認車両となったFJ360とは別に自由型フォーミュラを意味するFL(Lは自由=リブレのL)500になるのだけど、そうなる前に550ccだから600cc以下という理由でFJ600が登場しますが、これが物議を醸しだしましてね厄介な話になるのです」

――ほー、そんな経緯があったのですか、編集者としては面白そーですから(笑)ぜひ。

「いや、その話になると、このストーリー一回分になっちゃうので、今回はフォーミュラカーレースの新たな進展に伴ない、軽自動車の存在がミニフォーミュラなどレース界底辺の拡大に大きな役割を果たした、ということを読者に知って頂き、次回はFL騒動ともいうべき話題とGPの名称を得た1969年JAF GPフォーミュラカーレースに触れて見ましょう」

第七十二回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com

 

編集部からのお願い::本ストーリーでミニカーレース全盛の時代、ミニフォーミュラとハコが混走する話があり、これは1969年の富士300kmレースの一クラスのようですが、メインレースが6kmフルコースなのに、このレースだけ左回り4.3kmだったようで非常に奇妙なレースです。JAFの認可もなく適当にやっちゃったので、結果が残っていないのかもしれません。この辺りの事情を御存じでしたら、これはこれで、時代を反映した面白い話なので、どなたかこのミニカーレースの結果をご存知でしたらmys@f1-stinger.comまでご連絡いただければ幸いです。


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