リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第73回
日本のフォーミュラレースの礎になったミニF1

◆レース界を活性化させたFL500とFJ360

――前回は、エキジビションから始まったフォーミュラカーレースが段々と成長し、1968年日本GPのメインである大排気量エンジンの2シーターレーシングカーの一翼を担うまでになり、スピードカップレースという名称を得るまでになった過程で、ミニフォーミュラカーが現れ、それは軽自動車の発達と密接な関係があった話をお聞かせいただきました。

「軽自動車の普及は大きな要因でしたね。ただ、軽自動車メーカーからすれば、FFやRRなどのエンジンとギヤボックスが一体となった動力部分がミニフォーミュラカー造りに格好の材料になることなんか想像もしていなかったでしょうね(笑)」

――そう言われれば、なるほど、ですね(笑)。そしてミニフォーミュラカーがどんどん増えていった。

「その通りです。日本の道路整備が進み普通車との性能格差を縮小しないと安全上の問題もあって360ccから550ccになっていく軽自動車のエンジンや足回りなどが、ぐんぐん強固になっていきましたから、街のコンストラクターやバックヤードビルダーにとって軽カーは"レーシングカーの母体"(笑)であって、ミニフォーミュラカーレースがレース界の底辺を支えるまでに成長していったわけですね」

――それはJAF(日本自動車連盟)のレース活性の諸政策とは無関係に?

「そうです、日本のレース界をどうやって育成するかの決め手もない偉いサンたちとは無関係にレースカー造りが進んでいき、ミニフォーミュラやミニ2シーターは正にモノ造りの典型でした」

――そのようですね。昨年11月、鈴鹿のサウンドofエンジンというヒストリックレーシングのイベントが行なわれ、そこでFL500生誕50年記念イベントに集まった50台近いミニフォーミュラカーが紹介されましたが、1969、1970年辺りから急成長した時代には、100種類以上のミニフォーミュラ、レーシングカーがあったことを知って大変な時代、というか羨ましい時代があったのですね。

「確かにそうでした。今月のストーリーは1969年の春のフォーミュラカーGPですが、翌年にはJAFがミニフォーミュラのFJ規定を制定しなくてはならない立派なレースカテゴリーになってしまうのです」

――要するにプライベーターやコンストラクターなど、自動車メーカー以外のレースファンが造り出したマシンによるレースが盛況になって、レースを統括する側を突き動かすまでの勢力になっていったということでしょうか?

「その通りです。市販車を改造できる範囲が厳しいツーリングカーやグランドツーリングカーと違って、例えミニサイズといってもメカ好きな人たちにとってレーシングカーの製作は非常に魅力ある題材なのです。さらに軽自動車という日本特有のクルマからミニレースカーを生みだしていったのです。これは1960年代初頭のヨーロッパで、フォルクスワーゲン(VW)の後輪駆動を活かした空冷1200ccのフォーミュラカー(フォーミュラVee)が現れ、ビギナーやホビーレースが一挙に増えていった例に似ています。やはりレース界の発展には底辺の基盤強化なくして有り得ないのです」

――なるほど、そうなると、大馬力マシンでガンガン走り回り、どーだレースって凄いだろう、という迫力を見せつけるだけではレースの発展はないということですね。

「いやー、編集長、随分物わかりが良くなったようで(爆笑)」

――一部の勢力に引っ張られるようにグループ7の大排気量マシンによるGPの在りかたやレース界の内容も、FL500に代表されるミニフォーミュラカーの底辺拡大で変っていった?

「うん、それはどーかなー? このストーリーの第60回辺りから日本GPのビッグマシン化で語っているように、GPは自動車メーカーの雌雄を決する場になっていきましたからねー。観戦するファンも、それに踊らされ、そういったものと思っていたんじゃないかな。そういった環境で、年一回の日本GPに沢山の観客動員があってメディアがこぞって煽り、大きな話題になればバンザイ、万歳、大成功、日本のレース安泰、来年もこれでいこーって(爆笑)雰囲気が当たり前のようだったですからねー」

――でも、フォーミュラカーがもう一つのGPになっていくのでしょう? それって、やはりミニフォーミュラによる変化ではないですか?

「おっしゃる通り、フォーミュラカーへの意識が急速に高まったのは事実です。かといって、いきなり2シーターマシンの日本GPをフォーミュラマシンに変えるのは難しい、、というより一部の勢力が黙っちゃいないだろうしね(笑)」

――なるほど。

「ただし、GPが富士スピードウェイに移って以来、どんなマシンをGPとするか喧々諤々の中にフォーミュラカーを主張する勢力が続いていたのは確かです」


◆春のGP、名目に恥じない内容になるのか

昨年11月に鈴鹿サーキットで行なわれた『サウンドofエンジン』に大挙参加した"ミニF1"と呼ばれ、50年近く前に日本のフォーミュラカーレースの礎を創ったFL500たち。

――やはり、『勢力』、ですか?

「まあそうですね。要するにプロトタイプスポーツカーや2シーターなどを押す勢力をくつがえし、フォーミュラカーを採用の論理も実績もなかったのはこの勢力の弱点だったでしょう。でもエキジビションの冷遇(笑)から、ゆくゆくはフォーミュラカーでGPを!!ということで虎視眈々だったのは間違いないでしょう(笑)」

――1967年のGPでは虎視眈々の成果でフォーミュラカーレースというまともな呼び方になって(笑)。

「さらに翌年には日本スピードカップレースになって、この内容は第70回で語っていますが、際限なく拡大するビッグマシン&一部の参加者による日本GPに、これで良いのか、の疑問、反省が表面化してきたのは事実です。かといって、いきなりフォーミュラカーとなっても国内のワークスマシンは三菱だけですし、とても国際格式のGPにはなりません。それと、日本GPと名付けられるのは、1年に、その国のレースを代表する一つだけ、という国際規定がありますからね」

――それでJAF-GPの名称になったわけですね。

「その通りです。日本の国名でなくJAFなら良いだろう、ってことでね(笑)。春はフォーミュラカー、秋は2シーターのスポーツカー、二つのGP誕生となるのです、目出度し、めでたし、フォーミュラカーは横綱ならぬ大関に一足飛びの大出世だったわけです(笑)」

――めでたく一件落着、と。

「ところが、GPにふさわしいフォーミュラカーの台数がない! 前のストーリーにも出てきた鈴鹿から放出されたフォーミュラカーが加勢して前年(1968年)に集まった23台のうち、当時のF2規定に合致するマシンは5、6台にすぎない。結局、JAF-GPと名称を変えただけで、スピードカップレースのレベルでしかない」

――でも二大GPの一つになればコンストラクターの意欲も高まるのではないでしょうか? とくにスピードカップに参加した中から大きいエンジンを積むマシンも出てくるのではないですか。

「うん、傍目にはそう見える。しかし、鈴鹿からのシャーシーの多くは1000cc以下エンジンのF3用ですから、それにF2規定の1600ccエンジンを載せることが不可能ではないけれど、シャーシーの剛性やエンジン搭載個所のスペースなど、かなり限定されたエンジンしかないでしょう。当時の日本では適切なエンジンは皆無です」

――そうなると、突出したマシンは三菱F2しかない、三菱の連戦連勝はそうした経緯があったのですね。

「どーも嫌味だなー(笑)、でも事実ですね。それは主催側も同じ悩みだったでしょう、しかし知恵者もいるもので欧州ならぬ豪州に目をつけるんですね」

――豪州ってオーストラリアですね。

「そうです、南半球のオーストラリアではニュージランドと組んで、両国を包むタスマン海に因んだタスマンシリーズという名のフォーミュラカーレースが盛んだったのです。両国は英国の植民地だったこともあってモーターレーシングが盛んでした。とくに面白いのは欧州が夏の季節なら豪州は冬、北半球と南半球では季節が真逆ですから日本の春先は向こうの冬先でレースはオフシーズン。この季節の違いを利用してレース休暇中のタスマンチームを招待する国際レースを企画するのです」

――同じ招待するなら欧州の方が分かり易いですが、そういう理由があったのですね。

「欧州は日本と同じ季節ですから向こうもレースシーズンで、呼ばれたって日本なんかに来ませんよ(爆笑)」

――まあそうでしょうねー(笑)、でもタスマンのレースを知っている人は少ないでしょう。

「レースに関わっていても知らない人が多かったですが、僕は1965年からマカオGPなどに参加していましたから、結構多くのタスマンチームがマカオやシンガポールのGPにも参加していましたから良く知っていました」

――そうなるとタスマンでも欧州と日本も同じF2、F3のマシンですか。

「それが全然違ってね(笑)、オーストラリアとニュージランドのレースは欧州のF1などの使い古したマシンを使って始まったようです。また欧州が冬のレースオフシーズンの時期、保養をかねて夏のオーストラリアに出かけ、レースに出る著名なドライバーも多かった関係上、1950年代末までF1マシンがNA2500cc(スーパーチャージャー付きは750cc)だったエンジンを流用したタスマンフォーミュラカーともいうべきマシンが主流でした。二度ワールドチャンピトンになっていて日本でも名前が通っていたジャック・ブラバムさんはオーストラリア出身でしたが、オーストラリアでは、F1の規定が変るたびに、御払箱になった安価なエンジンを巧みに流用したレースが行なわれていたように聞いていました。ですからマカオに出てくるタスマン勢のマシンは2500ccエンジンが多かったですね」

――そうすると、JAF-GPはどのような内容で企画されたのでしょう? 国際水準への発展を望むのならF1、F2、F3規定に準じた内容にすべきと思いますが、フォーミュラカーなら何でもいいや風に見えてしまいます。

「その通りで、ものごとの本質を考えればF1やF2で活躍したドライバー、現役でなくても良いのです、そういった内容で進めてもらいたい、僕もそう考えていました。多分、主催側にも同じ思いの人も居たのではないかと思いますが、いつもの如くGP開催の数ヶ月前、突然の発表で明らかになったのは2500ccのタスマンフォーミュラカーもOKのエンジン排気量3000cc以下の国際レースにしたのです」

――それなら、F1マシンも出られる、当然ホンダも!!

「どーも単純でせっかちで(爆笑)、そうはいかないの(笑)。当時のF1は3000ccですからホンダF1も出ようと思えば可能でしょう。ただ、フォーミュラカーの国際規定はF1、F2、F3各クラス参加マシンは、全車同一排気量ですから、1000cc未満のC-1、1600cc未満C-2、3000cc未満のc-3、三つのクラス混走のフォーミュラ・リブレ=FL、まあ自由型フォーミュラカーともいうのかな、タスマンからの参加はC-2(1600cc:F2)が3台、C-3(2500cc)3台の計6台でした」

――それに対し、三菱F2は当然としても、他の参加は?

「そうですね、結構集まりましてね、日本側は三菱F2筆頭にフォードコスワース、フォードロータスなどのF2や、プリンス、トヨタ、いすゞの1600ccクラスエンジン搭載のC-2(1600cc:F2)が12台、ホンダS800やフォード、ニッサン、それにスバルなど1000ccクラスの市販車エンジンのC-1が6台など、何だかんだで30台近い参加申込みがありました」

――日本だけでも20台以上の参加が見込まれれば春のGPと言える内容ですねー。

「えー、それがねー、中々思い通りには行かないものでねー、結果はどんなレースになったのか、それに、まぼろし的な話題もあったりして、その内容は次回(第74回)にしましょう」

第七十三回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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