◆転機到来
――日本の最大自動車レースに位置づけるグランプリ(GP)が、ビッグマシンへと肥大化する2シーターレーシングカーのままで良いのか、いや、もっと国際的なカテゴリーに準じた内容に方向転換すべきではないか、という両論が続く中で、それまでエキジビション的存在だったフォーミュラカーレースを格上げして春のグランプリとし、秋のグランプリのメインは、従来通り2シーターとする新たな試みが始まりました。
「いよいよ日本のレースが新たな方向に動こうとしていた、ということですね」
――春のGP参加申込には、トヨタ7リッターエンジンの即製F1マシン(笑)など、滑稽な話も出てきましたが、このGPは、その後の日本のレース界に影響するような内容だったのでしょうか。
「ふーむ、影響ねー。まあ、ビッグマシンによるGPが、1969年秋の日本GPで最後になってしまったストーリーは、第59〜第66回辺りで深く語りましたが、日本GP(2シーター)とJAF GP(フォーミュラカー)の二つのGPは、この後フォーミュラカーによる日本グランプリで一つに整理されていきますから、1969年春のJAF GPは、その出発点であったことを考えれば大きな影響といえるでしょうね」
――このフォーミュラカーのGPによってレースファンの興味も高まったのでしょうか?
「この時代、大きなレースにはドドドーッと観客が押し寄せたのですから」
――たしかに凄かったです。高校生だった私も、強烈な影響を受けましたので!!
「そう、すっげーことね(笑)、このJAF GPも7万人超が押し寄せたのですから。もっとも、メインレースだけでなく、GTカークラス、特殊ツーリングカークラスにも大きな話題がありましたから、これは後で触れるとして、とにかく当初の予想を超えた良い内容のフォーミュラカーレースになったこともありますね」
――でも、国際レースといってもフォーミュラマシンの国際規格に準じた欧州からの参加はないのですから、なんか辻褄合せのような。
「おっ出たねーメディア的ヤブニラミが(爆笑)、でも、それ当たっていましてね、外国からの参加内容が発表された時、ほとんど、"えっ、これってどんなマシン、ドライバー??"といった反応で、多くが期待していた内容ではなかったでしょうね」
――太平洋南部のオーストラリアやニュージランドに挟まれた海域をタスマン海と呼ぶところから、この地域で盛んな自動車レースを代表するタスマンシリーズというのがあったと前回伺いましたが。
「そうです。そのタスマン・シリーズのトップクラスチーム&ドライバーについての知識が無かったこともあったでしょう。とにかくフォーミュラレースとなれば何がなんでもヨーロッパの時代ですから(笑)」
◆欧州レベルに勝るとも劣らぬタスマン・レーシング
――リキさんも同じ見方だったのですか?
「おっと、それは違います。僕は既にマカオGPに参加したりアジアの他のレースなどにも行ったりして、タスマンチームのレース体制、ドライバーテクニックなど見たり聞いたりしていましたから。また、フォーミュラではないけれどオーストラリアのレース出場経験者のクニさん(高橋国光)も、オーストラリアのバサーストのレースに参加して、“大変ハイレベルなレースの国、F1並のマシンやドライバーも多い”と言っていたのを思い出しますねー。でも彼らが来るとはまったく予想していませんでした」
「それと参加予定には2.5リッターエンジンまであるし、まあ3000ccまでのフォーミュラリブレ規定は、タスマンマシン参加を想定してのことでしょうから仕方ありませんが、このアルファロメオやオーストラリアの強力なチューニング会社レプコ製作のV8気筒2.5タッターエンジンは、確実に320馬力強と言われていて、F1に近い性能なのです。これらのエントリーが明らかになるにつれ、日本側に“こりゃ只者じゃねーぞ”の意識が高まっていったのです」
――そうなると日本初のフォーミュラカーGPを制するのはウチだ、と意気込む三菱も安閑としちゃあいられない。
「その通りです。ただ、このGPは40周/240㎞で、総距離が概ね200㎞以内のフォーミュラマシンの燃料タンク量では絶対的に容量不足。ましてV8気筒2.5リッターエンジンだと燃料消費が多く、必然的に大容量の燃料タンクに変えるでしょうから車重は大幅に増え、その重量ハンディから勝手な安堵感も出てきます」
「特に開発3年経過の三菱は前年のコルトF2Bを更に発展させたコルトF2Cを投入し、益子治(故)と加藤爽平のワークスドライバーと、当時、個人で欧州のフォーミュラカーレースに参戦中の生沢徹君を起用し、3台体制で必勝を期します」
「タスマン勢6台のうち2.5リッターマシン3台以外は、1.6リッターマシンで、フォード・コスワースFVAやフォード・ワゴットは、F2レースの代表的エンジンですから、三菱ワークスとしては絶対に負けられない相手たったのです」
富士スピードウェイフルコースの名物コーナーのS字を行くタスマン勢。ヨーロッパに匹敵するレベルの彼らも、バンクを持つ特殊な高速コースの富士スピードウェイで、前後に高いウィングを付けたり外したりの試行錯誤を強いられた。
――なるほど、レースの内容が明らかになるにつれ、伯仲の雰囲気が伝わります。
「そのタスマン勢も5月2日が予選、3日が決勝の一週間前には、レース体制を整える意気込みですから、よほど富士スピードウェイの超高速コースとバンクへの対策に備えたようにみえます。でも公式練習に入るや、次々にピット入りしていました。どうやらバンクで底を擦っちゃう。バンクそのものはどうってことないようですが路面の凹凸には閉口したんじゃないですか、当然ですよね」
――元々がナスカーのオーバルコースとして計画がスタートしたというある種ムチャなコースで、30度バンクの建設は、舗装を固めるロードローラをバンクの上からワイヤで吊ったりしたらしいですから、うねりも当然ですね。
「ちょっと余談だけど、僕がマカオで世話になる外国人のメカニックが、日本初のフォーミュラカーレースを見たい、リキの手伝いもしたいって、このGPに来ていてね、彼はタスマンの連中とも親しいから、色んな情報を知らせてくれるわけです」
「やはり彼らの注目は超高速コースにあるようで、それへの備えが車体後部両側に柱で支えたウイング、中には車体の前後に神社の鳥居みたいなでっかい翼が二つあったり、タスマン全車がウイング付きです」
――2シーターのGPマシンでは、カンナムの影響か大馬力車には当然のようにウイングがついていますね。
「そうです、F1でもウイング付が出始めた時代です。富士スピードウェイは高速ですから、タスマン勢も車体が浮き上がることを覚悟していたでしょうね。まあ、同じタスマンでも1.6リッターのF2マシンにウィングは付けていませんが、どれも洗練された、これぞF2マシンの典型といった仕上がりでした。そのようなタスマン勢を含めた17台が予選通過、決勝ラインに並ぶのです」
――当初、30台近くの申し込みから予選通過18台というのは結構厳しいですね。
「まあ、その中には幻のトヨタF1や怪しげなのも混じっていますからねー、正確には17台」
――前回(No74)掲載のリストでは正式参加申込28台のうち予選出走及び決勝進出は18台とありますが、実際に決勝ラインに並んだのは17台ですから、ここにも怪しげなのが1台(笑)。
「あっそれねー、だから、このGP話はしたくないんだけど(笑)、その1台は僕でねー、この話だけで次への時間がなくなるので詳細は僕の著書[無我夢走]読んでもらうとして、端的にいえば、このGPのために仕入れたロータス41(F2シャーシー)とロータス・フォードのエンジンが、公式練習から予選まで車体調整もエンジンのオイル漏れも直らず、予選通過基準タイムもギリギリ、義務周回数も1周不足、オフィシャルの温情で決勝進出は有り難いけれど、不眠の作業もドライサンプ式エンジンオイル潤滑装置が直らず、走行中にオイル漏らしたりしたら迷惑だし危険だし、残念ながら出走辞退したっていうこと、この話はヤメッ(爆笑)」
◆苦戦するも三菱コルトの勝利か?
――いろんな話題がありますねー(笑)それで、タスマン側の状況は解りましたが、肝心の日本側は?
「前年(1968年)の日本GPでフォーミュラカークラスが格上げされた『日本スピードカップレース』では、決勝レースに出走したのが22台もありましたから、日本側の参加者も多いものと思ったのですが、タスマン勢の予想以上なレベルに段々と参加が減っちゃったみたい」
――それでもフォーミュラカーにかけている三菱には初のフォーミュラカー国際レースを制する野望に燃えたでしょう。
「当然、三菱コルトF2Cがどんなもんか、タスマン勢も興味津々ですし、編集長が仰る通り、三菱は必勝体制です。3台のコルトに前記三菱ワークスドライバー二人とヨーロッパ在住の生沢君を招聘するくらいだから、よほど高額な条件つけたのかな、おっと下種の勘繰りかな(爆笑)」
――生沢さんが本場のF3やF2で活動していたのは知っていましたが、この当時、本物のフォーミュラカーに没頭していたのは彼ぐらいでしょうから、三菱とすれば良いスカウトじゃないでしょうか。
「まあそうでしょうね、三菱のフォーミュラカーをここまで牽引してきたドライバーにはモッチャン(故・望月修)もいますから、本来ならば彼が出場するのは当然のように思っていたのですが、三菱とて、マシン製作台数には限度がありますからねー。それにしても、外部ドライバー、それも生沢君を、というのは大変な英断ですよ。何たって欧州でしょっちゅうレースやってて、それもフォーミュラカーでしょ。そんな経験者、他にいませんから当時の日本最強のドライバーでしょう」
――生沢さんは前年の1968年日本GPのスピードカップでトップ独走、三菱に後塵をあびせながらガス欠でリタイアの話は、第71回のストーリーにありましたが、ライバルだったドライバーを起用ですから三菱の本気がこのGPの見せどころだったですね。
「見せどころじゃなくて必勝(笑)。それで、公開練習が始まるのだけど、前年のコルトのラップタイム1分57秒台より速くなっていないのですよ。生沢君も新しいコルトのエンジンは240馬力を発すると聞いていたようで拍子抜けしたんじゃないのかなー、要するに前年からの進歩が見られないってこと」
――そうなると、いかに生沢さんといえども本領を発しきれない。
「彼のタイムも益子治、加藤爽平らとどっこいどっこい、三菱のマシンに乗るといったって生沢君がメーカーの言うことなんか聞く筈もない(笑)、彼自身のマシンチューニングが始まって、三菱コルトじゃない生沢コルト(笑)。最初は車体前後に二つのウイングを付けていたのを取り外したり、ホイールアライメント調整など、でもワークス側も同じで、デザインが違うフロントカウルに変えたり、とにかく各車何周かすればピットへバタバタのし通し」
――三菱もタスマン勢も富士のコースに合わせるのが大変なようですが。日本のF3、F2も同じなのでしょうね
「日本の参加マシンは1リッター、2リッターのエンジンですが、前年のフォーミュラカーレース出場者が多く、殆どは純プライベートですから、マシンの性能アップまでの余裕はないし、今ある性能を充分に発揮できれば御の字でしょう。とにかく壊れずに走り切れるかどうかの整備力第一です、僕のマシンなんか壊れっぱなしで走れずじまい(爆笑)だから良ーく解りますよ」
「ただ、彼らが悩むのはキャブ調整でね、三菱、タスマン勢は、燃料供給が当時はやり出したインジェクション(燃料噴射装置)に対しウエーバー、三国ソレックス、ホンダエンジンのCRなど、プライベートマシンは全部キャブレター、たった一台、ルーカスインジェクションは僕だけど、走れもしねーのだからまったく意味なかったねー(爆笑)」
――まだキャブレター全盛の時代ですね。やはりインジェクションとキャブでは性能も違ってくるわけですね?
「性能というよりキャブレター付きエンジンには、富士スピードウェイは海抜600m強に加えて、天候や気温で気圧の変化が激しくて、例えば東京で整備してエンジン試運転でガンガン回るのが富士に持っていくとエンジン回転がバラついてしまうのが多かったですよ。その点インジェクションは気圧の影響を受けにくいのです」
――ほー、そんなこともあったんですねー!!
「ですから、三菱とタスマン勢のピット作業を覗いていると、あまりエンジンがどーのこーのより、足回りやウイングの調整なんかが目立ちます。そうそう、ウイング二つの生沢車やタスマン勢の一部も予選途中でウイング外しちゃったけど、後でタイム見ればウイング無しの方が2秒以上速いのね。さすがに2.5リッターマシンは、決勝もウイング付きだけど、1.6リッターエンジンのマシンでは、2.5リッターの加速力や最高速度に及ばないから必要ない、ということでしょう。それにしても生沢車はウイング取っ払ったらガンガン走れて予選ポールポジションになっちゃった、わっからねーもんだねー(笑)」
――へーえ、そんなどんでん返しがあったなんて。じゃあ生沢さんが二枚ウイングのまま走っていたら予選の話題もなかった?
「そうゆうことでしょうね。フォーミュラカーは車輪むき出しで軽量だからスピードが出るように思われるけど、裸の四輪が大変な空気抵抗になってボディーデザインを色々変えてみても理想的な整流が得られない、と、モッちゃん(望月修)が言っていましたけど、フォーミュラカーはシンプルな構造ですが、逆にボディーに覆われたマシンと異なる大きな課題が多いのです。だから、車輪は露出しているといっても器用にカウルされた現代のF1みたいになってしまうのでしょう」
――なるほどぉ。新たな時代を迎えて、いろいろ創意工夫がなされたのですね。いよいよ次回は、レースの詳細を、お願いします!!
第七十五回・了 (取材・文:STINGER編集部)
制作:STINGER編集部
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