――第78回で、日本のフォーミュラ・レースのスタート地点となった1970年日本グランプリのことをまとめていただきました。それまで、大排気量スポーツカレーシングカーのニッサンvsトヨタの闘いの図式から、ようやく本場ヨーロッパでF1を中心として主体となっていたフォーミュラカーに日本のレース界も気づいたというか、そんな感じだったのですね。
「まぁ、そんなところですかね。このシリーズの第72回と73回で触れましたが、プライベートの分野から育ってきたミニフォーミュラの車両規定などが整理されGPレースの一クラスに組み入れられたのは大きな成果ですね」
――リキさんが前々から仰っているフォーミュラカーのポジションが理解できたところで、その底辺となったフォーミュラ・ジュニアの動向も気になります。底辺普及の状況を知るためにもその辺りをお願いします。
◆新設FJクラスの波紋と普及の兆しを高めたプライベート
――リキさんは、FJレースがJAF-GPのクラスに新設されたことをどう思われました?
「それは、大歓迎ですよ。ただFJが正式種目になったと聞いて、どんな車両規則?って聞いたら、“600ccまでのエンジン”と言うから一瞬何か奇異に感じたことを覚えています」
――確かにミニフォーミュラといわれるカテゴリーは360ccですから、そう言われれば、どのような意図からの規定だったのでしょうか。
「この当時、休日になるとあちこちでミニカーレースが盛んで、僕も出たことありますけど、いえね何も落ちぶれた元ワークスドライバーがアマチュア相手なら勝てる、ではないですよ(笑)。レース用に改造したのを試走してくれと言われましてね。富士や鈴鹿の西コースなど時々走ったことがあったけれど、360ccばかりだったなー。元々、軽自動車ベースのレースは1967年にホンダN360が市販されるや、爆発的な人気車になったのですが、その最大の魅力が、“走り”でした」
――よく覚えています。高校の同級生が、当時16歳で軽自動車の免許が取れたので、同級生で富裕層の息子たちがフロンテやスバルをチューニング、といっても本格的なのではなくて、ホイールを換えるのがせいぜいでしたが、横田基地のジムカーナに参加してるのを羨ましいと思って観ていましたから。
「そうそう、何せ馬力があって31馬力、翌年には36馬力になってリッター百馬力でしょ。それまでの王者スバル360スズキもこぞって高回転高馬力の軽カーを造りだしたのですね。僕が富士重工に所属の頃、会社から貸与された車がスバル450という海外向けモデルと同じように、ホンダN360にも専ら輸出用としながら国内販売したN600というのがあったから、ミニカーレースにもオーバー排気量のクラスがあったのかもしれませんね」
――高校時代がそういう年代でしたので、手が届きそうな軽自動車のエンジンを積んだカテゴリーにはとても親近感がありした。主催クラブによってはFL500のクラスもありましたね。
「なるほどね、いずれにしろN360の市販とともに始まったと言えるくらい、今風に言えば“いだてん軽カー”の背景から、ミニカーレースが盛んになっていったのですが、レース主催者それぞれの車両規定を統一して、公認競技名をフォーミュラ・ジュニア(F.J)として、GPイベントに加わった、ということですね。高速道路網の整備が進むにつれ1976年にはエンジンが550ccに拡大されたように、軽自動車規定も変わるか、あるいは改訂促進への下地造りもあったかもしれないですね」
――確かに無関係ではないでしょうが、ミニカーレースの“パイ”を考えれば、飛躍しすぎ、360冷遇にも感じました。
「うん、編集長は純然なアマチュアでレースを楽しむ立場だから良く解りますよ。ただ実際に少量の国内販売車や輸出車のオーバー360ccエンジンやパーツで製作したマシンがある以上、それらを除外することも出来ず、また、いかにフォーミュラカーといってもちっちゃな360だけがピャーピャーけたたましい排気音で走り回るのでは国際格式イベントにそぐわないですよ」
昨年11月に行なわれたサウンドofエンジンに勢ぞろいし、甲高いサウンドを鈴鹿サーキットに轟かせたミニF1たち。
――あ、確かに。GP主催者からすれば、ある程度以上のスピード迫力も欲しい。それで、リキさんとすれば真っ先に出よう、ということだったのでしょうか。
「いーえ、そうゆう気持ちはなかったね、何せブラバムBT23を購入してフェアレディ2000のエンジン載せるので大忙しで、それどころじゃなかった。第一にフォーミュラカーの普及には大賛成でもFJクラスに出る気持ちはまるでなかったですよ。と言うより成績上げていないくせに生意気言うけれど、ボクらが参加してはいけない気がしていたんだ」
――えっ、参加してはいけない気、ですか?
「うん、先ほどミニカーレースが流行って、ボクがテストドライバーの立場で走ったことがある話をしましたよね。皆さん和気あいあいでレース楽しんでいて、マシンだって見よう見まねの手作りでしょ、日本にも自動車競技がホビー、サンデーレクリエーションになってきたんだなー、とても嬉しかったですよ。僕はそういった目でミニカーレースを見ていたから、商業的効果目当てやワークスでも、うんとOBのドライバーならいざ知らず、現役バリバリが参加をするもんじゃない、というのが持論でした。だから本物のブラバムシャーシー引っ張り出して、これなら勝てるだろうなんて、みっともないですから」
――でも、持ち前の虫が起こって?やはり出る?(笑)
「うるさいっ(爆笑)、あのねホント(笑)。GPの3カ月くらい前だったかなー、マネージャーの長島英彦(島英彦)とチーフメカの鴨下浩己が、“BT16でFJレースやりましょうよ”と突然言い出してね。だから“FJって軽自動車部品で作ったあれだろ?”と訊いたら“いや、そうとは限らない”ってんで、喧々諤々で、僕が“出るにしてもNコロのエンジンをブラバムに積んだって車重で走らねーよ”ってね。そうしたらヤツらすっげーこと考えてんだなー、感心しちゃってね」
――何を考えていたのですか?
「こうゆうことなのね。瀧レーシングからブラバムBT23を譲り受けた時“リキちゃんが使うなら、そこのシャーシーも持っていっていいよ”ということで、買うかどうかは後にして取りあえずBT16シャーシー、そう鈴鹿放出品の一台ね、を預かっていたのですよ。それで、じゃあBT16をどうやってFJ規格にするんだ?と訊いたら、排気量制限が600ccだからエスロクを載せると言うわけです。そうホンダS600のエンジンですが、それって606ccじゃねーかと言うと、シリンダーにスリーブ入れてダウンサイジングの590ccちょいになるって、既に計算済みなんだ(笑)」
――先手を考えていた。
「そうなんだよ。ホンダ関係の友人が多かったこともあって、どうもS500のパーツの工夫でそんなに大ごとじゃないらしい。結局GOサインを出してから一カ月くらいで、綺麗にS6エンジン搭載のブラバムBT16が出来上がってね、たまげたなーあん時は」
――聞いていますとエンジニアの情熱というか、素早いアイデアというか、素晴らしいですねー。FJレースの存在には、そういう夢を育む役目もあったのですね。
「ホント、思い出してもジーンとくるね。エンジン排気量縮小は解っていても、ギヤボックスはどうするのか?という心配をよそに、ブラバムシャーシーに付いていたヒューランドMk5(5速)を結合させて、富士での試走も余裕、タイムも2分20秒台はそんなに無理なく出てね。でも肝心の2000ccマシンの方が難題山積だったんですよ(苦笑)」
――まさに和製ブラバム・ホンダの完成ですね、こういった試みは他になかったのでしょう?
「最初は、こんな大げさなことするの他にねーだろうって独りよがりして、手作りFJの面々に嫌われるだろうなって何か気まずい思いがあって、GPの1カ月前くらいの自動車雑誌に、新設FJクラスの予想記事が載っていて、“ベテラン健二郎の独占か”という見出しになっている。“おっと、どなた様かを忘れちゃーいませんか?”って(爆笑)。ページめくったらオレのことなんか一言も出てねーの(笑)。まあ、そのころ失敗続きだからメディアにも見限られたね(苦笑)。それと3月末に届いた全クラスの参加者名簿を見たら、ホンダS6やN500のエンジン改造マシンがゾロゾロあって、ブラバムやFJ専用の市販シャーシーなどウチなんか遠慮し過ぎなんだ、みんなで大笑い(爆笑)。おまけに現職ワークスドライバーもいるし、裏でメーカーチューンのエンジン渡しているとかね。それで僕は気が楽になっちゃって、それならガンガンいっちまえーって(爆笑)」
――雑誌記事のベテラン健二郎とは田中健二郎さんでしょ、6000ccのモンスターマシン操っていた人がFJですから、たぶん力さんがご覧になった雑誌をボクも見て、びっくりしました。他にも、伊藤光夫さんや市野三千雄さんは、オートバイ世界GPのライダーだったし、なんだか凄いことになっている気はしています。
「そうですね、お互い良く知った間柄です。だから自動車誌の記事でFJはGPクラス並に注目されたんですよ(笑)。まあケンさん、その時はワークスではないけれど、ヨシムラ・ホンダ(現ヨシムラ・ジャパン)の吉村秀雄さんがチューンしたホンダS6ダウンサイジングの600ccで、なんと100馬力を超すと言われてね、それをブラバムBT16に載せて、となれば、FJじゃなくてGPクラスの方が速いんじゃねーの、なんて揶揄されたりね(笑)。だからGPにFJ新設は歓迎でも、早くもプライベート、ホビーの世界ではなくなってしまってね。アマチュア、クラブマンのカテゴリーとは?難しいと思ったものです」
――仰る通り、日本GPで併催のGTやツーリングカーなどにドライバーもマシンもワークスが入っていても構いませんが、ちょっと大きな大会になれば相変わらずメーカー色が濃くなる傾向は減りませんね。ミニフォーミュラから発展したFJには大手メーカーが関わるメリットが薄いし、クラブマンや街のコンストラクター中心の思想で発展すると思われ、期待もあったのですね
「まっ、そうゆうこと、それだったらオレだって“やってやろうじゃねーか”ってなるよね」
――腹の虫が大虫になって、ですね(笑)
「だから目標はGPなのかFJか解らなくなっちゃって(苦笑)。FJが予想外に調子良いものだから2分20秒切ろうぜ、ということで、エンジン、ミッションギヤ比、タイヤ、もう色々いじっちゃって、結果は悪くなる一方。富士スピードウェイの標高は大体海抜600m強と聞いているから、差ほど高くないのに、その時の天候、特に気圧なんだろうな変化が大きくて、エンジンの回転がすごく調子良く回ったりバラついたり、今は電子制御のインジェクションだから問題ないようだけど当時はキャブレターだから調整が困難でね」
――それでは予選で良かったのが本番では不調などはどうするんですか?
「完全なワークスなら、その場その場で対応するけれど、結局、雨天でも快晴でも空気が湿ったような晴れでも、これくらいが良いところかな、ってんで調整するしかないんですよ。そんな状況でGPのマシンもバタバタで“二兎を追う者は”何とかで、GPはNS、FJの予選は健さんに次ぐ2番手だったけれど、テスト中のタイムがでなかった。以下に予選順位を示しますが、まあ他のチームも試行錯誤の様子でね。あっそうそう、伊藤光夫さんは予選中のマシントラブルで義務周回数の3周に足らず、彼の同僚の市野三千雄さんは出走せずで決勝進出できなかったね。それとFJの予選通過タイムは3分だから、10台近くが脱落。新設FJは予想以上のハイレベルで始まったということなんです」
――おーっ、予想以上の速さですねー、GPクラスの予選基準タイムはトップドライバーのタイムの20%増し以内ですから、この調子では次回はFJでなくGPクラスに出るのが現れるのでは(笑)
「うん、そこまで行ったらFJがGPクラスになっちゃう(爆笑)。FJ決勝はGPの後、最終だから普通なら帰り出す観客が目立つけれど、それが少ないのに驚きましたよ。当日は何とか雨が降らなかった影響もあるでしょうが新しい種目への期待があったのでしょう」
――FJクラスに参加申し込みが始まった時点から、様々な話題が渦巻くFJなのですね、それで決勝は?
「決勝ラインに4台3台4台〜〜と並ぶのはGPクラスと同じで、最前列の左に田中健二郎、次に僕、僕の右に掘雄登吉、堀の右に風戸裕、二列目に津々見友彦、若松孝太郎、舘宗一」
――この舘さんというのは現TOM’Sファウンダーの舘信秀さんですね。
「そうです、このレース4〜5年後にトヨタのオフィシャルモータースポーツショップTOM‘Sを創業した舘信秀さんですね」
――で、いよいよレースが始まります。
「ええ、レースの様子は、次回、ということにしましょうか」
――盛り上がってきましたね。次回が楽しみです!!
【ご報告とお悔やみ】
本稿を進めておりました2019年末、FL500推進の中心的存在でいらっしゃったベルコ・ウェスト代表の神谷誠二郎さんが、70年の生涯を閉じられました。筑波サーキットを中心に生まれ、FJ360からFL500と成長したミニフォーミュラのカテゴリーは、やがて鈴鹿サーキットにも広がりますが、神谷さんは、ベルコという関東のコンストラクターでご活躍された後、鈴鹿サーキットや西日本サーキットなど関西方面での広がりを想定され、鈴鹿サーキット近くにベルコ・ウェストを創設し、底辺レースの育成に尽力されました。
突然の訃報に悲しみも一入ですが、ここに、生前の底辺レースへの想いに敬意を表すとともに、謹んでご冥福をお祈りいたします。
第七十九回・了 (取材・文:STINGER編集部)
制作:STINGER編集部
(mys@f1-stinger.com)