◆本格的フォーミュラカーレース発展への下支えを発揮するFJレース
――新型伝染病騒ぎで落ち着かない世相ですが、1970JAF GPが、国際レベルのフォーミュラマシンのレースを目指して胎動し始めました。そのフォーミュラマシンも、軽自動車の部品を工夫して組み上げた360ccや500ccのミニフォーミュラカーと呼ばれる日本独自のレースクラスがクラブマン達の熱意で発達し底辺を盛り上げた成果は高く評価されますね。
「その通りで、コニーリオ、レーシングクォータリー、マクランサ、鈴木板金(ベルコ)などのコンストラクターが生まれ、中でも鈴木板金から独立して、ベルコウエスト、FK4など数々の車種や生産台数とも日本屈指の、世界的にも希有なレーシングマシン・メーカーに育てた神谷誠二郎さんを筆頭に、自動車レース=日本の自動車メーカーの勢力争い、の世間認識を変えていきました」
――そうです、私がレースにのめり込み、ミニカーレースなどに同級生が参加したりの時代でしたが、確かに若い新しいエネルギーが燃えさかっていました。その神谷(かみたに)さんが急逝され、残念の極みですが、リキさんは故人の追悼会に行かれたようですね。
「ええ、伝染病騒ぎが大きくなり出した2月24日でしたが、鈴鹿サーキットのパーティールームに、レース関係者だけでなく一般ファン含め400人以上の参会者で大混雑でした。真っ赤なバラの花で設えた献花台の真ん中に、在りし日の神谷さんの遺影が微笑んでいてね。まだ72才でしたから、厳粛な中にも暖かい追悼会でした」
――先人が段々少なくなっていきますから、マイワンダフルサーキットでも、正しい歴史を語り継いでいきましょう。引き続き、よろしくお願いいたします。
「こちらこそ、正しい歴史を知ってほしいですから!!」
――さて、70年JAF GPに戻りますが、サポートレースも大いに湧いて、前年までのモンスターマシン出なければGPにならないという意見はまやかしに過ぎなかった。
「まっ、そうゆうことですが、その前に“サポートレース”って呼び名、いつ頃から使われ出したのでしょうねー。僕ね、このサポートっていうの、物凄い違和感があるの。要するに、GPクラスは本物で、それ以外のレースは、“補助的な”、とか、“支持する”、のような意味で言っているようだけど、要するにGTやTSクラスは『添え物扱い』の意味に思えてならないし、失礼だよね。確かにこの年のGPは、頂点であるフォーミュラカーではあるけれど、レース内容/ドライバー/マシンとも、時にはメインクラス以上のものがあるのにねー。何か適切な呼称ってないのかなー、ごく平凡だけど、’70GPスペシャル(special)クラスとか、パティキュラー(partcular)レースとか、編集長、率先して考えだして広めたら如何ですか」
――そうゆう見方もあるのですね。今ではすっかり定着していますが、サポートというのは補助的という感覚ではな、むしろ、面白さが詰まった、というような意味合いで使うこともありますから。
「どーも本題から外れちゃってスイマセン(爆笑)。それで、70年JAFグランプリですが、クラブマンフォーミュラカーレースの象徴としてフォーミュラジュニア、略称FJが設けられましたが、これが凄い人気でね、やはり身近なのでしょう。メインのGPに大きな影響を与えたのは確かでした」
◆リキさん、予選2位からスタートのFJレース
――前回でのお話では、1970年5月3日のJAF GPで、スタート時間が、メインレースが終わった後の最終レースだったにも関わらず、普通ならメインのGPが終わると直ぐに観客がぞろぞろ帰り出すところが、新しいカテゴリーへの期待が高かったのでしょうか、FJレースの決勝は予想外の反響で、田中健二郎さんがポールポジション、2番手が力さん!!でレースがスタートしたのですね。
「まぁ、ボクはどうでもいいけど(爆笑)」
――いやいや、よくないですよ(笑)。GPと同じ4台‐3台-4台というグリッドの並びだったのがなんだかスタートに向けてワクワクします。
「まぁ、この辺りのストーリーは前回NO.69で詳しく述べていますから読み直して頂きたいですが、レース前からケンさん(田中健二郎)が抜け出して優勝、という筋書きが当然のように言われていたものの、スタートしたら、ケンさんとボクのブラバムより、自作シャーシーにホンダN500エンジンを積んだ堀(堀オトキチ)や、スピードショップ製作のマシンに乗る風戸たちがどんどん先に行っちゃうんですよ」
――ええっそれはまた、どうして?
「要するにミニフォーミュラから発展したFJ1600マシンの車重は、大方300㎏未満、それに対して、F2やF3向けに製作されたシャーシー(ブラバム16)にホンダのS6改エンジンのマシンは、優に350㎏を超す重さですから、スタートからの加速に時間がかかるのです。まあ、走り出してしまえばスピードに乗って速いのだけど、先に行ってしまったマシンに追いつくのは並大抵ではないのです」
メインレースを食う盛況の中でスタートしたFJがバンクを駆け下る。先頭は堀雄登吉、予選1-2からスタートした田中健二郎(ゼッケン28)と力さん(画面後ろ端)は、“重さ”で置いていかれたが、周回毎に順位を上げ、やがて力さんがトップに立つが、突然ピットインを命じられる。
――走りだしてしまえば速いけれど、車体の重さがネックとは、実戦で現れた盲点ですね。
「後になって堀は、それを計算していて、“とにかくトップに立ったらブッチギッテ逃げるしかない、だからバンクに入ったら直ぐにバンク下の130Rの右コーナーのイン目がけて、直滑降して速度を上げるんです”、って言うんだね」
――バンクを駆け下って、S字の手前の、須走落としと呼ばれるようになる難所ですね。荒れた路面のバンクを直線に下ると、バンク角が急激に減って、ガックーンとなりそうなリスキーな走りですね、車体の強度や車輪への影響など、手作りマシンはそこまで考えていたのでしょうか。
「他のマシンは解らないけれど、堀はそんなこと構っちゃいないドライバーですよ(笑)。堀はボクのチームの仕事手伝ったりするブレーンでもあるから“須走落としは、危ねーからやめろっ!”って叱るのだけど、聞いちゃいない(笑)」
――度胸がある方だったのですね!!
「それで、1周目のヘヤピンは健さんやボクも混じった5〜6台が団子状態で突入してね、“最終コーナーからストレートに入ればこっちのもんだ”、と斜に構えていたら、堀はどんどん行っちゃうのね。2〜3周、そんな状況が続いたかなー。やっとスピードに乗ってきて、予想通りケンさんがトップに立ったようで、そうなると堀は2位。その後ろにボクと風戸裕、舘宗一(のちの信秀)などのグループがいて、ヘヤピンの立ち上がりで風戸がボクの前に出て、ケンさん、堀、風戸のようだけど、ピットからのサインで“ケンさんアウト、リタイア”を知って、よーしこれからだ!と。マシンの調子も良くて、前方の風戸、舘に追いついてね」
――いよいよ猛追が始まる、ですね。
「それなら嬉しいのだけど(笑)、レースは15周だから、半分近くになったかな。前方の舘がピットロードに入っていくから、堀、風戸、ボクの順。2周くらい風戸を追い回したかなー、やっと彼を追い越し、次は堀だっ、の意識でピットサインを見たら、“えっえええー????”」
――ど、どうしたのですか!?
「ボクに“ペナルティーが出た”って知らせ。一瞬、オレ何かやったかなー? 他のマシンに接触した? 妨害行為??、何を考えても思いつかない。何かの間違いじゃねーか!?、レース中にとんでもない思考が入ったら、もーだめねー、走るラインは狂うは、ギヤチェンジのミスでオーバーレブの連続。とうとうバルブが抜けたか、エンジンは、バラバラ調子が崩れてクシュクシュ泣き出した」
――あちゃぁ!!ですねー。
「ドライバーもマシンも打ちひしがれてピットロードを徐行する惨めさったらありゃしない(笑)」
――結局エンジンブローですね?
「たどり着いたピットで、ペナルティーって何のこと?と訊いたら、マネージャーの長島英彦が「フライングスタート」だって言う。えっフライング? オレ絶対にやってねー、となった」
――ピットマンからは力さんのスタート位置を左斜め前に見るからフライングには見えないかもしれませんね。
「そなんだよ、おかしい。よし、判定に抗議しようって、いきり立ったけれど、マネージャーが、“もう12周目だし、抗議したって直りませんよ、と落ち着いてやがってね。“このクルマ速く走れるポテンシャルがあるのが解りましたから、次のレースは頂きましょう”、というので、ボクも気を取り直しましたが、50年経った今でも釈然としないねー(爆笑)」
――やはりレースってドラマですねー、ミニフォーミュラカーがFJに発展し、プライベート中心のカテゴリーが普及する素地ができたのですね。
第八十回・了 (取材・文:STINGER編集部)
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