戦後日本が一大飛躍した1960年代の終わりかけ、鈴鹿から富士に移った日本GPは、大排気量のビッグマシンが注目を集め、並行してツーリングカー・レースが盛況を極めていた。そこにいわば“忽然と”、フォーミュラ・カーが出現し、日本のレースは歴史的な分岐点を迎える。
◆日本GP改革の動き
――恐竜を思わせるビッグマシンのレースに度肝ぬかれ身体振るわせて観戦し、レースにのめり込んだ私にとって、日本GPがなくなったのはレースそのものが消えてしまったようで未だに釈然としないのです。
「その気持ち良ーく解りますよ、6600万年前とかに絶滅したと言われる恐竜たちは一億六千万年近く地球上に栄えたようですが、レース界の恐竜的マシンは3年で消えました(爆笑)」
――そうでした、あっという間でした。そして、このストーリーもフォーミュラカーの話になっていくわけですが、改めて、鈴鹿から富士に移ったところに戻って、全体の流れを教えていただければと思いますがいかがでしょうか。
「お、編集長も、やっとそこに気づきましたか(爆笑)。冗談ともかく、ここは日本のレースにとって大きな節目になるところですから、その流れで進めましょう」
――よろしくお願いします!!
ところで、お伺いしている話の流れのいいタイミングで、リキさんと幼少時代から懇意だった高橋国光さんが、スポーツ功労者顕彰を授賞されました。
「そうですね、ゴルフや相撲、競馬の騎手と並んでの顕彰ですから。まぁ、この賞を授与した萩生田光一文部科学大臣が、S800でレースをやっていた元八王子市長の黒須隆一の秘書だったこともあって、モーターレーシングを多少なりとも理解している、というバックボーンもあったようですね。まぁ、ボクだったら辞退したけどね、国からなにかもらうほど落ちぶれちゃいねーぞってね(曝笑)」
――またまた、返事に困るようなことを(笑)。しかし、国さんのお礼の挨拶が、また、国さんらしくて、これまた感動しました。奥ゆかしいというか、控えめで他人のことをものすごく思われている優しさを感じました。
「あいつ、なんて言っちゃあいけねーな、エライ人なんだから、ハッハッハ(爆笑)、元々優しい人柄でね、同じ町に生まれ育って国民学校一年生は同級でね、浅間レース時代からもう70年以上の付き合いだけれど、結構遠慮がちなところがあってね」
――いま、ちょうど、マイワンダフルサーキットが、フォーミュラカーの時代に入ろうとしているところでしたが、思うに、今回の国さんの顕彰で、最近の世の中の動きが、グルッと一巡して、スタート地点に戻った感じがしているのです。
「それは言えるね」
――さて、そのグルッと回る起点の1970年代の話に戻りますが、前回のお話にあるように一時期低調だったツーリングカーが盛況を取り戻していきます。しかし、レース最高峰のGPは方向を見失ったように見えました。
「とくに1970年代初めは石油危機で、レース自体が岐路に立たされていくのですが、それとは別に米国で排気ガス浄化への厳しい法律が制定される動きが出始めたのです」
――それでもフォーミュラカーによる1970年のJAF GPは、予想以上に盛況だったのは心強いです。
「ええ、このJAF GPは5月でしたから、まだ日本では石油不足の危機なんか外国でのハ・ナ・シなんて極楽とんぼで(笑)、緊迫感なんかなかったですよ」
――そうなのですね、それにしても本来なら、5月のJAF GPが終われば、秋には日産がR382を更に強力にしたマシン、トヨタは今度こそ必勝の構えでトヨタ7をターボ化したモンスターの闘いがあったはずですから、それが見られなかったのは残念と今でも思います。
「そりゃあ当然ですよ、例年5月3日は日本GPの日というぐらい定着していたのが1969年から10月10日に変更しました。だから、この年(1970年)のJAF GPが終わって、“さー、次は秋の日本GPだー”って誰もが期待していましたからねー」
――そーなんです、このストーリーの第65回〜67回で詳しくお話頂いていますが、私も秋の日本GPにゾクゾク、1年に2回のビッグイベントが見られるのですから。
「それも段々と国際レース並みに近づいてきたJAF GPの熱が冷めていない1か月後の6月初めに、日産が日本GP不参加を発表した。だけど、今度こそGPを手中に、と狙うトヨタは、日産が出なくてもウチはやるぞって7月の富士1000㎞レースではトヨタ7ターボをお披露目参加したくらいで、日本GP自体が消滅するなんて誰も夢想していなかったでしょう」
――トヨタの意気込みは凄かったですね。日産が出なくても今までの一周ラップタイム1分44秒77、レース優勝平均速度194.28km/hを塗り替えればトヨタの技術力の証明にもなる、というのでワクワクしました。
「さらにトヨタは米国カンナム(CAN-AM)シリーズに参戦を着々と進めていたようですが、好事魔多しの事態になってね・・・・」
――そうでした、鈴鹿で大事故を起こしたことですね。
「これも以前のストーリーに出ていますが、富士1000㎞レースの後、鈴鹿サーキットで7ターボの開発走行を行なっていたトヨタのエースドライバーの川合稔選手がヘアピン手前のコーナーで事故死したのですね」
――減速時にアクセルが戻らず、ターボ回転が下がらなくてエンジン吹きっぱなしだったとか。
「その話は多く語られていますが、僕は知りません。ただ、この時代、レーシング・エンジンのターボ化が始まり、外国のチームでも多くの試みをしていたようですが、ターボのON-OFアクセルとの同調が難しく、アクセルを絞っても速度が落ちない現象が結構多かった話は聞いています」
――この事故でトヨタもGP不参加になるようでしたが。
「当然そうなってもおかしくないけれど、CAN-AM参戦の目標もあったのでしょう、日本GPへの不参加表明はしなかったけれど、結局は日産と同じく米国での排気ガス制約の技術的対策を急がねばならなかったのでしょうね。この事故1カ月後くらいだったか、不参加を表明し、完全に日本GPの開催は不可能な状況になって、GP中止になるのです」
写真は2002年グッドウッド・フェスティバルofスピード。このときはターボなしで走行した。
――それを待っていたかのようにフォーミュラへの脚光が。
「いやいや、そんな単純なことじゃなくて(笑)、前年の1969年日本GP開催直前に、安全面からとする小排気量車排除の規定が突如出て、これに猛反対のグループと主催者の対立が、ついにGPを中止させてしまう暴力的阻止の動きまで起こってしまいます」
――ふむ。
「こういった混乱が起きないように細かい規定が練り直され、JAF側のGP中止は出ていなかったのですが、日産もトヨタもダメ、プライベートチームの大御所・瀧レーシングも破産しそうでは、もう物理的に日本GP開催はムリと判断されたんですね」
――-GP中止の発表があって私も愕然としました。
「僕はGPの中止は歓迎しないけど、前年のGPが混乱のまま行なわれ、こんないい加減なレース規定で来年のGPが行なわれたんじゃ目も当てられない、どう改善されるかを注目をしていましたが、結構まともな改革が進んでいたのです」
――リキさんが珍しく体制側を褒めるなんて(爆笑)、これは是非お聞きしておかないと。
「別に褒めることじゃないけれど、要するに、前年のGPで大問題となった大排気量と小排気量が混走する危険因子をどう取り除くか、なんですね。前年は何も考えずに、考えたのかな?(爆笑)とにかくGPの公式練習が始まる直前になって“ビッグマシンと小排気量車の混走は危ない、特別なクラスを設けてやるからチビっこいクラスはそっちで走れ”ってね。いきなりでしょ!ふざけんなこの野郎、で、レーススタートを阻止する暴動計画が始まって」
――実力行使の首謀者がリキさんだった!!
「首謀者と言ったって、火付け盗賊改め方に追われるような悪党じゃないよ(爆笑)」
――当時の状況では、“正義の味方、月光仮面”、古すぎますかね(爆笑)。
「ははは、それで結局は予定通りにGPを行うことにはなったのだけど、翌年70年GPも日産、トヨタ、瀧(たき)レーシングなどのビッグマシンだけでGPが成り立つわけではなく、多くのプライベート参加があるから多くのファンに応える中身になるのです」
――そうです、色々なマシンが一堂に会する、それをファンも楽しみにしているのです。
「でも、一定のエンジン排気量のマシンが揃えば問題ないのですが、とくに日本GPの車種は製造自由度が広いグループ7の2シーターレーシングカーや、グループ6の少量生産のレーシングスポーツカーなど、エンジン排気量が概ね3000㏄以上のマシンが多くて、それらは殆どワークスカーと数千万円は下らない市販マシンですから10数台の参加しかありません。他はプライベート製作の小排気量車ですから、排気量の違いをどうするかが大問題です」
――自動車レース始まって以来、その公平性が様々に研究されて成り立っていますね、ルマン24時間なんか良い例ですね。
その通りですが、日本では、とくに富士スピードウェイでは大排気量のカンナム・マシンなんかはぴったりの高速コースですし、米国への輸出は絶対に疎かにできない日本メーカーですからカンナム参戦の意欲は充分にあります」
――日本でカンナム形式のレースが盛んになればメリットも大きい。
「当然そうなりますね、基本的には、日本GPがカンナム・レース参戦へのテスト舞台的になって、メーカーのモンスター・マシンに牛耳られてしまったことへの反発は大きくなって、小排気量車なんか邪魔な存在であるなら、“それならメーカーさんやお金持ちの道楽さんだけでやればいいじゃねーか”ってことで、プライベートは敬遠し必然的に参加者は激減します。ちょうどこういった雰囲気が頂点に達していました」
第八十二回・了 (取材・文:STINGER編集部)
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