富士スピードウェイで始まった日本GPに、プリンスR380と呼ばれるプロトタイプ・スポーツカーが登場し、ポルシェ906やフォード・コブラなどレーシングスポーツカーが日本のレース界に登場した。その流れがトヨタ7やニッサンR382など、5000㏄や6000㏄のモンスターマシンがGPの中心になってゆくが、中心となっていたニッサンやトヨタなどの自動車メーカーが、米国の排気ガス規定をクリヤーしなければならない技術開発に追われ、GPどころではなくなった。
◆恐竜時代の終焉
----1960年代終盤には一世を風靡していたビッグマシン。私もその流れに興奮していましたが、1970年を迎えると、ちょっと違う流れになっていきました。
「そうですね、欧州で盛んなレーシング・スポーツカーが流行るのかと思っていましたら、米国カンナムレースのマシンに代表される車体構造規定もゆるやか、エンジン排気量も無制限なグループ7規定によるビッグマシンが、日本GPの売り物になっていきましたが、僅か4年で挫折します」
----結局、ニッサン、トヨタの大排気量マシンがGPを牽引し、それに一部のプライベートチームが果敢な挑戦を試みるといシナリオでしたが。
「果敢な、と言うより、無謀な挑戦?(笑)。B29に蹴散らされるゼロ戦みたいなもので(爆笑)」
----まあ、なんと辛辣なおっしゃりようで(笑)。
「要するにメーカー中心のレースなんて、メーカーの都合でどうにでも変わっちゃうんですよ(シンミリ)。メーカーが出たって良いのですが、出方、どのようにかかわるか、というセオリーや思想が疎かだったんじゃないでしょうか。僕から見ればメーカー内の一部のレース好きが株式会社の大資本を背に突っ走っていたように見えて仕方ないのですが」
----確かに、当時は、“ビッグマシン凄い!!”と有頂天になって見ていましたが、あのまま行ったらと、とんでもないことになっていたかもしれませんね。
「だからボクは、こんな内容のGPが続くわけないと思っていましたけど、結局4年で挫折でしょ。そりゃあ、排気ガス対策でレースどころじゃない大義名分はありますけれど、排ガスばかりの問題ではありませんよ」
----あ〜、そういうことだったのですね。
「そこで、フォーミュラカーで行なわれた1970年春のJAF-GP、ですね、これは終わった、さー秋のGPをどーする、で日本GPが頓挫しちゃった」
広大な富士スピードウェイを舞台にしていた日本グランプリは、オイルショックを機にビッグマシンの呪縛を解かれ、重い鎧を脱ぎ捨て、フォーミュラ路線を歩み始めた。
◆春と秋のグランプリ
---春がフォーミュラで、秋がビッグマシンになるのかなぁ、ってなことを考えていました。
「これは日産がGP不出場声明を出した時期、トヨタはニュー7でGP奪還に燃えていたようですが、やはり排ガスへの対応それにマシン開発中の事故などでGP断念。果敢な挑戦(笑)のプライベートチームも右にならえー、で主催者のJAFも1970年のGP中止を打ち出すのですが、じゃあ日本GPをどーする、と。こりゃモメますわな(笑)」
----メーカーのビッグマシン抜きのGPというわけにはいかなかったのですね。
「おっしゃる通りで、プライベートマシンの800ccから1600、2000㏄のマシンも立派に成長しましたが、ビッグマシンと比較されたら、そりゃ見劣りしますからね、お客さん入らねーだろう、というそろばん勘定が先に立つでしょう。それと日本グランプリといった国名を冠したレースは一国で一つ、その国の最高レベルのレース大会である国際規定から、日本固有の発達した小排気量グループ7マシンが GPの名にふさわしいか、難しいでしょう」
----それを決めるのは主催者のJAFですね。
「JAFの一存ではなく、大きな自動車クラブ代表者や自動車界に精通と言われている人らによるスポーツ委員会、それに肝心なレース場の会社の討議によりますから簡単には進みませんが、その辺りは端折りまして、これは前回も触れましたがエキジビションで1966年に始まったフォーミュラカーレースが、年々充実していき外国からのエントリーもある国際レースになっていきました。富士スピードウェイだけでなく鈴鹿サーキットでも、1968年には独立のフォーミュラカーレースも開催していましたから、将来的にフォーミュラが育っていく素地が出来上がったのでしょう。それをまとめれば 、
①フォーミュラカーマシンが確実に整備されてきたこと
②ビッグマシンに劣らぬスピード感
ですかね。
②については本ストーリー第78回辺りで語っていますが、5000㏄のニッサンR380の1周のラップ速度194km/hに対し、1970年のGPで、1800㏄のF2改を駆るジャッキー・スチュワートは、193km/hキロ台ですから、でっかい車体とでっかいエンジンでなければ超スピードが見られないというのは幻なんですね。
そして③F1レースの社会認識向上の影響などもありました」
----いろいろな要素が絡み合っていたのですね。
「フォーミュラカーでの日本GPは、従来と遜色ないイベントになると判断したのでしょう」
----でも、F1をやるというところには行かなかった。
「そりゃ当然です、いくら三菱がフォーミュラカーに熱心とはいえ、いきなりF1マシンは造れませんよ(笑)。フォーミュラでも国際規定のF2ですね。ただ、これにも大きな問題がありましてね」
----えっ、大きな問題と言いますと?
「この時代エンジン排気量がF1は3000㏄、F2は1300〜1600㏄、F3は1000㏄で、F1は当然メーカーチームですが、F2、F3はクラブマンが参加し易いマシン規定で普及していきます。その人気は高まり1967年になるとF2はF1のシリーズ戦と同じくヨーロッパ選手権のシリーズタイトルを制定するのですが、そうなるとF2はF1への絶好な登竜門の位置づけになり、様々なコンストラクターが群雄割拠し、それを陰で支える自動車メーカーが出てくるのは当然です」
----なるほど。そういうことなのですね。
「そうなるとF2は益々高度化し、エンジンは最大6気筒までの2000㏄に変更の動きが出るのです」
----F1のエンジン規定も度々変わりますがF2でも同じようですね。
「まあ日本でのフォーミュラカーは始まったばかりですから影響はない、というか蚊帳の外だったみたいで(笑)。第一に日本の自動車レース発祥(1963年)以前の1954年にはマカオGPが、1961年にはシンガポールGPが始まりました。これは太平洋戦争後に独立した元英国やフランスなどの植民地だった国々の社会環境が欧州の文化に影響されていたからですが、これらは早くからフォーミュラカーのレースもありましたから、富士スピードウェイができた頃には1600ccのフォーミュラが盛んになっていました。しかしボクがこれらの国で走り出した時代では、欧州の影響もなかったように感じましたが、2000ccへの移行で問題が出始めるのは日本と変わらない時期ですよ」
----日本よりずっと以前からフォーミュラカーレースをしていたなんて、自動車を造っていない国なのに、凄いことですね。
「自動車を造っていなくてもレースを行なっている国は沢山ありますよ。自動車生産国=レース盛ん、の構図は総てではありません、これは文化論ですから」
----なるほどぉ。
◆細分化されたフォーミュラカーのレギュレーション
「まっ、難しい話はおいといて、東南アジアでのGPも1600ccフォーミュラカーが広まっていきます。唯一オーストラリアを中心のタスマン海諸国では2500ccでしたが、これは、本ストーリーNo.75辺りで詳細していますから読み返して頂きたく端折って、日本でもようやく1600ccマシンが増え始め、これからだ、という時期にF2は2000ccに変更することになってしまいました、それも1971年から、という話ですからね」
----いきなりですか? 前々からそう変えるというなら解りますが。
「その通りで、多分、欧州ではそんな動きがあったのでしょうが、日本にはそういった欧米の大事なニュース中々入ってこない時代でね。これはマカオなども同じで、新規定の2000ccで行なう決定をするのですが、マカオ始め東南アジアのレースチームは、“いきなりそんなこと言っても、肝心な欧州でさえ2000ccエンジンなんか無いじゃないか”ということで、1971マカオGPボイコットの騒ぎになってしまうのです」
----どうして、そんなことに?
「要は、F2は2000ccエンジンにする、それは構わないのですが、新F2普及のためエンジンブロックは一定台数以上市販されている車のものを使う、の規定に、“それが有利なのは西ドイツのA車だけではないか”とか、“レース用エンジンでも良いじゃないか”、という騒ぎになってね、マカオの例では、数年先まで現行1600cc維持で行なうことの決定で治まるのですが」
----日本GPはどうするか、ですね。
「ええそうです。三菱は、ゆくゆくは欧州F2シリーズに参戦の雰囲気があったようですから、新エンジンの開発が出来ますが、国内の有力非力問わず(笑)、チームが所有するF2は1600ccばかりですからね。それと、フォーミュラカーでの日本GPは結構だが、フォーミュラカー拡充の底辺を担ってきたミニフォーミュラなどをどう扱うか、などの問題もあったようです」
----それは重要で、また結構なことですね。
「結局、レース詳細の公式発表が出されたのは1971年の春先になってのことですが、レースプログラムは次のようになりました。
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※レースプログラム
- 日本グランプリレース(GP=35周/210km)
- GP‐1(850ccを超え1600ccまで)
- GP‐2(1600cc超え2000ccまで)
- フォーミュラジュニアレース(FJ=10周/60km/360cc)
- グランドツーリングカーレース(GTS=15周/90km GTS1=1600cc GTS2=1600ccを超えるもの)
- レーシングジュニアレース(RJ=10周/60km/360ccを超え1300ccを含み1300ccまで)
- ツーリングカーレース(TS-A=15周/90km TS‐A1=600ccを超え1000ccまで TS‐A2=1000ccを超え1300ccまで TS‐a3/1300ccを超え1600ccまで)
- ツーリングカーレース(TS‐b=15周/90km/TS‐b1/1600ccを超え2000ccまで TS‐b2 2000㏄を超えるもの)
と、きめ細かいクラス分けでワークスチーム、ドライバーとプライベート夫々にふさわしいクラスへの参加ができる内容になっているのではないでしょうか」
----なるほど、これが新装日本GPのスタート内容ですね。メインイベントのGPクラスを盛り上げるミニフォーミュラのFJが入っているのは好感ですね。
「GTとTSも従来通りですが、TSはクラブマンとメーカー系参加色が濃いクラスに分けているのも良いのではないでしょうか」
----ところで、RJというのはレーシングカーでしょうが、ちょっと彩りに変化つけたような。
「RJはミニカンナム版、というのかなー。ただカンナム・マシンは2座席でドライバーシートは右側のところRJは単座席だから真ん中に座る。要はミニフォーミュラ・カーにボディーをかぶせたタイプだね」
----RJというと、第72回で紹介した1969年8月31日に富士スピードウェイで行なわれた『富士ミニカー レース』を思い出します。軽自動車のエンジンを使った混走レースがありました。ハコとスポーツカー、そしてミニフォーミュラが混じった奇妙なレースでした。
「それがミニフォーミュラに発展していくわけですが、そこに至るまではいろいろありましてね」
----そのようですね。
「その流れは、繰り返しになるので、詳しくは、第72回を振り返っていただくとして、従来のGPは、メーカーマシンが牽引してきたようなものだけど、企業というのは商売の良し悪しで簡単に変わっちゃいますからね、メーカーに頼ってばかりはいられないことが解ってきたのでしょう」
第八十四回・了 (取材・文:STINGER編集部)
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