ビッグマシンの壮絶な闘いから、富士スピードウェイは、フォーミュラ路線を歩み始めた。その歩みが急激に加速したのは、1971年5月のJAFグランプリ。三菱ワークスがチャレンジ2年目に、海外勢に対抗するマシンを投入する。
――1960年代終盤からのビッグマシンの闘いが盛り上がって1970年代に入ります。
「もっとも、5000㏄だの6000㏄などのマシンと、富士スピードウェイの高速コースによって超スピードの迫力目当てにグランプリに押し寄せるファンを魅了してきたのは事実だし、“これこそがレースだっ!”と具現化してきたのは結構なことですが、その反面、“えっ? GPってメーカーの張り合いっこ?”という疑問が噴出したのも事実だったからね。
そのような情況の改善は前回に述べた通りですが、8年の間、メーカーが牽引してきた日本GPはようやく新たな方向を見いだしたということでしょう」
――それは良い方向ですが、やはり外国からのエントリーを仰がなければ色彩濃いGPにならない、といった見方があったのではないでしょうか。
「そっそ〜そう、確かに日本GPにしろJAF GPにしろ、外国からの参加者には飛行機代、宿泊、マシン輸送費、オールギャランティーで参加者を揃えてきた。それに対する“反発”が、70年のJAF GP開会式で大変な事態を引き起こしたことは以前に話しました」
――そうでした前代未聞の生沢徹選手の宣誓拒否事件!!
「開会式典にご臨席の高松宮殿下の前で、選手宣誓書を握りつぶし、肝心な日本チーム、ドライバーは極端に冷遇されている内容をマイクを通して会場満席の観客に訴えたのです」
――そうでした、それで何か改善されたのでしょうか?
「71年GPをフォーミュラカーで行なうことにした年の春先の出来事ですから、こんなことが二度と起こらないようにどうするか。フォーミュラカーレースに出る連中は何をし出かすか解らない危険分子?(爆笑)」
――この事件もリキさんの差し金だった?
「冗談じゃないよ(爆笑)、オレの主義は皇国主義、宮さまの前じゃやらねーよ(爆笑)。それで、JAFもスポーツ委員会も何かの対策が必要と考えたのでしょうね。要は、外国からのチームは従来通り招聘するとともに、日本のフォーミュラカーの育成に参加チームへ50万円の助成金を支給することになったのです」
――へーえ、そんなことがあったんですね、造反しないための口封じの意味もあったりして。
「これっ、そうゆうはしたない考えをするのじゃなくて(爆笑)、まぁ、実際に資金を出すのは主催者(JAF)でしょうが、どなたかスポーツ委員辺りから、純粋な育成策として提案し実現したのでしょうね。ウチ(リキさんのチーム)も頂きましたよ。ボクの手元に1971年5月3日のGP開催1か月前の3月末時点での参加申し込者リストがありますが、以下の顔ぶれです」
三菱が送り込んだコルトF2000。サイドラジエターの独特のボディシェイプが注目を集めた。下はそのエンジン『三菱R39B』。フォーミュラカーと並行して、富士スピードウェイで人気を集めた富士GCシリーズでも永松邦臣のドライブで活躍した。
――11種目6クラスですね、 GPクラスの参加は大幅に増加はしてはいませんが、新旧F2、エンジン排気量のバラツキが少ないようです。
「これまでのフォーミュラカーレースでは、台数を増やすために国際格式レースでも850㏄から2500㏄がごちゃ混ぜでしたからね」
――GP以外のクラスも排気量別も解りやすいですね。次回はこのレース内容をお願いします。
第八十五回・了 (取材・文:STINGER編集部)
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