鈴鹿サーキットから富士スピードウェイに舞台を移した日本GPは、その広大なコースに見合うレース種目が考慮され、アメリカで隆盛を極めていたCAN-AMシリーズの影響もあって6000cc〜7000ccの大排気量マシンが主役を担ってきた。しかし、1970年に行なわれた日本GPと並ぶJAFグランプリで、ジャッキー・スチュワートやヨーロッパF3に参戦中の生沢徹、フォーミュラカーに本腰を入れてきた三菱ワークスなどの参加が注目され、日本のフォーミュラカー時代が幕を明けた。
◆本格フォーミュラカーへ
――----これまで数回にわたって日本GP改革、新たな方向へのお話を伺ってきましたが、その第一歩をどんな風にご覧になっていましたか。
「結果としては、1971年から日本GPはフォーミュラカーで行うことになったのですが、1970年秋に予定されていたビッグマシンが戻って、やはりこれでいこーよ、なんて、後ろ髪引かれながら新しい勢力が台頭してきたような感じだなー」
----やはりそういった雰囲気が残りながら新生GPに移行していくわけですねー。
「まあ、編集長はビッグマシン礼賛だったから、片想いの女に未練あるような(爆笑)。とにかくね、日本グランプリという唯一無二の名称を冠したレースイベントは主催者のJAFにしてもサーキット側も偉大な存在だし無くす わけにもいかない。その内容がビッグマシンにしろフォーミュラマシンにしろ、“グランプリ”という最大の冠レースに相応しいかどうかの問題なんですよ」
----確かにそうですね。だから、従来のビッグマシンなら黙っていても多くの観客が来るでしょうが、フォーミュラだと、どんなもんか、例え出世魚のように確実に内容が高くなってきたことが分かっていても。
「その通りでね、話が進めやすいねー(笑)。正直、僕だって同じ思いがありましたよ。僕の場合、この時代、国内より海外のフォーミュラカーレースに憧れた活動に傾倒していたけれど、果たして日本のファンを引きつけられるのか、そっちの不安が、、ワッカルカナー(笑)おやじギャグ丸出し(笑)」
----“不安なファン”、ワッカンネェダローナー(笑)。 確かに前回前々回にも、フォーミュラカーへの関心が着実に高まってきたというお話でしたが、レース場に足を運んでくれるかが重要ですからね。
「その不安要因を抱えながら、1971日本GP開催が公式発表され、じゃあどんな参加内容になるんだろう?と疑問視もあるエントリー内容は前回第85回に載せましたが、やはり日本勢だけでは参加者が少なく、タスマン勢から6台参加しています」
----それでもGP‐1(1600cc以下)11台、GP‐2(1601〜2000cc)10台、計21台で、前年の1970年JAFグランプリでの全参加数22台を見れば9台が外国からですから国内の少ない参加台数を海外からの参加で補うような傾向は薄くなってきたようですね。
「外国からの参加は3台減ってますが、1970年はタスマンの2500ccを加味した関係上3000ccまでOKでしたから基本的内容が違います。とくに前年のウイナー、ジャッキー・スチュワートを筆頭に欧州のドライバーやタスマンの多彩なマシンは少なく、エンジン排気量1600ccの以前からのF2と、2000ccへの移行に対し1600ccのピストンのボアやストロークを可能な限り拡大した1800ccと新規定2000ccエンジンを開発した3種類のエンジンが中心となり、日本のフォーミュラカー底辺拡大を高めたホンダS800エンジン搭載マシンは段々と減少しています」
----この時代、2000ccF2への足並みはなかなかそろわず、欧州でも新旧混合が多い記事を見た記憶があります。
◆2000ccの新制F2にフェアレディのエンジンで挑む
「そうですね、1600ccF2は世界的に定着し、F1の次に位置する地盤が整っていましたからね。エンジン始めマシン&パーツ類の供給も円滑なレース市場でしたから多くの国、地域でフォーミュラカーレースとなれば1600ccF2が当然のような時代でした。それが新F2の2000ccも一緒となれば1600ccより有利な排気量に目が向きますよ。その話は本ストーリー8回前のNO.77で詳細していますが、フォード・コスワース1600ccより強く、なおかつ整備性有利な国産車のエンジンはないものだろうかと考えた挙げ句の選定は、日産フェアレディーのSRエンジン(4気筒2000cc)でしたが、これはボクの失敗でした」
F2規定2000ccへのの対応が注目された三菱1600ccのR39B。1970年JAFグランプリでコルトF2Dに搭載されたが、コスワース1800ccのジャッキー・スチュワートとミルドレン・ワゴット2000ccのマックス・スチュワートに辛酸を嘗めさせられた。
----フェアレディZ432の前身で当時はGTクラスをリード、日本を代表するスポーツカーのエンジンをフォーミュラカーのシャーシーに搭載してみたいと思うのは真っ当な選択でしょう。
「おや、まーっ、そんな褒め方されちゃうと(爆笑)、それで、東名自動車(現在の東名パワード)創業者の鈴木誠一さんや久保和夫さんの多大な支援でブラバムSRに仕上げたものの、結果的に当時の日本のスポーツカー用エンジンではいかんともし難い構造上の問題が付きまとい、スタートラインにも並べない悲哀を経験しましたねー」
----いいろお伺いしていますと、GTでもツーリングでも、そのクルマ一体のチューンナップ度合いは急速に進歩しけれど、エンジンは当然として、足回りなどもサーキット用のレーシングマシンだけでなく、ラリーカーなどにに転用したくなる魅力あるクルマがなかったのですね。
「まあそうゆうことですね、世界的なコスワースのベースエンジンは英国フォードであるように、ラリーでもスピードレースでも、それに向いた市販車用のエンジンをベースにしてバリバリな別物に仕上げてしまうチューナーが日本にはまだまだ不足。市販車そのものを競技用にハードチューンすることは盛んでも、エンジンを筆頭に市販車の一部をレーシング化するのは、軽自動車エンジンを流用したジュニアレーシングカーくらいしかなかったのです」
----確かに、軽自動車の改造車やフォーミュラカーはたくさんありましたが。
「外国の市販車には既に4、50年も前に、その車のラインアップの中には、これをサーキットやラリーで使い出すユーザーがいるだろーな、と想像できる車種もあって、この車はラリーに向いているんじゃないのなんて勝手な評価が、いつのまにか実際にWRCを走っていたりね」
----なるほどぉ!! その後三菱がWRCに参戦したのを思い起こせば、三菱車の中にはそういった素質の市販車がありましたねー。市販自動車の使われ方の中に、そういったバリエーションも加味された製造技術もあるように思ってしまいます。
「そうかもしれないね。四輪ではないけれど、この時代、公道も走れる、、といったってエンジンノイズはやかましいわ、乗り心地はガチガチ、とても長距離は走りたくないけれどメーカーがサーキットも走れるパーツを用意したオートバイがありましてね、四輪はそこまでいってなかったなー」
----そうなると、まだまだ外国製チューニングパーツに頼らざるをえない、特にエンジンはその筆頭ですね。
「そんな状況でも、ボディーが付いていなければ何の自動車か解らないくらいマグロの解体ショーばりに(爆笑)、エンジンその他あらゆるパーツを利用/工夫した軽自動車ベースのレースカー造りが盛んだったのは偉大なことで、やがて国際規格のイベントに参加するマシンが生まれる土壌が育っていったんだね」
----その軽自動車の“ミニカー・レース”は、個人的に大好きでしたし、確かにそういうことですね。このストーリーで街のコンストラクターの話が度々出てきますが、よくよく考えればフォーミュラカーは何もかも手造り、市販車から流用できそうな主要部品は軽カーの改造ならなんとかありますけど国際格式のフォーミュラマシンとなれば難しい。
「そうなんです。ボクの1970年JAFグランプリの失敗も、ようやくブラバムF2シャーシーが確保できた、後はエンジン載せればOKね、なんてタカをくくっていたんだね。仮にエンジンが搭載できて走り出したとしても、シャーシーとエンジンの重量バランスが目茶苦茶だったり、ドライバーシート後ろのエンジンを冷却しきれなかったり、まあトラブル山積だったでしょう」
----そこで心機一転、70年JAFグランプリから71年日本GPへの一大転機が(笑)。
「どうも編集屋は大げさなんだよなー(爆笑)」
----あはっ、でも参加リストをみれば、ブラバムにアルファロメオとか、何か凄っそうじゃないですか、やっと本気のような(笑)。
「いつもホンキですよっ! 気持ちばっか先走ってね(笑)。
----こいつは失礼いたしました!!(笑)。
「その話になるとね(笑)。正直言ってフォーミュラカーって何なんだろう、やはり、これは自動車じゃなくて“マシン”なんだってことが、如実に解ってきたんですね。要するにブラバムやロータスのような百戦錬磨の経験から造られたシャーシー(車体)にはそれに見合ったエンジンでなければダメだ、ということです」
----フムフム。
「コスワースチューン始め、ロータスチューン、タスマンのワゴット、この時代以降にジョン・ジャッド、ブライアン・ハート、ジョン・ニコルソンなどの名チューナーが続々生まれたように、日本にはまだまだ国際レベルのレースに対応できるエンジンや足回りのパーツなどなど不足していてね。もっともフォーミュラジュニアのように、その国・地域で発達したカテゴリーには、それなりの特異な技術もありましたが。市販車ホンダのエンジンを高度にチューニングしたヨシムラ・エンジンのようにね」
----やはり、そうなってしまうのですかー。
「この時代はまだまだそうですよ。恥ずかしながらボクが優勝候補の一人に上げられた1970年のJAF GPのFJクラスに使ったシャーシー・ブラバムBT16は基本的に欧州で栄えた1000cc用のF3シャーシーですから、606ccのホンダS600のエンジンを598ccなどに無理矢理ダウンサイジングして載せたり。ボクとケンさん(故田中健二郎)のマシンがそうでしたが、ケンさんのはヨシムラさんが600ccで百馬力だって騒がれましたが、そういったのは日本独特のFJですから」
----それはNO.79で詳わしくお話頂いています。リキさんがフライングスタートして失格の。
「こっのー!はっきり言うんじゃねーの、今でも頭にきてんだから(爆笑)。それで、このブラバム ホンダ600をJAF GPから3カ月後の8月、すっかり真夏の祭典になった日テレのNETスピードカップというレースで走らせてね」
----NETスピードカップは、当時、グランプリに次ぐ魅力的なレースでした。
「ただ、このレース、富士スピードウェイの右回り一周6kmのフルコースではなく左回りの4.3kmコースでした」
----そのお話は次回ということになりますが、一口にフォーミュラカーでGPとなっても、それに見合うマシンを増やすのは大変なようですね。
第八十六回・了 (取材・文:STINGER編集部)
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