フォーミュラカーによる日本グランプリ路線に伴って、FJ600で感触をつかんだリキさんは、次のターゲットを1600ccのアルファロメオのパワーユニットを搭載したブラバムでのJAF GPに定めたのだが、その前に歴史に残るチャレンジを思い立った。海岸沿いの金網に囲まれたチャレンジングなレースとして注目を高めていた東洋のモナコ、マカオGPである。
◆新天地マカオGP
----マイカー社会の基礎作りになった日本独特の軽自動車は、エンジンの排気量が、2cycle=200cc、4cycle=300ccから始まり、1953年に360ccに統一されました。
その後、高速道路の普及に伴って、1975年には550ccに拡大、1989年に現在の660ccになります。軽自動車ベースのマシン作りが入ってきたことで、レースの世界に底辺が一挙に厚くなり、その勢いが日本GPのメインレースがフォーミュラカーに移行するきっかけになって、ミニカーレース隆盛が、日本のレースの流を変えました。
「そうだね。広大な富士スピードウェイのコースショートカットや、鈴鹿サーキットの西コースなど、主催者の工夫でサンデーレースが広がって、新たな形が生まれた。その流れは、それまでのメーカー主導型の構造から、広く参加者の多いカテゴリーへの改革につながってゆき、日本グランプリのメインクラスは、フォーミュラカーF2規定に沿うものへと整理されてゆくのです」
----その新たな流れは、エンジン排気量2000ccまでのフォーミュラカーによる1970年JAF GPとなるわけですね。その中にミニ・フォーミュラマシンのFJ600というクラスが新設されていました。
「FJ600がGP以外のイベントでも拡がってゆくものと期待されるのですが、GPから一年も経たぬ間に500ccに変更されてしまってね」
----フォーミュラカー普及に熱心だったリキさんとしては、してやったり、ですね。
◆瓢箪から駒
「まぁ、そんな簡単なものじゃないけれど、瀧レーシングから譲ってもらったブラバムBT23Cに日産フェアレディーSRのエンジンを積んで JAF GPに賭けたけれど、うまくいかなかった。やはりコスワース・エンジンなどを使わなければならないのか、と思案に暮れていたところに、アルファロメオのレーシング・エンジンを使ってみないかという話が飛び込んで来てね」
----フェァレディSRのエンジンで、春のJAF GPから半年後の1970年マカオGPに勝負を託して着々と計画した、前回はここまで伺いましたが、さてこの先は、どうなるんでしょう?
「ハナシを突っ込んでくる方は気楽でいいねー(爆笑)。前置きが長くなったけど、日本のレースクラスのトップがようやくフォーミュラカーになったのは、日本のレース界にとってフォーミュラカーが最高の方針との論者だったから、ボクの期待が実って、ボク自身もフォーミュラカーに身を入れなければならない、という強い気持ちに変わりましたね」
----その新たな気持ちの表すのがこの1970年のマカオGPですね。リキさんは、すでにこの時、マカオの経験は長かったですから、特別な思いはないように思いますが。
「ええ、マカオのレースは1965年にトライアンフスピットファイヤーでGTカークラス、1966年はGPクラスのダイハツスパイダー、1967年はGPクラスのホンダS800、1968年はGPクラスのホンダ・ワールド、1969年はGPクラスのブラバム・コルトで参戦していますから、今度は6度目ですから、参加への手順や準備など物理面では特段目新しいことはありません」
----なるほど、最初は英国のスポーツカーから始まって、いずれも市販スポーツカーでの参戦ですが、1969年、今お聞きしていますストーリーの前の年、日本がフォーミュラカーレース路線を走り出す半年前になりますから、着々と準備されていたんですね。
「おっと、そんな余裕ある話じゃなくて(笑)、偶然なんですよ。なぜかとなれば、トライアンフの時は日本が2度目のGPでメーカー同士の熾烈な争いを引き起こし、多くのメーカーがレースでの勝敗に血まなこになった動きから日本GPが中止になっちゃって、それなら海外のレースに出よう、という熱い情熱をお持ちの金原達郎さんというスポンサーが現れて、そのチームにボクが呼ばれ、クルマがトライアンフだったのです。
----そうなると二度目のダイハツも?
「これも、日本でレースが始まったことから香港のダイハツデーラーからマカオへの参加要請があって、ボクがマカオの経験者だったからでしょうねダイハツ・チームに呼ばれて助っ人で(笑)、だからボクがクルマを選んだわけじゃなくてね」
----やはり、助っ人なんですね(笑)でも、その次はS8(エスハチ)ですから。
「いえね、ホンダS800のレースチューンが盛んになって、エスハチに滅法惚れ込んだ彼が、カリカリにチューンしたボクのエスッパチをマカオで走らせたい、というので助っ人てすね。何だかんだボクがこのクルマで走ってみたいという思いが実現し始めるのは、ブラバムシャーシーを入手してからなんですよ。それで、いつまでも助っ人や雇われドライバーでいたんじゃ自分が望むレース活動なんて出来っこない、という考えから、自分のレーシングチームを持たなければダメだなー、でリキ・レーシングを発足させるのです」
----そうなると、スバルのワークスを経てブリヂストンタイヤのテストドライバーや助っ人ドライバー、自動車誌のテストレポートなどしながらのレース活動では、いろいろな制約があってリキさんなりの活動は難しい。
「まあそうゆうことですが、ボクは日本で初めての自動車レースからこの世界を見ていて、ちょうどマイカー時代が始まった頃だから、各種の週刊誌やホビー雑誌にレース記事が多かったし、ファンも激増していってね。それは有り難いことだけど、段々とレース界の構造が知られるようになれば、“速いマシンなら勝てる・速いマシンに乗れるにはカネがなければ、要するに自動車レースはカネがなけりゃできない”という見方が、レースへの嫉みやひがみ、偏見にもなってきてね」
連続参戦していたリキさんが、いよいよ、フォーミュラカーでマカオGP参戦を決意した。写真は、2016年。
◆フォーミュラカーの時代
----そうなのですね、私も日産、トヨタなどのビッグマシンに対抗するために、外国車でプライベート・エントリーするような状況を見て、この人どんな仕事しているんだろうという興味がありましたから。
「そうでしょうね、素性の解らないヒトっていうとへンだけど(爆笑)、確かにいましたが、中には商売でたまたま大金儲けちゃってレースにつぎ込んだ人もいたね、誰って言わないけど(笑)」
----アハハ、そうなのですね。
「例えそうであっても賞金も薄っぺらな日本のレースじゃ見返りもありませんから、それが出来る人って凄いですが、そうそう何人もいない。殆どは商売を犠牲にする、親の資産を当てにして最後は勘当されたり(笑)、ホントそんなの結構多かったのですよ」
----ビッグマシンになれば数千万、億単位も珍しくないですね。
「グランプリを筆頭にそういったクラスは人気があって、レース主催者からすれば観客を集めやすいけれど結局は長続きしなかった。ただ、ボクはこう見ていたんですよ」
----ほほー、リキさんなりの見方?
「この時代、日本でレースが始まって10年も経っていないのに、欧米でもレースがどんどん盛んになって新しい種目が生まれたり、従来からあるカテゴリーでもスピードやコーナーリングが一層迫力ある走りになるような車両規定のレベルアップ、これらは自動車を構成する各種部品(パーツ)の進化に伴うこともあるのだけど」
----例えば、短い距離で停まれるブレーキ、コーナーリングが格段にアップする足回りの部品などですね。
「そうゆうことです、市販のツーリングカー、GTカーをベースのカテゴリーでも、そういったチューニングパーツの進化でメーカーの技術を超えた性能になっていくのですが、それに伴いコストも上がってしまう、まあイタチごっこなんだけど」
----レースに限らず全ての競技・スポーツはそれなりのカネがかかりますが、どうしても突出した面も出てくる。その一方で、ある程度のコストでマシンが作れ、またマシンの平準化も目指したカテゴリーも生まれる。
「そう、そうです、その代表が日本では、軽自動車の“ミニカーレース”、欧米で人気のフォルクスワーゲンの空冷エンジンと足回りを活かした“フォーミュラVee”など、いわゆるモーターレーシングの裾野を広げる部門が誕生し盛んになり出したのは嬉しい動きでした」
----市販車をベースのカテゴリーとはまったく別個のミニカーレースのマシンは、正にフォーミュラカーの原点を形作るものですから、リキさんのFJ600への取り組みもこういった流れに関係するようですが。
◆助っ人から夢の実現へ
「ええ、そうかもしれません。先の話で、ボクのレース活動はよくよく考えれば殆どが雇われ・助っ人ドライバーでのこと。そりゃあ、自分の思い通りのマシンでレース出来るなら良いだろうなー、の思いは常にありましたけれど、レース環境はどんどん変わり、それに対応できるかどうか、どう考えても今の立場では難しい」
----スポンサーの問題とか?
「スポンサーというのは、それなりの成果を上げるだろう、という期待を持たれる活動をしないと援助はしてくれない。ボクが中心のチームを作ろうと思っても実績がない所への援助なんかあるわけない、さりとて家庭事情から親の資産を当てにできる立場でもない。そんな情況ながら、一方では“カネがなければレースはできない”の考えを、“本心からレースをしたいなら、こうすれば、この程度のレース活動はできる”といった見本と言うにはおこがましいが、何かの手引きになるような体制を作りたくなっていったのです」
----なるほど、今までリキさんがやってこられた内容とはまったく別の目標で。
「目標と言えるかどうか、端的に言えば、以前からボクのレースを手伝ってくれる仲間を集めて収益上げられる会社を立ち上げ、そのカネ(資金)で運営出来る範囲のレース活動をする、ということです」
----ほほー、どういった職種の会社なのですか?
「一番先に友人から頼まれたのは外国製オイルの卸し元でした。それから二輪四輪自動車の修理、自動車ショーなどの展示に使われる二輪のショーモデル制作、JAFの加盟団体になってB級ライセンスの講習会などですが、何をするにもカネは必要ですから少額でも良い日ゼニが入る商いが必要と考えスナックを始めましたね。スナックといっても単に軽食や飲み物を提供するのでなく、サーキットをデザインしたテーブルやバカ太いスリックタイヤ改造のテーブル、大型のレース光景のパネルなどレースレースぎちぎちの雰囲気だした店内が評判となり取材も多く、これは当たりました」
----随分手広い業種で資金も大変だったでしょう。また、そうお伺いするとFJやフェアレディーSRエンジンのフォーミュラカー試作の時期と符合しますね。
「この構想は数年前からボヤーッと考えていましたからね、でも先立つものは資金ですが祖母や兄の支援や懇意にしている銀行の援助もあって大方考えていた形になりました。それとフォーミュラカーですが、日本のGPクラスがフォーミュラカーになっていく方向から基本はこのカテゴリーになりました。元々ホンダF1の影響もありますが、ボクは第2回日本GPでエキジビション・レースのフォーミュラカーを見て、いつかはボクもこんなレースに出たい願望や、マカオや他の地域のレースでフォーミュラカーレースが盛んなのに刺激されていましたから必然的にその方向になりました」
----そして、1970年11月のマカオGPに参戦となる。
「いつまでも助っ人や雇われドライバーでいたんじゃ自分が望むレース活動なんて出来っこない、という考えから自分のレーシングチームを持たなければダメだなー、ということでリキレーシングを発足させるのです」
----ふむふむ。
「後にコンストラクター童夢の創始者になる当時マクランサの代表だった林ミノルさんから、アルファロメオの1600ccエンジンを譲り受けて載せることになったんです」
----お〜っ、そうだったのですか!!
「エンジンの入手時期と、年内にフォーミュラカークラスがありませんからマカオになるのですが、考えてみれば、ボクの考え・方針が中心となっての参戦体制はこれが最初でした。何回かマカオGPに出ていく内に“ここのレースで総合優勝するにはどんなマシンでどのような体制なら可能なのだろうか”、というような考えが段々と強くなりだしましてねー」
----描いていた夢が実現に向かうわけですね。
「現地の友人からも、“リキには勝てるテクニックがあるんだからF2くらいに乗らなきゃダメだよ”、などのおだてもあってね(笑)、前年に香港で中古のロータス41を仕入れたもののヒドイ代物だったけれど、そんな経験もしていたから、今度は万全、といっても優勝には、後1〜2回かかるかなー、という気持ちでしたねー」
----そうだったのですね。次回は、初めてフォーミュラカーで挑んだマカオGPの様子をお願いします。
第八十八回・了 (取材・文:STINGER編集部)
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