リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第92回
本格的フォーミュラカーレース幕開け!

広大なコースとビッグマシンというインパクトで自動車レースを新たな世界に誘う役目を果たした富士スピードウェイの日本GPは、三菱の参戦で本格的なフォーミュラ時代に向かい始めた。本場ヨーロッパの前に、マカオGPに続いて焦点が当てられたのは、オーストラリアとニュージーランドの“タスマン”だった。

◆国産の新F2マシン登場!

----いよいよ新たな日本グランプリが始まりましたが、リキさんも参加の立場から、参加者=ドライバーとして、この時をどう受け止められたのでしょ

「そうですねー、、、やっとここまできたかー、はぁーって感じ(笑)」

----いろんなことがありました。

「いろいろあったからねー。ただ参加ドライバーの立場では、前号でも述べていますが、今度までは1600ccのF2が主流で最後ではないかと思ったら、早くも新規定に移行の2000ccが意外に多いことが一つ、もう一つは半年前のマカオGPでオイル漏れでリタイヤしたエンジンが想像以上のダメージの不調で、最初から戦意喪失、なんてこった!だねー(爆笑)」

----あはは、意気消沈しないでお話下さい(笑)。

「まっ、気を取り直して(笑)。まずは、ビッグマシンの日本GPが滅びる陰で、フォーミュラカーレースが着々と育ち、この先の国際化を見据えた内容になりました」

----国際化への見通し、というのはどのような意味でしょう?

「フォーミュラカーが、それまでの日本GPの陰になっていたような存在から、JAF GPの名称で日本のレースの二大イベントになっていきますが、まだまだ台数が少ないフォーミュラカーの参加台数を増やすには、日本独自のシステムにしなければなりませんから、エンジン排気量を3000ccまで拡げたフォーミュラリブレといった特別なカテゴリーになりました」

----はい。

「その結果、2500ccのフォーミュラカーが盛んだったオーストラリア中心のタスマンシリーズ戦のチームが参加出来る内容でした」

----確かに、フォーミュラカーレースとなればニュージランド、オーストラリアのチームが、要するに“タスマン・シリーズ”が当時の日本では広まり始めていました。

「そうです、彼らが参加してくれたお陰でフォーミュラカーとはどんなものか、日本のファンの認識を高めた影響は大きいですね」

----私も、その影響を受けた一人です(笑)。

「だからといって、いつまでも日本独自のレースで は国際的なイベントには認められませんし、欧州からの参加も見込めません」

----そこでJAF GPから日本GPへの昇格を機にレギュレーションも一新されたわけですね。

「その通りで、やがてF2エンジンが2000ccになるのを織り込んだ規定にしたのです。でも1600ccのF2がまだ根強いことから、1600ccのGP1、1601〜2000ccのGPⅡの混走ですが、やがて国際規定が変わるのは確実ですし、逸早く2000ccエンジン開発を行なっていた三菱コルトは、やる気満々」

----希望は全車2000ccフォーミュラカーの方が見栄えは良いですが、実現はもう少し先ですね。ただ、混走といっても5000ccのモンスターマシンに混じって、850ccや1000ccも走っていたのですから(笑)、それに比べればマシンの性能差は小さいことになりますね。

「ええ、現行の1600ccのF2は、市販車エンジンがベースですから、性能上は頂点に達しています。それに対し、市販車エンジンのどこをどうチューンしても良いといった規定がまだ不確定でした。チーム/メーカーそれぞれの2000ccですから想像以上の高性能なんです。下記の予選結果を見れば、僅か400ccの差ですが、1600と2000ccでは違いますらね」

日本グランプリレース予選結果(1971年5月2-3日)

----ドライバーは6人がタスマン勢、日本からの参加が14人と、従来より増えましたが、前年のJAF GP優勝のジャッキー・スチュワートなどの欧州勢が見えないのは残念でした。

「そうですね、ただ5月は向こうもレースシーズンに入った時期でもあるし、また新F2へのマシン規定が不安定なこともあるのでしょうか。それに対し南半球のタスマン勢はレースシーズンがOFFになる時期ですから、日本には来やすいという利点があったと思います」

----なるほど。

「そのタスマンの4台は、新F2用にオーストラリアのミルドレン・ワゴットが開発した1990cc、2台の三菱コルトは新たに開発の1994cc、ともに2000ccF2を先取りしたマシンが6台です」

----ミルドレン・ワゴットという響きが、なんだか凄くレーシングに聞こえたのを覚えています。

「それに英国で活動中の生沢徹が、1600ccエンジンを可能な限り排気量アップしたロータスの1790ccを持ち込み、タスマンのグレアム・ローレンスも同じ1790ccで挑みます。まあ、こういった苦肉の策で新F2に対抗したワケですが、永松/益子/マックス・スチュワートの2000ccのF2に1秒遅れで食い込んでいますから、興味は高まりました」

----今や旧F2と言えるのでしょうか、数多い1600ccF2の中で、風戸裕は1600cc群を抜いて速いですね。

「彼のマシンは、新型のブラバムBT30シャシーに三菱の1600ccエンジンを搭載したもので、前年のJAF GPで、三菱コルト勢でワークスとかけ離れたタイムを出した生沢と同程度の走りです。田中健二郎も昨年のバリバリの三菱ワークスマシンそのものですが、風戸との差が大きいのはシャーシーの違いや旧型には充分なメンテナンスが届かない悲哀(笑)や、22歳の風戸に対してケンさん(田中健二郎)は37歳ですから、まぁ何の不思議もありません(爆笑)」

1971年日本グランプリのスタートシーン写真

1971年日本グランプリのスタートシーン。
ポールポジション(右端)は、永松邦臣の三菱コルトF2D。

写真協力:牧野弘文
くるま村工房」 「 くるま村の少年たち

----2000ccクラスには変わったマシンがありますねー。

「ああ、粕谷君のブラバムBT16にマツダのロータリーエンジンを搭載したマシンですね。ロータリー・エンジンは、排気量換算で、2000cc弱になるんですねー。他にも、110サニーに搭載されてその後大活躍する1254ccの日産A12エンジンとブラバムシャーシーを組み合わせた桑島君のマシンなど、新たな日本GPになったといえども、いろいろ工夫された手造りマシンが活動できる内容のイベントでなければなりません、結構なことですね」

----三菱は、旧型1600ccエンジンのコルトF2Dを進化させたマシンで登場かと思っていましたが。

「ボクもそう思っていたし、多くのファンも同じ思いだったでしょう。1年前のJAF GPで、永松が辛うじて3位に入りましたが、J.スチュワートの1800ccや、タスマンのM.スチュワートの2000ccとの大差を知ったのでしょうが、レース途中でリタイアした生沢も、予選でJ.スチュワートに1秒未満の肉迫ながら、絶対的なハンディを痛感したのでしょう」

----そうなると、1年後の1972年でF2が2000cc規定になる先取りがあっても、日本GPの制覇には2000ccでなくてはならない、と。

「そうゆうことでしょうね、でも、一年足らずで仕上げたのは、長年フォーミュラカーに携わってきた開発力なんでしょうね。エンジンは元よりシャーシー他いろいろ、まあ旧型のコルトF2Dの発展型ではなく、まったくの新開発ですが、このマシンは来年からの新F2車両規定にあてはまらないのも事実なのです」

----ええっ、新規定のF2とは別のマシン、ということですか!?

「厳密にはそうなってしまいます。即ち、F1を除くフォーミュラカーは可能な限り普及し易いカテゴリーであることから、市販車エンジンやその構成パーツをベースにすることで進んできました。新F2も、エンジン主要部分であるブロックは市販車のものとされていますから、純レーシングエンジンの『三菱F2000』は、フォーミュラリブレ(自由型)ということになり、この日本GPのエンジン排気量2000cc以下ならOKに該当するマシンなのです」

----ははぁ、そうゆうことなんですか、そうなると三菱F2000は日本GPのために開発された専用マシン、ということですね。

「そうなりますが、仮に三菱がF2の欧州選手権に参戦となれば、それなりのマシンを開発するでしょうから、難しく考えることもないのです。カテゴリーは違いますが、モンスターマシンの大馬力レースは何でもありーっ!!でしたから(爆笑)」

----安心しました、フォーミュラカーレースというのは車両規定もカチッとしていて、なんかこう、お上品な雰囲気を感じるものですから(笑)。

「何がお上品なもんですか、どんなレースの内側だって汚ねーことばかり(爆笑)。まあ自虐的なことは置いといて(笑)。そういったことですから、自動車メーカー開発のバリバリのワークスマシンというのは、前年の1600であれこの年の2000であれ、三菱コルトだけの話で、まあ、風戸のマシンは三菱1600であってもシャーシーは彼のブラバムだから別物でしょうが、タスマンドライバーのマシンは何れもコーチ・ビルダーやエンジン・チューナーの手によるものですし、生沢のロータス69コスワースFVCだって、歴としたプライベートマシンです」

----そうゆうことなんですかー、そうなるとワークス三菱はなんとしても負けられないことになりますね。

「そりゃそうですが、予選タイムを見ればお解りのように、ポールポジションの永松だって安閑としていられないタイムですが、何かケチつけたがるパドック雀らは、三菱が勝つのは当然だくらいのこと言いますから(笑)まっ、気の毒で(笑)」

----フォーミュラカーによる初の日本GPの背景、よーくわかりました。それで決勝はどんな状況だったのでしょうか。

「1971年5月2日が予選、決勝は3日、前年もこの日はJAF GPで、5月の連休はGPと決まっているようになって、毎年、天候に恵まれるけれど、この年は結構寒くてね、まあエンジン冷却には都合良いけれどボクのマシンはまたダメでねー」

----そうでした、リキさんもエントリーされていますね。

「エントリーしていましたねー、って、何か付け足しのような(爆笑)。簡単に説明、いや負け惜しみ(笑)すれば。このGP半年前のマカオで、3位走行中に、突然の白煙オイル漏れでリタイヤの話をしましたが、帰国してアルファロメオのエンジンをバラしたら、ピストンが軽い焼き付きで、急遽イタリアに部品発注したけど中々送ってこない。当時はメールも電話FAXもなくて連絡の手づるは国際電報やテレックスだから、真意が伝わらない。受け取ったパーツはサイズ違いで、やむを得ず国産パーツ探して取りあえず動くまでにしたけれど、全然ダメ」

----ウーム。

「マカオの前、富士スピードウェイでのテスト走行では、1分55秒くらいで走れたのが、この予選では2分も切れず、決勝スタートしたものの早くも白煙ふき出して35周の決勝を27周しか回れず13位でおしまい」

----お気の毒でー(笑)。結局、三菱コルトF2000の永松邦臣、益子治がワンツーフィニッシュ、GP1クラス優勝も、風戸 裕の三菱パワーで終わりました。

「そうでしたね。結果は大方の予想通りか当然か、三菱の面目躍如たる戦いだったでしょう。1966年の1000ccの三菱F3から、一貫してフォーミュラカーの開発・普及への姿を形で表してくれた、ということでしょう。特に大馬力、大柄なレーシングカーでなければ迫力に欠ける、といったスピードレースへの認識を大きく変えましたね。因みに1969年グループ7による日本GPの優勝記録は、優勝した黒沢元治の6000ccのニッサンR382の予選タイムが1分44秒台、優勝スピードが194.28km/hでしたが、1971年のフォーミュラカーでの日本GP優勝の永松 邦臣の2000ccの三菱コルト2000は、予選で1分48秒台、優勝スピードが195.26km/hでした。120周と35周の違いはあれど、速さと迫力では見劣りはまったくなく、“フォーミュラカーでの日本GPは見劣りするのではないか”、という懸念は完全に払拭されたでしょう」

日本グランプリ決勝結果(35周)

※編集部より 本稿取材対談中に、筆者の大久保さんが、浅間時代から苦楽をともに闘った高橋 国光さんの訃報が届きました。日本のモーターレーシングの一時代の象徴として、憧れの存在だった高橋国光さんの逝去を悼み、追悼の意を表すとともに、心からご冥福をお祈りいたします。合掌。


第九十二回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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