リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第95回
第95回 サポートレースに強豪集中(2)

1972年日本グランプリは、本来サポートレースのポジションだったはずのTS、GT、フォーミュラ・ジュニアが盛り上がったことで、メインたるべき『GPレース』が寂しいものに見えた。国内最高峰の“グランプリ”は、新機軸を標榜したものの、フタを開けたら、違う展開を見せたのだった。

----50年前は、メインに対して“サポート・レース”という言い方が一般的でしたが、1972年日本グランプリは、メインイベントのGPクラスが精彩を欠いて、メインとサポートがまったく反対の様相を見せました。

「“サポート・レース”の中身が濃かった、いや、濃すぎたね(笑)」

----ということで、その濃かった内容をもう少し掘り下げたいと思います。

「編集長は、サポート・レースの方が“メイン”だったようですね(爆笑)」

----おっしゃる通りですが、分かりやすさで、スタンドが沸いたレースでしたから。

「なるほど、そういう観方もあるわけだね」

----ええ。ところで、これまで富士と言えばバンク付きの6kmフルコースでしたが、なんとなく弱々しいというか、大人しい響きに聞こえてしまうのは、4.3㎞ショートコースへの変更が原因だったのでしょうか?

「その前年(1971年)に、フォーミュラカーによる日本GPが発進して、その先のGP路線が敷かれたというような内容から、早くも脱線する内容に一転しそうなのは何故なんだろう。このレースに実際に身を置いたボクですら不安になりましたよ」

----お〜っ、実際に参加したリキさんでもそんな思いがあったのですね!

「まあ成績は論外として(笑)、今、ジャーナリストの立場で、改めてあの時を振り返れば、前号でも72年GPの不況には三つか四つの原因が考えられると述べましたが、その大きな要因は何といってもレース活動から排気ガス対策が急務になった環境と、メーカーの事情が一番大きいでしょう。もう、ライバルが3000ccターボならこっちは5000ccだ6000ccだなんてつばぜり合いしちゃあいられませんから」

----う〜ん、確かに。

「そもそもレーシング・エンジンの開発は、“少ない燃料をいかに効率よく燃焼させ不燃焼ガスを排出しないか”、これが基本ですから、レースとは無関係ではないのだけど、ガソリンがんがん使う無駄遣いのように見られちゃう。こういった辺りの見せ方がなってないし、レースの高度な構図を理解してもらう解説が無いんだよっ! だから、排気ガス公害だとなりゃ慌てて一生懸命取り組んでいる格好つけて、レースばっかやってませんよ、を強調しだすのよ、フンッ!(爆笑)」

----レースにうつつを抜かしているわけじゃあないですよー、と。

「そうはいっても、企業の維持は自社製品が売れることですから、市販車の優秀性を誇示するレースまで中止はできませんよ。まして、日産は、フェアレディやスカイラインが、そしてトヨタはセリカが、マツダはロータリー・エンジンの勢いが一気に噴き上げた時期でもあったから、その内容がレースにはっきり反映されているのです。だから激戦のレース、ギリギリ勝負の結果がそれを表しているのですよ」

----そうですね、そういうバックボーンから、各ワークスチームはサポート・レースにトップドライバーをどーんと導入して凄まじい先陣争いになったのですね。

「そうゆうことです。それに比べてGPクラスはねー、、エヘヘ(笑)、幾らサーティーズさんが参戦といったって彼一人で盛り上がるわけがない。GTやTSの迫力にはとても適わねー、てのは当然だねー。ただ、そういった激戦になるだけの背景があったから、という解釈では往年の血みどろな市販車レース合戦の再現に取られてしまいますが、それは誤りです」

----えっ、どうゆう意味ですか?

「さっき、ワークスドライバーをどーんと導入って言いましたが、ほんの数年前、彼らの中には一周6kmのフルコースを1分44秒台、平均速度でいうと194km/hで走っていたドライバーもいた。それが、モンスターマシンの最高速度より100km/hは遅いTSやGTのハンドル握るんですから、そりゃバトルになるのは当然で、その辺をファンは良く知っていましたから富士へ押しかけますよ」

30度バンク

ロータリー・エンジンを搭載した駿足マツダRX-3(サバンナ)と熟成され尽くした日産スカイラインGT-Rの闘いは、メイン・レースを食うほどの激しさでスタンドを揺るがせた。

----大馬力マシンに比べれば改造市販車なんかお茶の子さいさい。

「おっと、それは言い過ぎだよ(笑)、ワークスだけでなく熾烈な予選を通過して決勝に進出したドライバーの集まりだから、そんな単純なことじゃないよ(爆笑)。それと、マシンは市販車ベースだから、一台数億円と言われるモンスターマシンと違って補修パーツも充分なはず、マシントラブルの面での精神的な負担も異なるしね」

----市販車ベースといってもワークスが手がけるマシンですから、やはり、それなりの運転技量高いドライバーでないと。

「その通りですね。台数も限られたモンスターマシンでは、いくらワークスドライバーといったって少数の精鋭で占められてしまうし、出番が少なかったワーク・スドライバーにとっては、それーっ!!とばかりのTSやGTに参加のチャンスですよ。ツーリングカーとフォーミュラ・ジュニア、両クラスに優勝の片山 義美(故)の活躍なんか良い例です」

----お〜っ、そうでした! TS-bクラスで日産のエースドライバー高橋国光(故)/北野元/長谷見昌弘ら無敵艦隊の名を欲しいままのスカイラインGT-Rに対して、片山を筆頭のマツダサバンナのロータリー勢が挑む、という図式も、我々ファンにとって非常に分かりやすくて、役者がそろっていました。

「こういった環境の元で、GPクラス以外は大盛況になったけれど、クラブマン・ドライバー達で普及されてきた市販車ベースのクラスが、またもや往年のメーカー対抗になってきた側面はあるね」

----そういった流れになるのか分かりませんが、基本的にワークスの立場になると参加できるレースへの制限もあるのではないでしょうか。

「日産と契約中のドライバーがマツダに乗るなんてこと、あれば面白いけれど(笑)常識的にもあり得ないし、一応の制限があるワークス・ドライバーの環境変化もありますね」

----環境変化といいますと?

「モンスターマシンの瓦解(がかい=屋根の一部が崩れると、その余勢で組織全体が崩れること)は、サーキットの集客減になり、メーカーの排気ガス対策はレース活動の収縮というレース界の不振をフォーミュラカーによる日本GPで牽引&普及するのは難しい、と考えたのは、富士スピードウェイそのものだったでしょうね。これにもGPクラス不振の大きな要因がありますね」

----なるほど。少しわかった気になります。

◆“グラチャン”の発祥

「メーカーや、有力プライベーターだった瀧レーシングなどのレース界撤退で、コースオーナーである富士スピードウェイにすれば、観客を呼べるイベント、即ち日本GPとは別の富士独自のレース主催が急務という考えが出るのは当然でしょう。そういった構想が基盤になって、この1972日本GP開催の一カ月前に、富士スピードウェイ主催の富士グラチャン・シリーズ(GC=グランチャンピオン・通称“グラチャン”)第一戦が始まったのです。このGC、300㎞耐久や、スプリントなど、年数回開催のシリーズ戦で当初は排気量無制限の単座席レーシングカーによる新たな試みでした」

----私が夢中になったグラチャンの最初がこの時だったのですね。最初は、モンスターマシンの迫力からすれば、もの足らなさを感じるのではないかと心配していましたが、そうならなかったのがとても嬉しかったのを覚えています。

「因みに1972日本GPに、たった4台しか参加しないRレースというのがあって、ボクも、何だこりゃ!って思いましたが、これは動き出したGCシリーズを告知したのだろうと気づきました」

----なるほど。

「4台のマシンの内、前年に三菱製のフォーミュラカーで優勝した永松邦臣が、フォーミュラカーの車体をグループ7風ボディーで覆い、三菱F2エンジンを積み、ドライバーは真ん中に位置した構造、これが後のグラチャンモデルといえるマシンで参加していますが、このシリーズのエンジンも排気量無制限からやがて2000ccになっていきます」

----最初は、7000㏄のマクラーレンM12や、F1で活躍したフォードDFVを積んだローラT280などのニューマシンが楽しみで、そこに“ワークス・ドライバー”がどんどん参加するようになって、1戦ごとに盛り上がっていくのが、手にとるようにわかってワクワクするレースが続きました。

「そこなんですよ大事なことは。やはり日本のファンは往年の二座席グループ7カーが好きなんですねー、これに触発されたかのように大きな人気になって、メーカーの銘柄色が薄いこともあったのでしょう。多くのワークス・ドライバーが自らのチームを作ったり、資金提供のプライベートチームも急増し、一時期は『グラチャン・ブーム』ともいえる盛況が社会的問題にもなりましたが、いずれにしてもワークスドライバーが進出できる環境に変わっていくのです。この試みは年に何戦もあるシリーズ形式ですから一回きりのGPより深い体制のチーム活動ができますから協賛社(者)も増えていきレーシングビジネスの層も厚くなっていき、GPへの影響も大きくなっていきました」

◆ジョン・サーティース

--------そうなると、新たな日本GPへの参加が期待できなくなりませんか。

「仰るとおり、この1972GPには鮒子田寛、田中弘、高原敬武などの新しい勢力の参加を見るようになりますが、この時点で、F2が、世界的に2000cc規制になることは明確になったものの、エンジン・ブロックは市販車のものを使うやら、いや、ワークス一品物でも良いのでは、などなど、細部への規定が滞って、これじゃ参加者はF2に手を出せませんよ。車体の方も燃料タンクの安全性を重視したマーチやサーティースなど新たなビルダーも増えてきたのですが、エンジン規定の紛争が続いていては手の出しようもありません」

「そんな情況もあってフォーミュラマシンによる2回目の日本GPも参加者が少なく精彩を欠くのですが、唯一の救いは、フォーミュラカー車体構造に新たなセーフティー構造を取り入れた特筆のマシン、それを操る大きな大きなドライバーの参加でした」

----リキさん、珍しく嬉々として語られますね!

「そりゃそうでしょう(爆笑)」

---大きな方とおっしゃいますと?

「二輪の世界GPロードレースと四輪のF1両方のワールド・チャンピオンを獲得した英国のジョン・サーティースさんです」

----オーッ!!まさか、ですね。

「レース界の現役を離れ、F1とF2のチームを立ち上げ、日本のF2レース開催を機に、“ご本人製作のF2マシンを自らがドライブする”という、世界的にも珍しい姿を見せてくれることになったのです。しかし、というか当然、あったり前に結果は推して知るべし、と言う他ありません」

----リキさんがGP内容の悪さばかりお話しになりますが(笑)、サーティースが参加したことで、日本GPの面目躍如は保たれましたね。

「そうですね、ジョン・サーティースさんは尊敬に余りある方ですが、編集長は、彼や、このGP参加への特別な話もあるように聞いていますが」

----ええ、とても思い出深いレースなのです。次回は、私なりの話もさせて頂きつつ、そのメイン・レースのお話をお願いします!」


第九十五回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


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