前号では、元F1チャンピオンのジョン・サーティースが圧勝した1972年日本GPを解説したが、この年はマスキー法や、GP後にオイルショックに襲われ、良い面では富士グラチャンが始まり、レース界も混乱した。その中で3回目の日本GPがどう展開したかが気になるところだが、まずはそこにいたる導入部とも言えるバックボーンを知っておきたい。
----前回、前々回で日本のモーターレーシングの最高峰イベントとされる日本グランプリが大排気量のニ座席レーシングカーで行なわれてきた路線を、それまでのフォーミュラカーレースの頂点として、1971年からJAF-GPが、国内最高峰のレースである『日本GP』に格上げされ、その結果がどうであったか、71-72年の2回の内容を詳細に語っていただきました。
「そうですね、フォーミュラカー推進論者のボクには嬉しい限りですが、10年近く定着しているF2のエンジン規定の1600ccを2000ccに替えようとする本場欧州での足並みが揃わず、いつから2000ccになるのか不透明な情況に日本GPも振り回されました」
----結局、日本のみならずマカオGPを代表とする東南アジア地域や欧州でも1600㏄のままでの開催が多かったようですね。
「その通りです。ただ、2000㏄のどこが問題なのかとなれば、排気量の問題ではなく、1600㏄の市販車エンジンのブロックを使うなど、ベースエンジンは市販車のものであっても、どの部分を流用しなければならないとか、どこまでの改造はOKかなど、改造に適したエンジンを持つところ、改造規定に適さないエンジンしかないところ、両者の食い違いが大きいようでした」
----そういった背景で新旧F2マシン混走の日本GPになりました。
「その通りですから、1600㏄のエンジンしか持っていなかったボクなんか、来年は2000㏄になっちゃうんだろうな、エンジン買い換えるゼニなんかねーし困った困ったで(笑)。2000㏄になるのは仕方ないけれど、もう何年か先にしてもらいてーなー、ってところでした。レースは、マシンはこうあるべき、なんて言っていても所詮は懐しだい、信念は後回し、そんなもんだよ(爆笑)」
フォーミュラ路線が起動に乗り始めたちょうどその頃、富士スピードウェイでは、2000㏄エンジンを積むオープン2座席の通称グラチャンに人気が集まり始めた。
----信念とお財布、まあ財布の方が重い(爆笑)。
「編集長、ご明晰で(笑)。でもね、モンスターマシンのGPだった時は、トヨタvsニッサンって最初から見どころが決まっているレースに大金はたいた輸入マシンや参加台数増やす役割ながら邪魔者扱いされる軽排気量マシンのゴッチャごちゃよりか新旧F2の混走の方が遙かに洗練されているよ。まあ、ロードレースにはダイナミック、猛スピード、危機的格闘、轟音爆走、それぞれの魅力があるけれど、流れるような走り・息継ぎの間もない順位変動などの見る者を感嘆させる場面など、互いが車輪むき出しのマシンのフォーミュラカーレース特有な姿がありますよ」
----私はエンジンサウンドの咆哮や地べたを震わすビッグマシンの走りを見て、これぞホントのレースと感激したクチでしたが、その後、フォーミュラカー独特のスリムな走行ラインなど、今までと違う魅力を少しずつ知るようになりました。
「おっ、結構ですねー(笑)。ラップタイムが同程度のビッグマシンとフォーミュラカー、一緒に走らすと良く解りますよ(笑)」
----お〜、そんなことできたら面白いでしょうね(笑)。
「いやー、もーそんなレース見られないけど、ボクが行きだした1960年代中頃のマカオGPなんか1000ccのF3フォーミュラカーや5000ccのアストンマーチンGTカー、それに1000ccのロータス7、2シーター・オープンボディーの1500ccロータス23にジャガーEなどがごっちゃに走るのです。いやー最初はたまげたねー、というか笑っちゃうほどの走りや抜きっこで、エンジンの大中小にオープンやクローズドなどボディーの違いで、速い遅い強い弱いが丸見えでね。ああゆうのからレースって成長していったんだねー」
----いいなー、そうゆうの好きです! 参加されたリキさん楽しかったでしょうねー。
「いーや、ボクがあそこに取り組みだした頃には安全面からもだいぶ整理されちゃってねー、残念だったなー。おっとそんな話のコースミスじゃなくて(笑)、本格的フォーミュラカーレースになった1970年は、元F1ワールドチャンピオンのジャッキー・スチュワートが出場し、これを長年フォーミュラカーに取り組んでいる三菱が新規定になる2000㏄エンジンを開発して迎え撃つ構造で沸きましたね」
----大盛り上がりでした。
「翌1971年はタスマンからの参加も少なくなり、ようやく日本人ドライバー中心のGPになったようです。とくに三菱の永松邦臣選手は、前年にJ.スチュワートの1周ラップタイム1分49秒を約1秒上回る1分48秒の速さになったコルトF2マシンで経験深いタスマン勢に臆することなく同僚の益子治とワンツーフィニッシュを果たし、日本のフォーミュラカーレースへ躍進への期待が生まれました」
----そうでした、価値ある勝利でした。でも、スチュワートのエンジン排気量はコルトより小さいですから正確な比較は難しいでしょう。
「それはあります。スチュワートは新規定のエンジンでなく、フォード1600ccを精一杯2000ccに近づけた1800ccでしたから、コルトより排気量が200cc少ないのは大きなハンディだね。それを考えればコルトは1秒どころか2〜3秒速くなければいけねーのかなー(爆笑)」
----まあ難しいことは置いといて(爆笑)、とくに三菱自動車、日本のメーカーがフォーミュラカーに鋭意取り組んだ姿がありました。
「そう、ホンダのF1チャレンジとは異なる内容ですから。だから1972年は、もっと強力なチーム体制と進化したマシンでの参戦が見られるものと期待したのですがねぇ、ワークス参加でなく外部の有力なチームにエンジンを貸与することに留まってしまったのは残念でした。まあ、うるさいパドック雀の中には、サーティースが相手じゃあ、なんて失礼な連中もいたけれど(笑)、そんな単純なことじゃあナイッ!!(爆笑)。いずれにしても、フォーミュラカーレースもようやく日の目を見るようになったのではないかなー」
----三菱がかなりいい線いっている気がしました。
「ところが、車体からエンジンまで自前のフォーミュラカー開発に熱心な三菱にすれば、本場欧州の新規定2000ccF2エンジンがどんなものか、ウチのと比較できれば良いのだが、と思っていたでしょうが、1970年に優勝のジャッキー・スチュワートのフォード・コスワースのエンジンは1600ccをオーバーサイズにした1800cc、1972年優勝のジョン・サーティースのもやはりフォードベースの1800ccで新規定に沿って開発した2000ccと対決したことはありません」
----う〜ん、冷静にみればそういうことですか。ちょっと残念です。
「J.スチュワートが6kmコースで優勝のラップタイムと同じく、1971年の6kmコースで優勝の永松選手のタイムで比較すれば、永松(2000cc)はJ.スチュワート(1800cc)より約1秒速く、サーティースの優勝は4.3kmコースだから、これも比較にならず、結局はコルトF2のポテンシャルは、本場欧州で通用するのかどうか掴めない、ということだね」
----そうでしたか。しかし、そうした状況に揉まれて最初はどうなるかと思っていたフォーミュラカーが、急速にレベルアップしたということですね。
「ええ、その通りですが、次のストーリーになる1973年の日本GPでは、どこのメーカーも米国の排気ガス規制のマスキー法の厳しい基準を満たせない車は輸入させないことになって、排気ガス清浄化のエンジン開発が急務、レースなんてやっていられない非常事態になってしまいましたからねー」
----ちょうど同じ頃、富士スピードウェイでは、2000㏄エンジンを積んだ富士グランチャンピオン・レースも始まったりして、混沌とした状況でしたが、レースを取り巻く状況がさらに厳しくなってしまって、レースが生き残れるのかどうかが難しい中、1973年日本GPはどうなっていくのか、新しい話題でも生まれれば嬉しいですが。
第九十七回・了 (取材・文:STINGER編集部)
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