リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットⅡ

鈴鹿から世界へ

第99回
一気に高まるフォーミュラカーの安全構造

1970年秋のビッグマシンによる日本GPが突然中止になった原因は、米国の自動車排気ガス規制が本格的に始まる状況の中で、排気ガス浄化ができない車両は輸出も現地での販売も絶望なほどの課題になり、日本のみならず世界中の自動車メーカーは、超スピードの競争ごっこどころではない状況に追い込まれていた。 そのクリーン排気ガスへの技術開発に没頭する自動車界に追い打ちをかけるように、1973年末頃にアラブ原油生産国の輸出規制がじわじわと日本の社会生活に影響し始めた。物価高、物不足となるオイルショックが押し寄せ、辛うじて難を逃れながら5月に開催された日本GPだったが、自動車レースへの危機感が高まる中で最後のGPとなった。

◆フォーミュラカーの安全性

----前号では、さまざまな動きが広がって、やっとリキさん念願のフォーミュラカーレースに向かい始めた、ということでした。

「その動きの具体的ものを上げれば、ざっとこんな感じでした。

①F2エンジン排気量が1974年から1600ccから2000ccへの変更を先取りして1973年日本GPをフォーミュラ2000と呼ぶことになった。ただし、賞典はGP1=1600cc、GP2=20000ccとして、1600㏄の参加も可能とした。

②エンジン排気量の増大による新たなシャーシー造りもあるから、1800cc以上のマシンでの参加者(日本国籍者)に一台につき50万円の奨励金を交付することになった。

③FIA新規定の2000ccエンジンのブロックとシリンダーヘッドは、最小1000台の量産車のものだが、それに該当しない(例えば三菱F2エンジン、BMWなど)ものも参加可能とした。

という具合に、一見、“なんでもあり”に見えるけれど、肝心の新エンジン規定がまだ曖昧に進んでいる状況もあって、ここは“参加者増加への柔軟な方策を優先した”と解釈して良いだろうなー(笑)」

----へーえ、奨励金交付なんてあったのですね。こうゆうものが増えればいいですね。

「そう、どんどん、金額ももっと多くしてね(爆笑)。ただ、F2エンジンの排気量が変更されるにつれ、この時代、自然吸気3000cc/過給器付き1500ccのF1も、自然吸気は12気筒以下や排気量改定の気運もあって、フォーミュラカー全体に安全規定がどんどん厳しい方向になっていったのです」

----モーターレーシングの中でフォーミュラカーレースは華麗で俊敏な魅力がありますが、タイヤがむき出しということもあって、最も危険なマシンでもあるとも言われます。

「フォーミュラカーが最も危険な種目か どうか知りませんが、地上を最も速く走れる構造となれば、ドライバーの居場所から何から何まで必要最小限度になりますからね。

----確かに。

「部品や、構造に加えて軽量化を追求した四輪車ですから、絶対にクラッシュできない、いや、してはならないものであって、結果としてクラッシュ=ドライバーのダメージ必定なマシンなのです」

----ツーリングカーはボディに囲まれています。グループ7のマシンなどもカウルで覆われているけれど、軽量化を突き詰めた結果、ボディカウルは形だけのものですから、危険度は大きくなりますね。

「確かにその通りです。でもね、形だけの、それもヤワなボディーであっても、それがあるかないかで大きな違いがあるのです。仮に安全には遠い構造であっても、身体むき出しのフォーミュラカーとは根本的に違うのです。これは以前にも述べたかと思いますが、三菱の故望月修さんが、エンジンの馬力をいくら高めても、また可能な限り軽量な構造を考え出しても、四つのタイヤが剥き出しの空気抵抗、要するに風への抵抗が強すぎて思うようなタイムに届かない、と愚痴っていましたが、そのくらい難しいのです」

----ふむ。

「それと、車体を構成するのは円形鋼管を組合わせ、そのパイプにアルミの燃料タンクを組み込むというか、パイプで支えるというのか、ドライバーがアクセルとブレーキに足を伸ばした姿勢の両脚の上部にタンクを置いたり、ボクのブラバムなんかシート両側の50リッターずつのタンクの間にドライバーが挟まれた構造でしたから、シートで爆弾抱えているようなもの」

----うぉっ、おっそろしい! 確かにクラッシュできませんねー(爆笑)。

「ただ、仮にコースアウトして、外壁やガードレール、マカオのような石垣(爆笑)に激突しても、まず、四つの車輪のどれかが最初にぶち当たるから、ドライバーにも危害が及ぶのは途轍もない事故で、殆ど燃料タンクが損傷して火災になる例が多くなります。だからF1でもF2でも、火災で亡くなったり、命があったとしても大やけど負うなど毎年のことでした。大クラッシュの炎に包まれ奇跡的に生還したニキ・ラウダさんの顔に残るやけどの跡を見れば、どんなに悲惨なものか想像がつきます。僕も1969年のマカオGPで、紅蓮(ぐれん)の炎に包まれたマシンから逃げ出せず惨死した友人ドライバーを見てますから、レースに出るたびに、この光景が脳裏に走ってね」

----確か、1970年ころ、ジャッキー・スチュワートが安全に向けて行動して、それをきっかけにF1マシンの安全性が格段に高くなったということでした。スチュワートは、“当時は、年に2人か3人の友人がいなくなるのが普通だった”というようなコメントで、仲間のドライバーのアクシデントを悲しんでいるのを知って複雑な気分になりました。彼は、ステアリングにスパナをくくり着けていて、もしものときにはステアリングシャフトをそのスパナで外せるような気遣いをしていたといわれますが、その当時からすれば、今では火災事故は滅多に見られなくなりました。

「だから1970年代初期に、安全への対策が一気に進んだのは結構なことだけれど、その規定に対応できないマシンも多くなって、新しい車体構造のフォーミュラカーが次々に台頭し始めて、パイプフレームを得意とした老舗コーチビルダーでは通用しなくなっていった例も多いのです。ボクの所だって、ブラバムがアルミニューム製タンクだったので、ここが何かにぶち当たっても、タンクが割れたり、ヒビが入らないようにするにはどうすれば良いんだって、メカ達は大変でしたよ」

----そうだったのですね!

「日本でも、ちょうどその頃に安全に対する意識が高まってきていました」

1972年日本GP優勝のサーティースTS10

1970年代初頭のフォーミュラカーは、まだカーボンファイバー登場前でモノコックはアニミニューム製の脆弱なもの。燃料タンクはドライバーの膝の上に抱え込む形もあり、クラッシュすると出火の可能性が極めて高いものだった。

----マカオや、オーストラリアとニュージーランドのタスマン勢が日本グランプリに参加するようになって、その意識を高める後押しをしたのでしょうか。

「そうですね。タスマンレースはフォーミュラカーへの対策が自分流ながら、安全規定を先取りする対策を進めていましたよ。大体が、1971年くらいまではシートベルトの着用規定なんかなかったのですから」

----タスマンは、オーストラリアとニュージーランドを舞台にしたシリーズでしたが、そういう流れだったのですね。

「ですから、パイプフレームでは安全性を高めるのは難しいとなって、燃料タンクやドライバーシート部分の安全性を高め易いモノコックボディーが次々に開発されました。それらはブラバムやロータスなどの老舗ではなく新興勢力が一気に台頭してきたのも、この時期の特色です」

----そうなると、1973年日本GPは、ドライバーも新たな顔ぶれ、マシンの新興といった流れが始まった初戦でもあったわけですね。

「そうゆうことです。そのターニングポイントとなった1973年の日本GPに参加申し込みをした陣容を予め載せておきましょう」

1973年日本GPエントリーリスト

第九十九回・了 (取材・文:STINGER編集部)

制作:STINGER編集部
mys@f1-stinger.com


書籍カバー
【新刊のご案内】

力さんの新刊、絶賛発売中。

『無我夢走』(三栄書房)

高度成長で自動車産業が花開き、日本のレースが本格始動した1960年代中盤からのまさしく無我夢走を伝える必読の書。

詳細はこちら。
http://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=9097