多摩川スピードウェイ記念プレート除幕式
観客席跡地をバックに、除幕された記念プレート。小さくて重い歴史の一歩を記した。
本田宗一郎に鈴鹿サーキット建設を思い立たせるきっかけにもなり、大田区に密集する自動車産業のモチベーションの発露となった多摩川スピードウェイ跡地に、歴史を語り継ぐ記念プレートが設置され、5月29日に除幕式が行なわれた。
設置場所は、神奈川県崎市中原区上丸子八幡町地内の丸子橋第3広場付近で、除幕式には、行政・地域関係者、プレス関係者が列席、小林大樹代表のあいさつに続いて、福田紀彦川崎市長や、クラシックカー・フリークとして知られる堺正章さんが記念すべき日に祝辞を贈った。
記念プレート除幕式には、多摩川スピードウェイ開場当時、本田宗一郎本田技研工業株式会社創設社長がレースに参戦した1924年カーチス号や1926年ブガッティT35Cが、本田技研工業株式会社の協力でレッドカーペット上に並べられ、当時を忍ばせた。
「多摩川スピードウェイ」は、1936年に丸子橋近くの多摩川河敷(崎市)に開場し た、日本初の常設サーキット。1周1.2kmのオーバルコースともに、堤防には 3万人を収容のコンクリー製の観客席が設置された。同年6月7日の「全本自動車競争大會」を皮切りに、2次世界大戦前の期間を中心に、四輪および二輪レースが開催され、本田宗一郎をはじめ、後年の日本の自動車産業発展に貢献した人物・企業が多く参加した。
記念プレートの設置場所は、かつてのスタンドとコースの中間点、セーフティゾーンのような場所(コンクリート地)で、1メートル四方ほどのプレートが埋め込まれた。広大な場所に小さなモニュメントだが、後世に多摩川スピードウェイを伝える役目を果たすことになる。
当日は、絶好の除幕式日和となり、かつてオーバルコースだったコース上やコース内は、バーベキュー、サッカーや草野球などで盛り上がってたが、バーベキューの煙や匂いの合間に、ガソリンやタイヤスモークが漂うようだった。
◆記念プレートに、当時の写真と共に記された紹介文(日欧併記)
多摩川スピードウェイは、日本初の常設サーキットとしてこの地に建設されました。階段状のコンクリート製堤防は、当時の観客席そのものです。
1936年6月の第一回大会以降、たたで第2次世界大戦前の数年間を中心に、自動車・オートバイのレースか開催され、3万人の観客を集めていました。
若き日の本田宗一郎氏をはじめ、出場者・関係者の多くは、レースで得た技術・経験を活かし、戦後の自動車産業の発展において中心的な役割を果たしました。
開業80年を機に、多摩川スピードウェイが果たした役割と、先人たちの功績を後世に語り継ぐべく、この碑に記します。
(photo by Motor Press Report by T.Yamamoto/STINGER)