神電—-半世紀過去の未来へ(1/2)
5月1日、1台のバイクが埼玉県朝霞市のガレージから送り出された。マン島に挑戦する神電(SHINDEN)。無限が送り出した先進テクノロジーの電動レーサーである。
ゼロ・エミッション・クラスに参加する新時代の”神電”の夢と先進テクノロジーを紹介する。
2012年3月。マン島で17勝を記録しているレジェンドのジョン・マクギネスを招聘して、ツインリンクもてぎで走行した。マクギネスは、神電をいたく気に入った。
マクギネスは”ちょうどGP250マシンのようだ”、と神電を評価した。”申し分ない、早くマウンテンコースを走りたい”。
◆「オレもみんなを喜ばせることをしてえなぁ」
1954年、本田宗一郎は、その後”檄文”と呼ばれるようになる宣言文を公開した。実際のところその文章は、右腕だった藤沢武夫副社長が書き記したものとされているが、”日本の自動車工業界の啓蒙”をも謳い込んだそれは、1948年に産声を上げたホンダ社内だけでなく、戦後の復興から立ち直るべく奮闘中の日本に、勇気を与えるはつらつとした文章だった。
宗一郎の後を継いで本田技研工業株式会社の二代目社長となった河島喜好さんは、その檄文について、当時を振り返って、こんな思い出を語ってくれた。
第二次世界大戦の敗戦で荒涼とした状況の日本。そんな中で、古橋広之進選手がアメリカの世界水泳大会で優勝し、湯川秀樹博士がノーベル賞を獲得した。それを見て、日本国民は大いに喜んだ。
「その喜んだ中に宗一郎さんもいたんですね。そして、”オレもみんなを喜ばせることをしてえなぁ”と仰った。わかりませんけど、宗一郎さんは、マン島に出ることで、その思いを表現したのではないかなぁ」。
ホンダは、1959年からマン島TTレースに打って出た。しかし、ホンダのバイクは、当時隆盛を究めたイギリスやイタリア製のレーシングバイクに対して、天地ほどの性能差があった、と河島さんは回想してくれたが、ホンダはそこから3年でマン島TTを制圧するレベルに駆け上がり、当時のバイク王国であったイギリス人を驚かせ、日本人に勇気を与えた。宗一郎の思いが現実したのである。
あれから50余年、宗一郎さんの長男、本田博俊さんが興した無限が、そのマン島TTに挑戦する。5月1日、マン島に新境地を求めて、1台のバイクが朝霞市膝折の無限のガレージからマン島に向けて旅立った。バイクの名は”神電”。第二次世界大戦で活躍した機体後部にプロペラを持つ革新的な戦闘機”震電”と同じ読みの、こちらも、革新的な電動バイクである。
◆マン島TTレース
マン島TTレースは、100年以上の歴史を持つ、イギリスのマン島で毎年行なわれるバイクレース、というより冒険と呼べる壮絶な闘いである。誰が速いかを決める”レース”には違いないが、名前のTTは”タイムトライアル”の意味である。1台ずつが10秒置きにスタートしていく。
1954年にマン島宣言を発令した本田宗一郎さんは、1955年にマン島を視察に出かけ、それを報告する社内報で、「出るなんて言わなきゃよかった」と言ったという。「今年も何人も死者が出た。思ったよりずっと難しいレースと思った」からだ。もちろん、計画を中止することはなかった。半ば本気でマン島の難易度を吐露した本田宗一郎さんの心中には、だからこそやるんだ、という思いもあったと想像できる。
当時副社長だった河島喜好さんは、1959年6月3日に決勝レースを迎えるマン島入りに備えて、海外で粗相があってはいけないと、メカニックやスタッフに、フォークやナイフの使い方を学ばせてからマン島に出発した。そして、イギリス本土とアイルランドにはさまれたちょうど淡路島と同じくらいの面積のマン島のホテルに着いて感激した。先方も、日本人を招くのは初めてだった。
「床に布団が敷いてあったんです。日本のことを勉強して、気をつかってくれたんですね。そのお陰で国光(高橋)たちと、クルマ座になって、アットホームな感じで作戦会議ができました」。
未開の地に赴くことは、ある意味新しい発見ができる楽しい作業だが、こと、レースを闘うとなると話が違ってくる。”勝手”がわからないことには、腰を据えて闘いのためのパワーを出し切ることができない。
「たとえば、トイレがどこにあるか、ということから始めないといけないですね」
昨年のマン島を視察し、当時、まだ名前が決まっていなかった神電での参戦を決意した無限(株式会社M-TEC)の取締役であり、今回のプロジェクトの指揮を執る勝間田聡モータースポーツ事業部長は苦笑いした。しかし、表情は、ワクワクした楽しい気持ちを隠せていなかった。
神電が送り出された無限のショールームには、無限エンジンを積んだジョーダンとリジェの2台のF1優勝マシンが展示されている。
(2/2につづく)