『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
解らず屋より。
「日本人は何だってやめるんだ?続けてりゃいいのに」…..’92年、名前も知らないとあるイタリア人の男が言った言葉である。もちろん、彼の矛先は”第2期”と呼ばれるエンジン供給を行った’83〜’92年の10年間の活動を終え、F1を”休止”するホンダに向けられたものである。そしてその彼の基準はF1世界選手権初年度の’50年から42年間、良い時も悪い時も、常に跳ね馬の描かれた真っ赤なマシンを走らせ続けるフェラーリである。
’09年11月2日にブリヂストンが、2日後の11月4日にトヨタが、F1からの撤退を正式に発表した。
ブリヂストンは’07年の供給開始以来、グッド・イヤー/ミシュランとのタイヤ・レースを制し、ワンメイク供給となって3年目となっていた。彼らがFIAとの契約期間を1年前倒しし、来年いっぱいでの撤退を決めたことは会社の危機感を示すには充分なものであった。理由は今更ここに記す必要もない、経済的なもの。同時に、1年間の猶予期間が設けられているのはブリヂストンなりの礼儀である。何故なら、彼らのタイヤを想定した形で、既に各チームが’10年型の新車の設計を行っているからである。従ってFIAはこれから’11年以降F1にタイヤを供給してくれる/出来るメーカーを探さなければならない。それが欧州産になるのか違うのかは世界経済の推移を伴うので解らないが、F1は当分優秀なタイヤを装着するのは難しい筈である。BSに関しては筆者もそれなりに想うところもあり、更にあと1年、彼らの”レース”を追いかけることが出来る。またいずれ別の機会にその歴史を紐解くこととして、ひとことだけ言うのであれば、その猶予を持たせた紳士的且つ難しい決断をこのタイミングで齎してくれたことに心から感謝したい。突然バックレる、というのはあまりにも衝撃的でスタイリッシュではなく、少なくともF1の品位を充分に理解した上での、流石の行動だと痛感する。同時に、敵不在のまま1社供給し続けることの意義と、その短期間での成功に関わる全ての努力に賞賛を贈る。
さて、一方の”バックレた方”に話を移そう。
トヨタは’02年にF1参戦を開始。その経緯は常に複雑であった。1890年(明治23年)の豊田佐吉による豊田式木製人力織機に始まり、豊田自動織機製作所内に自動車部門が設けられ、佐吉の息子である喜一郎が責任者となり、1937年(昭和12年)に豊田自動車が発足する。しかし創業主である豊田家の「社員が汗水流して作った車を一瞬で壊してしまうカー・レースは我々の目標ではない」というポリシーの前にモーター・レーシングへの過度の関わり合いを制限され、トヨタは大衆車をメインに手掛けて成功、時代の移り変わりと共に1962年(昭和37年)にパプリカ・スポーツを発表、ここからS800、2000GTといった名車が誕生する。あくまでも大衆性と安全性、トヨタとモーター・レーシングは必ずしも結びつくものではなかった。
既にホンダが第1期F1活動を終えた’68年、トヨタは初のツーシーター・レーシング・カー、トヨタ7を開発する。北米のCanAm選手権出場のために作られたこのマシンは、事実上彼らのF1への挑戦のスタート、でもあった。が、’70年の河合稔の鈴鹿でのテスト中の事故死をきっかけに、社内外/世論を巻き込んで論争が始まる。結果、表面上トヨタはレース活動の縮小を余儀なくされた。
5年後の’75年、トヨタはベルギーにT.T.E(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)を設立し、オベ・アンダーソンと組んでWRCへ参戦する。国外活動、市販車ベースのラリー、彼らの方法論は”信頼性の高い市販車の世界的な宣伝”へと向けられた。が、彼らの選手権制覇はユハ・カンクネンを擁した93年まで、18年間待たなくてはならなかった。’85年には童夢と組んでグループCにも参戦するが’92年の選手権2位が最高、トヨタはどうしてもレース部門では輝けなかった。そしてその頃、日本の”カー・レース”という印象は全てホンダの元にあった。アイルトン・セナ、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケ、そして中嶋悟。レースを良く知らない人達にも名前の浸透したスターとなった彼らに共通するアイテムはホンダであり、そのドラマは皆ホンダの聖地・鈴鹿で起きていた。
喜一郎〜章一郎〜英二と引き継がれて来た豊田家のポリシーは、’95年に社内の刷新を計る人事の切り札、奥田碩(現・経団連名誉会長)が社長に抜擢されたことから変化を始める。そして奥田が掲げたのは「F1、インディ、ル・マンの制覇」という、それまでのトヨタのイメージを完全に打ち破るものだった。そして世界初のハイブリッド車”プリウス”とモーター・レーシングの両立は、かつて「誰にも不可能」と言われたマスキー法をクリアし、低燃費/低公害を実現しながらF1世界選手権を獲得するというホンダの偉業を明らかに意識したものだった。奥田の”攻め”は社内に革新を齎し、それは販売台数などの数字にも明らかに表れた。が、’91年にマツダがロータリー・エンジンで勝利したル・マン24時間レースは2位止まりで撤退、インディでは’96年からのホンダが圧勝、’02年に選手権を、’03年にインディ500マイルをようやく制覇。世界3大レースの内ふたつを1勝1敗とした。
’90年に興したフォーミュラ・トヨタ、’92年のジョン・バーナードとのトムス。社内で”X”と呼ばれていたトヨタのF1挑戦は水面下で始まっていた。「やるからには勝て」奥田はそう言明し、’99年1月21日、奥田は多くのカメラのフラッシュを眩しそうに、でも嬉しそうに「ようやく夢だったF1に参戦することになりました」と語った。その笑顔は、つい1ヶ月前、ヤルノ・トゥルーリの2位フィニッシュに大喜びしていた鈴鹿での豊田章男社長の笑顔とは違っていた。
今回の発表は、一部報道でのエンジン供給のみやスポンサーシップとしての活動継続は一切なく、F1というカテゴリーからの完全撤退、というものだった。潔く全て、ということなのだろうが、このタイミングでのこれはF1という世界的組織の中では日本人特有の”無責任の極み”である。
ウチの村長/編集長である山ちゃんの言葉を借りるのなら、「誰がトップなのか解らない」のが日本チーム。例えばフェラーリにはエンツォが、ホンダには本田宗一郎がいた。マクラーレンにはロン・デニスが、そしてウィリアムズにはサー・フランクが、ブラウンGPにはブラウン自身がいる。メルセデス・ベンツやBMWがどんなに大きな企業であっても、それを象徴するのはノルベルト・ハウグでありマリオ・タイセンである。現在、フラビオ・ブリアトーレの解任によって急遽ルノーを仕切るボブ・ベルの顔が出て来ないのは仕方がない。が、それと同じくらい不透明なのが8年間もF1をやってるトヨタだった。山科忠?、新居章年?、本来なら
ば敵地であった筈の鈴鹿で見かけた、見慣れない豊田章男社長の笑顔、そうか、あれは応援に来たのでも、楽しみに来たのでもない。トップがわざわざF1に”お別れ”をしに来たのだ。
世界的不況の前に、巨大メーカーが会社保全のために資金の負担の大きな広報活動を削った。たったそれだけのことである。そしてそれはトヨタのみの問題ではなく、僅か1年間の間にホンダ/富士SW/BMW/ブリヂストンに続いて起きた5つ目の例でしかない。が、この5つの内4つが日本メーカーであることの意味合いは大きい。
決断の内側にあるものは非常にシンプルだ。まず、メリットとデメリットを計りにかける。次に、将来性を評価する。最後に、熱意を沈め、恥をかく覚悟をする。その全ての行程を経て決断された結果は、今後多くの社員やその家族の生活を守り、日本社会の未来へ貢献する。そこには何の問題も、何の異論もない。戦争とバブルの昭和を生きた彼らが21世紀の今、出した答である。「日本人は頭がイイ」その通りだ。だから我々は安全に、幸福に暮らしている。従って、それが単なる広報活動の一貫でしかないのであれば、その決断に何か疑う余地は全く存在しない。
忘れてはいけないことがある。
FOTAの一員であるトヨタは、今年6月にFIAに対し最低でも2012年までF1に参戦することを約束し、’10年のエントリー・リストにサインした筈である。そして、BMWザウバーはそのサインを行わず、後にF1からの撤退を発表した。つまり、BMWは出来ない約束をしなかったのだ。嘘をつくことを良しとしなかったのだ。その後継続を目指す現場のレーシング・チームが来年の参戦枠を巡ってどれほどの苦労をしているのか。それを横目に、やると言っておきながらやっぱりやらない、それも、エントリー期限の時点で世界中の誰もこの先景気が良くなるとは思っていない、更にトヨタの赤字転落は目に見えて確実と解る時期、つまり、パドックやメディアの報道以上に、自分達が’12年までF1参戦を続けることなど出来ないと解っていた上で、世界中に、仲間に、ファンに、そして現場のレーシング・チームや開発チームにまで”嘘をついていた”のである。
少なくとも、FIAはどうにかコストを下げようと必死になっていた。通らなかったバジェット・キャップ案も含め、なんとかF1サーカスから落伍者を出さぬよう尽くした。トヨタはそれにすら反対し、挙げ句の果てに新シリーズ立ち上げ案に共謀し、そして最後に「金がない」と逃げた。
11月15日の役員会を待たずに予算を決められない。イタリア人のトゥルーリ、ドイツ人のグロック、ヨーロッパの彼らには既にその意味が解っていた。だからこそ、これっぽっちも未練なく、自身に予選フロント・ロウ独占と最高位2位を齎すチームに別れを告げられたのだ。
更に、役員会よりも前である11月8日に記者会見が予定された。何故だ?、来季の体制はそのタイミングでは決められない筈だ。そしてBSの発表直後の11月4日、誰かのリークによって全ては”前倒し”された。ドサクサに紛れるには良いタイミングだ。が、それは最も恥ずかしいやり方でもある。
しかし、これが日本人の現実である。筆者としては最も使いたくない表現だが、負けが解っていながら「御国のために/必ず勝つから」と兵士を送り続け、死なせ、そして無条件降伏という結末を迎えた国のやり方なのだ。あまりにも大きく、そして無駄な犠牲を払い、戦後この国は復興した。が、彼らはバブルを経て覚えた「ヤバくなったら逃げろ」…..ただそれだけのことだ。サムライとは何だ?、死ぬ覚悟で無駄に突っ込んで行く者のことではない。誰が何を言おうとも己の信念に従い、己に嘘をつかずに生きる。それがサムライ。従って、彼らはサムライじゃない。が、サムライは日本の企業のトップになんかなれない。だからサムライでもある。
F1という巨大なかたまりが一斉にスタートするその瞬間、我々は皆子供に還ったようにワクワクする。それはバーニー・エクレストンでも、現場のカメラマンでも、筆者でも同じことである。夢のようなF1を前に、そのワクワク感は我々を童心に還らせてくれる。
そして、子供は大人を信じる。その大人が嘘をついた時、子供の傷心は取り返しがつかない。何時になったら帰ると決まっているクセに、「何処へも行かないよ」とウソをつく。そんなに大人にはなるまいと子供の頃誓った。が、どうやらそんなヤツはこの国に大勢いるようだ。
「何だって日本人は辞めるんだ?、続けてりゃ良いのに…..」
モンツァのF1イタリアGPには、親子のみならず三代に渡ってフェラーリを応援に来る人達がいる。祖父は「あのパラボリカでファンジオとファリーナが…..」と懐かしみ、その息子がベルガー/アルボレートの奇跡の1-2フィニッシュを想い出し、孫は必死にライコネンの姿を追う…..そんな光景が当たり前のように、今年も行われていた筈である。羨ましいかって?、もちろん。だって、それは”夢”みたいな話だから。
鈴鹿で”Gives You Wings(翼をあげるよ)”の文字をまとったセバスチャン・ヴェッテルのレッド・ブルRB5は、西日を浴びて本当に空に飛んで行ってしまいそうだった。OK、F1はヨーロッパのもの。僕らはまた、その憧れの”異世界”のスポーツを追いかけよう。そしていつの日か、初めてF1グランプリを観た日本の誰かが「何だアレは!自分もやるぞ!」と立ち上がる日を待とう。
通算140戦、ポール・ポジション獲得3回、最速ラップ3回、入賞87回、表彰台獲得13回、未勝利。「勝ったらやめる」筈のトヨタは1勝2敗で去って行った。
オマエに何が解ると誰かが言うだろう。だが、解らず屋がやるのがF1だ。
’09年11月4日 筆者・加瀬竜哉