『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
彼らが恐れ、闘うもの
開幕を目前に控え、ようやく合同テストがスタートしたと思った矢先、恐ろしいニュースが飛び込んで来た。バレンシア・テストでトップ・タイムを叩き出していたロータス・ルノーGPのドライバー、ロベルト・クビサがイタリアで開催されていたラリーのレース中にガードレールにクラッシュ、右手、腕、足などを骨折し、特に酷かった右腕は一時切断も検討されるほどだったと言う。幸いにも7時間に及ぶ大手術の末に”最悪の事態〜切断〜”は免れたが、当然F1開幕に間に合うわけもなく、復帰には相当な時間がかかると見られている。いや、極端に言えばこの事故がクビサのレーシング・ドライバー生命に関わる、と言っても過言ではない状況である。多くの関係者が心配する中、チームはやむなく代役ドライバーの選考に入り、かつての僚友であるベテランのニック・ハイドフェルドがクビサに代わってロータス・ルノーGPをドライブすることが決定、事実上クビサの2011年シーズンは終ってしまったのである。
…..両手/両足が全て異なる作業を必要とするカー・レースと言う分野のレギュレーション、特にF1のような特殊なカテゴリーでは、こういったケースは致命的となることが多い。故に、ドライバーはオフ・シーズンも含めて充分な健康管理が必要とされ、例えばフェラーリなどのトップ・チームはもしもの怪我に備え、ドライバーにスキーなどの一部スポーツを禁止したりするほどである。今回のクビサはF1オフ・シーズンを利用してのラリー参戦だったが、これがルノーでなくフェラーリなら当然ラリー禁止。キミ・ライコネンなどはそれが嫌でF1から出て行った、と言われるほど。しかし、こうして実際に事故が起きてしまった以上、ルノー側がクビサのラリー出場を認めていたこと自体が問題視されてしまうのはやむを得ない。
今回の事故に関しての報道で、”ナニーニのケースとの比較”という記事を良く見かけると思う。しかしその”ナニーニ”に関してはあまり詳しく紹介されていないので、今ひとつ良く解らないという方も多いだろう。先に結果から言うとナニーニと言うのは、かつて右腕切断と言う大事故に遭いながらも、懸命のリハビリでレースに復帰した元F1ドライバー、アレッサンドロ・ナニーニのことなのだが、今回のクビサの事故を受け、重大事故、特に手足の骨折や切断、という極限状況から不屈の精神で復活を目指したドライバー、という過去のケースをいくつか振り返ってみようと思う。悪夢のような恐ろしい体験から地獄のようなリハビリを乗り越え、いったい彼らはどうやって帰還したのか。そこにはレーシングに取り憑かれた者だけが知る究極の欲望と、周囲の献身的な協力が存在する。
尚、今回のコラムは少々ヘヴィなテーマ/内容なので、興味本位ではなく、心して読んで頂きたい。
さて、まずはその”ナニーニ”の紹介から。アレッサンドロ・ナニーニは’59年7月7日、イタリア出身。モトクロスでレースに目覚め、4輪に転向。’81年フォーミュラ・フィアット・イタリア王者となり、’82年にF2へステップ・アップ。所属するイタリアのレーシング・チーム、ミナルディがF1に参戦することとなり、ナニーニ自身は’86年に同チームからF1デビュー。非力なマシンで印象的なパフォーマンスを見せ、’88年にベネトンに抜擢。’89年第15戦日本GP、あの有名な”セナ・プロ鈴鹿シケイン接触“のレースでアイルトン・セナの失格により、繰り上がり初優勝。翌’90年も常にトップ争いに加わり、ジャン・アレジとフェラーリのシートを争うほどの若手トップ・ドライバーとなった。
…..初勝利から丁度1年、’90年第15戦日本GPを目前に控えた10月12日、悲劇は起きた。ナニーニは友人と自家用ヘリコプターに乗っていたが、自宅敷地内で着陸に失敗し、墜落。その際ナニーニは機外に投げ出され、ヘリコプターのローターで右腕を切断。その際、妻が切断された右腕を氷水で冷やして保管し、病院に運ばれて縫合手術が行われた。手術は成功し、ナニーニは復帰目指して懸命のリハビリを開始。数度に渡る手術を受け、苦痛と闘いながら握力の回復に努める日々を送る。そして事故から2年半後の’92年3月、ナニーニは遂にDTM(ドイツ・ツーリング・カー選手権)でアルファロメオに乗り、レース復帰を果たす。その後BTCC(イギリス・ツーリング・カー選手権)にも参戦し、’97年に正式にレーシング・ドライバーを引退した。
…..日本でも人気が高かったナニーニの事故はファンにとって衝撃だった。イタリアのTVカメラが捉えた、搬送中に妻が半狂乱になりながら「撮らないで!」と叫んでいた姿は忘れられない。しかし、パドックでも陽気な性格で知られるナニーニは、救急車で搬送中にも「僕はF1ドライバーだからもっと早く走れるよ。運転代わろうか?」とジョークを飛ばしたと言う。そして事故直後の日本GPで、ベネトンはエースのネルソン・ピケと、ナニーニの代役ロベルト・モレノが奇蹟の1-2フィニッシュ。モレノは「この2位をサンドロ(ナニーニ)に捧げる」と言い、ナニーニもまた「僕が出ていれば勝てたのに!」と笑った。ナニーニは事故後も、決して明るさを失わなかった。TVインタビューにも率先して応じ、「何が一番不自由かって、自分で慰められないことだよ!(笑)」と笑わせた。右手にはクッション・ボールを握り、ゆっくりゆっくり動かしていたのが印象的だった。そして’92年、ナニーニは左手だけでシフト出来る仕様に改造されたフェラーリのF1マシンを駆る機会を得た。しかしその際、右手にかかる負荷をあらためて実感し、F1ドライバーとしての復帰を諦めたのだと言う。
ナニーニの切断された右腕は、周囲の適切な処置により縫合に成功した。そして彼はレースに帰って来た。が、F1でレースすることはもはや出来なかった。現在は女性に人気の”カフェ・
ナニーニ“を経営するビジネス・マンである。
…..ナニーニに良く似たケースとして、オールド・ファンの記憶に残っているのはディディエ・ピローニだろう。こちらはシーズン・オフではなくレース中の事故、そしてナニーニが腕だったのに対してピローニの場合は足だったが、彼もまた大クラッシュから再びレーサーとして復帰を目指し、そしてF1ではないにしろ、実際にレース現場へと帰って来た。が、”その後”に関してピローニはあまりにも悲惨な結末だった、と言わざるを得ない。
ディディエ・ピローニは’52年3月26日生まれのフランス人。母国の大企業”エルフ”の強力なバック・アップを受け、’78年にティレルからF1デビュー。’80年に母国のF1チーム、リジェに乗って初勝利を飾り、翌年のフェラーリのシートを勝ち取った。チーム・メイトはカナダの新星、ジル・ヴィルヌーヴ。ふたりは良きライバルとしてフェラーリの勝利に貢献するが、’82年第4戦サンマリノGPレース終盤、1位ヴィルヌーヴ、2位ピローニの順で走行中に、フェラーリのピットから「順位を固定せよ」との”チーム・オーダー“が発令。しかしピローニはこれを破って無抵抗のヴィルヌーヴを抜き、勝利してしまう。つまり、チーム・オーダーを無視してしまったのである。これでふたりの信頼関係に亀裂が入り、翌第5戦ベルギーGP予選でふたりのポール・ポジション争いが白熱。”限界を超えた”ヴィルヌーヴが高速で他車に接触し、車外に投げ出されて死亡。ピローニはタイトル争いのトップに立ったが、同時に世界中の憎まれ役ともなってしまった。
迎えた第12戦ドイツGP、大雨の予選2日目。視界不良の中、ルノーのアラン・プロストはタイム・アタックを諦めてスロー走行し、後方のデレック・デイリー(ウィリアムズ)に進路を譲る。後方からそのデイリーの加速を見たピローニは、何故か突然アクセルを踏み込み、水しぶきで何も見えない中、プロストのマシンに全速力で突っ込んでしまった。ルノーの右リア・タイヤに乗り上げたピローニのフェラーリは空を舞い、そして激しく地面に叩き付けられた。ピローニは両足の骨を粉々に砕く重傷を負い、マシンに閉じ込められた。しかもピローニはマシンの中で意識を失っておらず、救急隊員がその場での両足切断に関して協議する様子を全て聞いていたと言う。結局ピローニは切断は免れたが、両足の複雑骨折で長期入院となり、選手権から離脱した。
ピローニはこの事故後30回以上の手術に耐え、レース復帰へ向けて必死のリハビリを繰り返した。母国フランスのチームであるリジェ、AGS、ラルースなどがピローニのF1復帰のためにテスト・ドライブのチャンスを与えたが、最終的にF1に戻ることは出来なかった。結局ピローニは事故から5年後の’87年、”水上のF1″と言われるパワー・ボートでレースに復帰。しかし8月23日、イギリスのワイト島で行われたレースで大クラッシュを起こし、帰らぬ人となった。付近を巨大な石油タンカーが通った際に起きた大波に乗ってしまったのが事故の原因だった。
また、ピローニを巡っては自身が両足の怪我を負った同じ’82年、第8戦カナダGPのスタートでエンジン・ストールし、そこへ突っ込んで来たオゼッラのリカルド・パレッティが死亡した事故も含め、多くの”悲劇の主人公”として語られることが多い。実際、それほどの事故に遭いながらもレースへの夢捨て難く、そして最後はやはりレースで命を落とした。いったい何がピローニを駆り立てていたのか。その答はピローニ自身にしか解らない。
…..もう何年も前のことになるが、車椅子から手だけでドライブ出来る特別仕様のNSXに乗り込み、ご機嫌で縁石を攻めながらサーキットを疾走するオヂサン、というホンダのTVCMを覚えておられる方も多いと思う。
彼の名はクレイ・レガッツォーニ。’39年9月5日、スイス出身のレガッツォーニは母国企業チソットをスポンサーに’70年にF2王者となり、同年フェラーリから鳴り物入りでF1デビュー。’74年にはブラジルの3度の世界王者、エマーソン・フィッティパルディとタイトル争いを繰り広げた。絶頂期を過ぎ、渋いベテラン・ドライバーとなった’80年、中堅チームのエンサインに移籍。第4戦アメリカ西GP、ロングビーチ市街地コースでのレース中、レガッツォーニのマシンはブレーキ・ペダルのトラブルに見舞われ、時速300kmで減速せずにコンクリート・ウォールにクラッシュ。それでもヘアピンが待ち受けるロング・ストレートでマシンの異変に気付いたレガッツォーニは、とっさの判断でギアを3速まで落とし、イグニッション・スイッチをオフ。更にリタイアして止まっていたマシンに一旦ぶつけ、クラッシュの衝撃を和らげようとした。しかし、それでも結局レガッツォーニの両足の骨は粉々に砕かれてしまっていた。12時間に及ぶ大手術の結果、一命は取り留めたが頸椎損傷で下半身不随となり、レース界から引退。その後は車椅子生活となりながら、TVのレース解説者として活躍した。が、そのレガッツォーニもまた’06年12月15日、イタリアの高速道路でトラックと激突して事故死。享年67歳。この時もレガッツォーニはクライスラー製の、ステアリング機能だけで運転出来る特別仕様のボイジャーに乗っていた。
あのCMで特に印象深かったのは、高速運転可能なマシンとサーキット走行の機会を与えられ、子供のように嬉しそうな表情を見せるレガッツォーニ自身と、空っぽの車椅子と共に心配そうに夫の走りを見守る妻の姿だった。最終的に車の事故で命を落とした夫を、いったい彼女はどう想っているのだろうか。「それが天命」とは、決して諦め切れない筈である。
…..アレックス、いやアレッサンドロ・ザナルディの復活劇はレース界の奇蹟として有名である。同時に、ザナルディは現在進行形のレース魂の持ち主としても、多くの人々を勇気づけ続けるヒーロー、と言えるだろう。
アレッサンドロ・ザナルディは’66年10月23日生まれのイタリア人。’88年にイタリア国内のF3選手権で注目され、’91年の国際F3000選手権ではタイトル争いを展開、新興F1チームのジョーダンから声がかかり、F1デビュー。しかし中堅チームを渡り歩いたザナルディはF1で目立った成績を残すことが出来ず、’94年にシート喪失。これを機にアメリカに新天地を求め、’9
6年からインディ・カー/CARTへと闘いの場を移す。アメリカでアレッサンドロ改め”アレックス”・ザナルディとなった彼は圧倒的な強さで’97、’98年の選手権を連覇。これを見たF1トップ・チームのウィリアムズから声がかかり、’99年に今度はF1へと復帰。しかしチームの低迷もあって、F1ではやはり思うような成績を残せず、’01年に再びCARTへと出戻ることになった。
’01年9月15日、CART第16戦の舞台、ドイツ・ラウジッツリンク・サーキット。トップを快走するザナルディは残り13周でピット・イン。作業を終えピット・ロードを走るザナルディは痛恨のスピン。そこへ運悪くアレックス・タグリアーニのマシンが突っ込み、ザナルディ車は大破。特にマシン前部は損傷が酷く、モノコックがまっぷたつに裂け、ザナルディの両足は膝から切断されてしまった。事故から2ヶ月後、退院したザナルディは記者会見で「まずは歩けるようにリハビリを行う。その後のレース活動についてはまだまだどうなるか解らないよ」と復帰へ向けて意欲を語った。
そして迎えた’03年5月11日、悪夢のような事故から1年8ヶ月。ラウジッツリンクには義足を装着したザナルディの姿があった。彼とチーム、そして観客達は、ザナルディの”失われた13周”を取り戻すためにそこにいた。この日、ザナルディのために両手だけでドライブ出来る特別仕様のCARTマシンが用意され、彼はあの日走れなかった残りの13周を走り切り、自らのフォーミュラ・カー・レーサーとしてのキャリアにケジメをつけたのである。ザナルディは多くの関係者とファンに感謝し、CARTマシンを降りた。
…..しかし、ザナルディはこれで終らなかった。その後彼は特別仕様のBMWを駆ってWTCC(世界ツーリング・カー選手権)に本格参戦、’05年第14戦では見事優勝を果たしたのである。そして’09年にレーシング・ドライバーとしては引退したが、現在はハンド・サイクルの選手として活躍し、2012年のロンドン・パラリンピック出場を目指している。これまでのザナルディの主な実績は’07年ニューヨーク・シティマラソン・ハンド・サイクル部門4位、’09年ローマ世界選手権15位(首位と僅か4.5秒差)、’10年ローマ・マラソン・ハンド・サイクル部門優勝…..この男のレースに懸ける情熱は半端じゃない。
…..次に紹介するのは、長きF1の歴史に於いて、記録にも記憶にもあまり残っていない、ひとりの無名ドライバーのケースである。しかし、”懲りない”という部分では相当に深く、更に運も良かった男の、見方を変えれば羨ましいレベルの話だ。
イアン・アシュレーは’47年10月26日生まれのイギリス人。豊富な資金を元にフォーミュラ5000を経て’74年にプライベーターによるスポット参戦という形でF1デビュー。4年目の’77年シーズン、アシュレーは後半戦の第12戦オーストリアGPからヘスケスで参戦。第16戦カナダGP予選、ここまで予選落ちの常連になりつつあったアシュレーは焦り、ジャック・ラフィーのリジェを無理にオーバー・テイクしようとして、ストレート・エンドからアウト側のダートへ飛び出してしまい、マシンは激しく横転。衝撃でコックピット部が外れ、アシュレーはバラバラになったマシンの下敷きになってしまった。この際、モノコック前方が激しく損傷し、アシュレーの両足は折れ、足首から先があり得ない方向を向いていた。救出には時間がかかり、アシュレー本人は激痛で何度も失神を繰り返したが、どうにか両足切断は免れた。しかしこの事故でアシュレーのF1ドライバーとしてのキャリアは終わりを告げた。が、スピードの魅力に取り憑かれていたアシュレーは、リハビリ後、なんとアメリカでジェット機のパイロットへと転身。その後もBTCC(イギリス・ツーリング・カー選手権)やサイド・カー・レースなどにも出場し、60歳を過ぎた今も、細々ながら精力的にレース活動を行っているのである。
アシュレーは’70年代に良く見られた資金持ち込みプライベーター、所謂ペイ・ドライバーのひとりである。悪い言い方をすれば、F1で活躍するトップ・ドライバー達と競い合うには、技術的に未熟な部分が大事故に繋がったと、考えられなくもない。しかも当時は現在のような安全性からは程遠く、一歩間違えば命の危険に晒される時代である。それでも彼らがチャレンジをやめなかったのは、レーシングが”危険と隣り合わせ”という理不尽な魅力を持つカテゴリーであることが関係しているという事実を、少なくとも当時、決して否定することは出来なかったのだ。
昨年最終戦までタイトル争いを繰り広げたマーク・ウェバーは、シーズン開幕前と終盤の2度に渡って趣味のマウンテン・バイク中の事故で怪我をし、レッドブルのクリスチャン・ホーナーは「マークは自転車をやめるべきだ」と激怒した。今回のクビサのケースでも、見方によってはオフ・シーズンにラリー出場という”危険な行為”を行ったことにより、自身とそれを許可したチームに対する非難が続出した。クビサは事故後「テスト規制の厳しいF1では、オフ・シーズンのラリー出場が運転の感覚を向上させるのに有効であると」、自らのラリー参加を正当化する発言をした。しかし、その意見に対し「あまりにも理性に欠けている」と発言したのは、かつて瀕死の重傷を負いながらも奇蹟の復活を遂げた帝王、ニキ・ラウダである。
“スーパー・ラット”ことニキ・ラウダは’70〜’80年代を代表するF1ドライバーであり、3度の世界王者である。’49年2月22日、オーストリア生まれのラウダは’71年にマーチでF1デビューし、’75年にはフェラーリで初の王座獲得。’76年第10戦ドイツGP、山の中を走る旧・ニュルブルクリンク・サーキット、1周22.8kmというロング・コースの、観客もマーシャルもあまりいない高速コーナーで事故は起きた。ラウダのフェラーリは小雨の中、リア・サスペンションのトラブルから突如スライドしてフェンスに激突。マシンは一瞬にして炎に包まれた。そして、現在では考えられないような低い安全性の中、ラウダは燃え盛るマシンの中で意識を失っていた。救急車も消化器を持ったマーシャルも付近にはおらず、数十人の観客達は、燃え盛るフェラーリをただ呆然と見つめることしか出来なかった。誰もが絶望感に苛まれ、立ち尽くすだけだった。
…..そして、そのラウダを炎の中から救出したの
は、この事故を見て現場でマシンを降りた、後続の4人のドライバー仲間だった。800度の炎の中に1分以上閉じ込められていたラウダは、重度の火傷と出血多量でハイデルベルグの病院へと運ばれた。4日間意識不明の状態が続き、病床には牧師が訪れ、マスコミには既にラウダ死亡説が流れていた。
…..6週間後、第13戦イタリアGPの舞台、モンツァ・サーキットには、焼けただれた顔面を隠すことなく、チャンピオン争いのために帰って来たラウダの姿があった。そしてラウダはこのあと、更に2度世界王者となるのである。
死の淵から生還したヒーローとして、ラウダの復活劇は世界的にも有名だが、この事故を境に、ラウダはサーキットとマシンの安全性に対して自身の意見を唱えるようにもなった。事実、事故に遭った’76年シーズンの最終戦、富士スピードウェイでのF1GPイン・ジャパンは豪雨に見舞われ、ラウダは選手権トップにいながら「危険過ぎる」と自主的にリタイアし、1点差で王座を逃している。が、これこそが王者の論理そのものであり、ラウダの”愛弟子”とも言うべきプロストも、ピローニとの事故以来、雨のレースを極端に嫌っている。そして、この頃から徐々に、そうあまりにもゆっくりと、レースとサーキットの”安全性”というものがようやく人々の話題になり始める。まだ、そんな時代の出来事なのである。
…..雨の富士、事故、フェラーリ、そして復活と言えば、我々日本人には忘れられない事故、忘れられないドライバーがいる。’59年11月6日生まれ、日本で最もフェラーリが似合う男、”日本一のフェラーリ遣い”こと、太田哲也である。
’98年5月3日、全日本GT選手権第2戦、大雨の富士スピードウェイ。結論から言えば、レースは中止されるべきだった。それほどの豪雨の中、ローリング・スタートはペース・カーの突然の加速により、水しぶきで何も見えない視界ゼロの参加ドライバー達が誤ってレース・スタートだと思い込む事態を招いた。砂子智彦のポルシェがクラッシュ、そこへ太田のフェラーリが突っ込む。太田のF355GTは爆発し、炎上しながらコースを横断して停止した。太田は燃え盛るマシンの中でピクリとも動かなかった。
…..誰も太田を助けに来なかった。砂子は自力でポルシェから脱出(全身打撲、右足粉砕骨折、解放骨折)した。が、太田は出て来ない。RX7を止めた山路慎一が駆けつけ、太田に声をかけながら消化器を噴射、フェラーリはようやく鎮火した。ここでようやくマーシャルが駆けつけ、太田は炎に90秒以上包まれて車外に出された。が、観客の撮ったビデオには、およそ適切とは言えない対処が記録されていた。山路はドアの閉まったままの車内で無線で喋るだけのオフィシャルに激怒し、レスキュー・カーを蹴った。すると、別のオフィシャルが山路に説教を始め「このままじゃ済まさない」と言った。その間、太田は車外で放っておかれていたのである。結局太田は重度熱傷で長期入院となった。
…..この事故に関しては様々な意見が交わされ、裁判沙汰となり、既に和解が成立していることを踏まえた上で、筆者なりの価値観/目線で書かせて頂いた。まず、誰が悪いのかを問わなくてはいけない事態そのものが、レース運営側の失敗と対処の不備を物語っている。筆者は現場にいたわけではないし、残された証拠を元に書くしかないが、多くの事柄について、運営側が責任逃れとしか思えない言動を行っていた疑いは、筆者の今日の日本のサーキット/レース運営の見方に大きく影響を与えているのは事実であることを付け加えておく。尚、この事故に関しては’01年に太田自身による”クラッシュ_絶望を希望に変える瞬間”という著書として出版され、’03年には映画化もされているので、機会があれば是非御覧になって頂きたい。
その’03年、事故から5年を経て、太田はアルファロメオのワン・メイク・レース”アルファチャレンジ・ユーロ・カップ”でレースに復帰した。が、熱傷の後遺症で右手足に後遺症が残ったために引退を余儀なくされ、現在はフェラーリなどのチューニング・パーツの開発を行う”TEZZO”代表、更にモータージャーナリストとしても活動しながら、アマチュア・レーサーのための”TEZZO RACERS CLUB“、更に苦悩する人々を支援する”NPO KEEP ON RACING“を主宰し、精力的に講演活動などを行っている。…..なんと言う強さだろうか。多くを失い、多くを諦めなければならなかった太田自身が、未だ我々に”勇気”をくれる。
…..筆者の記憶にこんな話が残っている。1991年第15戦、日本GP。ラルースのエリック・ベルナールは予選中、鈴鹿のヘアピン立ち上がりでスピンを喫し、コンクリート・ウォールに激突。衝撃でベルナールは左足を骨折し、折れたペダルに挟まれて身動きが取れなくなっていた。チーム・メイトだった鈴木亜久里が事故現場でマシンを降り、救出中のベルナールを励ましていた。その際、自身の怪我の状況が解らないベルナールは「お願いだから足だけは切らないでくれ。足切られるくらいなら死んだ方がマシだ」と泣き叫んでいた。亜久里はベルナールに「折れてるだけだから大丈夫だよ。またレース出来るから」と声をかけていたと言う。
これは、常に危険と隣り合わせのレーシング・ドライバー同士だからこその、リアルな会話である。もしもこれが一般人であれば、少なくとも「足切るなら死んだ方が良い」とは思えない。それほどまでに彼らは手足の切断という”最悪の事態”を恐れ、その恐怖と闘っている。そして亜久里もそれを解っている仲間/同業者だからこそ、その励まし方を知っていた。彼らにとって「またレース出来るから」という言葉は、何よりの励ましなのだろう。ちなみにその後ベルナールは無事F1に復帰し、’94年第9戦ドイツGPでは3位表彰台を獲得している。
最後にもうひとつだけ、紹介しておこう。手足の切断、という分野とは違ってしまうが、ある大事故がきっかけで、確実に大バケしたひとりの天才レーサーの話だ。
’68年9月28日、フィンランド出身のミカ・ハッキネン。彼は6歳の頃からモーター付き自転車でレースに出場するようになり、’90年にはイギリスF3を制覇。伝統のマカオF3ではミハエル・シューマッハー、エディ・アーバイン、ミカ・サロらと激闘を繰り広げ、ファイナル・ラップでトップのシューマッハーのリアにクラッシュして無念のリタイア。既にレース1を制しており、2位でも総合優勝確実だったのにも関わらず、レーサーとしての本能だけでレースをフイにし、泣きながらガードレールを殴り続ける姿は世界中にミカの名を知らしめることとなった。’91年にロータスからF1デビュー、’93年に名門マクラーレンに抜擢。しかし、ホンダを失ったマクラーレンは長い低迷期に入ってしまっていた。
’95年第16戦オーストラリアGP予選初日。ハッキネンのマシンのリア・タイヤが突然激しくバースト、マシンは眼の前の高速コーナーのバリアに真っすぐ突っ込んでしまった。ハッキネンはステアリングに頭部を強打し、意識不明の状態で急遽病院に運ばれた。
意識が回復した時、傍らにロン・デニスは開口一番「ミカ、すまなかった。コース上でタイヤが拾った異物が徐々にタイヤのエア漏れに繋がっていたのを、我々が気付かなかったんだ。だから君のせいじゃない」と謝った。するとハッキネンはなんと「なんだ、僕のミスじゃなかったのか。ならOK、大丈夫だよ」と答えたのである。
翌’96年の開幕戦は前年の最終戦、奇しくもF1カレンダーの妙で事故が起きた同じオーストラリア・アデレイド。ハッキネンは奇蹟の復帰を遂げ、何事もなかったかのように予選5番手のタイムを叩き出す。スタッフは大喜びし、ピットへと戻って来たハッキネンを拍手で迎えた。ところが、ハッキネンは大喜びのチームに対し、「おいおい、5位だろ?、ポール・ポジションでもないのに何を騒いでるんだ。こっちは勝つために走ってるんだぜ!」
デニスは「あの時ミカは変わった」と感じたそうである。そしてハッキネンは翌年初優勝、最強メルセデス・ベンツ・エンジンを武器に’98、’99年の選手権を連覇する。
…..もしもあの事故がなかったら…..いや、その答は解らない。しかし、こうしたきっかけでドライバー個人のドライビング・スタイルや、チーム体制などに変化が起きる可能性はあり、ハッキネンの事故はその両方に影響を与えた、と言えるだろう。
…..この原稿を書いている時点では、サンタコロナ病院に入院中のクビサが最後の手術を終え、無事成功したというニュースが最新である。病院関係者は口を揃えて「強靭なレーシング・ドライバーは精神力と回復力も強く、復帰も早い」と言う。しかし、一体いつクビサが再びF1のグリッドに帰って来られるかのは解らない。が、自身も、チームも、ファンも、それを願い、祈り、待とうじゃないか。頑張れ、ロベルト!。
「自分が愛するモーター・スポーツが、これを機にもっと安全になり、発展することを期待します」’03年10月29日/太田哲也
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“バリアの外側のマニア”加瀬竜哉が最新のF1ニュースをピックアップし、そのニュースの背景を持ち前のマニアックな視点から掘り下げ、更により解りやすく解説し、検証する。
no race, no life formula1 topics