『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
皇帝の帰還
ドライバー市場のみならず、新規参入”予定”チームの不確定情報も含め、例年にも増して勢力図/布陣が不透明なまま越年し、迎える2010年シーズン。結果的にBMWはザウバーと決別、ルノーはジェニイ・キャピタルに過半数の株式を売却するという道を選んだ。結局’10年のグリッドに並ばないチームは一方的な完全撤退を決めたトヨタだけとなったが、噂されるステファンGPの動向次第では、トヨタの準備していた’10年型マシンが開幕戦のグリッドに並ぶ可能性も未だ残されている。同時にドライバー市場も混沌を極め、少なくとも表面上は未だ多くの空席が残る。特に新規参入チームのイス取りゲームは熾烈を極め、いったいいくつのチームが、いったい誰が’10年の開幕戦グリッドにいるのか、ヘタすりゃ開幕当日まで解らない。
…..’09年12月23日、全世界が驚くニュースが発信された。
メルセデスGP・ミハエル・シューマッハー、である。
蜜月状態だったマクラーレンとの提携とは別にメルセデス・ベンツがF1単独参戦、それも’09年のWタイトル獲得チームであるブラウンGPを買収、マレーシア資本のペトロナスを冠スポンサーに、7度の世界王者であるシューマッハーとニコ・ロズベルグというドイツ人ドライバー布陣で望む、というのがこのニュースの概要である。
これまでもメルセデスがマクラーレンを買収するという噂は常に存在したし、もっと極端に言えばその蜜月度合いはもはやメルセデス・ワークスと呼んでも差し支えないほどのものに見えていた。加えて、経済状況とホンダ/BMW/トヨタの撤退によってF1に於ける自動車メーカー・ワークスという概念そのものが揺らいでいる真っただ中でのこの決断である。当然社内での反発の声は大きく、メルセデスの親会社であるダイムラーの労使協議会はこの決定に不満を露にしている。協議会長のウベ・ベルナーは「今何かを決断するとしたらF1からの撤退であり、ホンダやBMW、トヨタを見習うべきだった」とメルセデスの決断を激しく非難。総責任者であるディーター・ツェッチェは「フェラーリとルノー、そして我々しかいない今が最後のチャンス」と反論し、今後のアジア諸国へのマーケティングに向けて”攻め”の姿勢を取ることが重要だ、と説明する。
元よりメルセデス・ベンツのF1単独参戦は’55年のル・マンでの事故〜撤退以来55年振りのことであり、’50年代当時のレギュレーションにより”コンストラクターズ・タイトル”という概念が存在せず、そこから長い年月をかけてF1へ復帰し、マクラーレンと組んでようやくWタイトルを獲得したのが’98年(ミカ・ハッキネン)。以降ドライバーズ・タイトルは数回獲得するが両タイトル完全制覇はなく、今回の単独参戦にはメルセデスのワークス・チーム/ドイツ人ドライバーによる”完全制覇”への野望が込められている。そしてそれが現実となった時、初めて彼らにはF1を撤退するという選択肢が生まれるのである。そして、そこにドライバーとして迎えられたドイツの新鋭、ニコ・ロズベルグ。彼は’82年F1王者ケケ・ロズベルグを父に持ち、未だ未勝利ながら確実にチーム・メイトを凌駕する速さで次代のチャンピオン候補と目されるひとりである。
ちなみに’09年現在、現役ドイツ人F1ドライバーはセバスチャン・ヴェッテル、ニック・ハイドフェルド、ティモ・グロック、エイドリアン・スーティル、そしてニコの5人。他の何処の国よりも多いF1ドライバー人口を誇るこのドイツに於いて、既にレッド・ブルとの複数年契約を持ち、レッド・ブルでタイトル争いを繰り広げているヴェッテルは動かせない。メルセデスがドイツ人ドライバーふたりの布陣を望むのなら、残る選択肢は堅実で経験豊富なハイドフェルド、というのが大方の予想だった。が、彼らはそれをしなかった。驚くことに、’06年に現役を引退し、フェラーリのアドバイザーとして”生涯フェラーリ”を誓った筈の皇帝・シューマッハーを引っ張り出したのである。
’09年第10戦ハンガリーGP予選でクラッシュし、長期離脱を余儀なくされたフェリペ・マッサの代理としてシューマッハー復帰が計画されたが、数ヶ月前にバイクで転倒した際の影響によりこの復帰劇が流れたのはご存知の通り。フェラーリ、特にフェラーリ会長のルカ・ディ・モンテツェモーロは’10年以降のレギュレーションに”3台目を走らせる”という条項を盛り込むことに躍起となり、本人を含め多くのファン、全世界がもう1度フェラーリ/シューマッハーの姿を期待した。
ミハエル・シューマッハーというF1史に於ける偉業を成し遂げた人物を今更語る必要はないだろう。が、既に多くの年月が経過し、その影響力について具体性を持つことが難しくなった今、もう1度この天才F1ドライバーとメルセデスとの関係、そしてメルセデスとブラウンGPとの因果について記してみようと思う。
ミハエル・シューマッハーは1969年1月3日、ドイツのケルペンで煉瓦職人である父・ロルフと妻・エリザベスの長男として誕生。幼少期のミハエルは父の手作りカートに夢中になり、やがて本格的にレースへと没頭する。ただし、他の多くのF1ドライバー達のように裕福な家庭に育ったわけではなく、レースに夢中になるミハエルのために父ロルフはカート・レース場の管理人となり、母はそこでホットドックを売って生計を立てていた。多くの少年レーサー達が新品タイヤでレースに望む中、余裕のないシューマッハー家はミハエルに中古のタイヤしか与えることが出来なかったが、それでもミハエルの才能はこの不利な条件の中で開花し、’84〜’85年のドイツ・ジュニア・カート・チャンピオンとなった。
’87年、ヨーロッパ・カート・チャンピオンとなったシューマッハーは母国の雄・メルセデスの目に留まり、支援を受ける形でドイツF3へとステップ・アップ。’90年にドイツF3王者となり、シューマッハーは同じドイツの新鋭であるハインツ・ハラルト・フレンツェン、カール・ベンドリンガーと共にメルセデスの若手育成プロジェクトに抜擢され、SWC(世界スポーツカー選手権)へ参戦した。
ここで重要なのは、メルセデスはこの時点でF1復帰を果たしておらず、将来的な復帰へ向けて様々なカテゴリーのレース活動を行い、SWCではザウバーと組んでタイトルを奪取するところまで来ていた。が、彼らにとって’55年の事故による痛手は大きく、F1という最高峰カテゴリーへの復帰はまだ遠い話であり、当時F1はターボ禁止(’89年)から3.5リッターNAへとレギュレーション変更が行われ、ホンダやルノーの活躍を横目にエンジン開発を行っていた。
’91年、F1第11戦ベルギーGP直前、参戦初年度ながらその美しいマシンと意外な戦闘力で中堅チームとなっていたジョーダン・フォードのドライバー、ベルトラン・ガショーが護身用に違法なスプレーを所持していた罪で逮捕され、地元ベルギーGPへの参加が不可能となってしまった。メルセデスはジョーダンに対し資金を提供、シューマッハーがガショーの代役となってF1デビュー。この際初のF1ながら予選7位を獲得、レースでは1周目にリタイアしたがその天性の速さと適応力は注目の的となり、翌第12戦イタリアGPでは当時のトップ4であるベネトン・フォードに電撃移籍。このドライバー交代劇にはスキャンダル性も多かったが、結果的にアイルトン・セナ/アラン・プロスト/ナイジェル・マンセル/ネルソン・ピケというF1四天王時代に彗星のごとく登場した天才新人ドライバーとして多くの注目を浴びた。
翌’92年第12戦ベルギーGP、F1デビュー丁度1年となったシューマッハーは変わりやすい天候をしっかりと見極めて最強ウィリアムズ・ルノー勢を凌駕し、初優勝。デビュー16戦目/僅か1年での初勝利に人々は”セナの後継者”の称号を与えた。
’94年、シーズン序盤からウィリアムズ・ルノーのセナとの壮絶な優勝争いを制し、2連勝。迎えた第3戦サンマリノGPでセナが他界すると、既にプロストもマンセルもピケも引退していたF1はシューマッハーへ大きく期待をかけた。チームと自身のミスによる不利をはね除け、セナの同僚であるデイモン・ヒルを下して初タイトル獲得。翌’95年はエンジンをワークスのルノーへと変更し、遂にWタイトルを獲得。これはシューマッハー/ロス・ブラウン(監督)/ロリー・バーン(設計)の3人による、フェラーリやマクラーレン、ウィリアムズなどの名門チーム以外の完全制覇としてベネトンをトップ・チームへと押し上げることに貢献した。
その頃、メルセデスはアメリカでCARTを席巻したイルモア・エンジニアリングと提携し、’91年にレイトンハウス・マーチへエンジン供給。しかしこの時点では未だ”メルセデスのF1復帰”ではなく、あくまでも”様子見”としての提携である。ドライバーにシューマッハーと同じジュニア・チームのベンドリンガーを起用し、来るべきF1本格復帰に向けてのテスト参戦として活動していた。そしてシューマッハーが初タイトルを獲得する’94年にはSWC時代最強の相棒であるザウバーと共に遂にイルモアを”メルセデスV10″とし、ザウバー・メルセデスとして39年振りのF1復帰を果たした。が、チームはグリッド中団に埋もれる不本意なシーズンを終え、メルセデスはホンダの休止によってパートナーを失っていた名門マクラーレンとタッグを組む。マクラーレンは有名なマールボロの赤白のカラーリングを捨て、シルバー・アローへと変身。名門チームとの提携は確実に総合ポテンシャルの向上へと繋がり、’97年には3勝を挙げて、ようやくF1に再びメルセデスの名を轟かせた。
だが、この時点で誰もが予想していたシューマッハー+メルセデス、というごく自然な組み合わせは、事実上不可能なものとなっていた。何故なら、’96年シーズンに向けて既に2度の王座を獲得している皇帝・シューマッハーが選んだのはF1のシンボル、スクーデリア・フェラーリだったからである。
これ以降のシューマッハー及びメルセデスのF1での戦績はご存知の通りである。シューマッハーはベネトン時代の参謀であるブラウン/バーンと共にSWC/ジャガー・チームの監督であったジャン・トッド率いるフェラーリへと移籍し、低迷する名門フェラーリ再建に尽くす。対してメルセデスはマクラーレンとのパートナー・シップをより強固なものとし、奇才エイドリアン・ニューウィーとF3時代のシューマッハー最大のライバル、フライング・フィンことミカ・ハッキネンを擁して王座奪還を目指す。’98、’99年とハッキネン+マクラーレン・メルセデスが連覇し、’00年から5年連続でシューマッハー+フェラーリが圧倒した。ハッキネンの引退後は同じフィンランド出身のキミ・ライコネンがマクラーレン・メルセデスを背負い、皇帝シューマッハーに挑むが敵わず。シューマッハー+フェラーリの栄華は’05年にスペインの若き英雄フェルナンド・アロンソ+ルノーにタイトルを奪われるまで続き、皇帝は前人未到の96勝/7度の世界王座という記録を残し、’06年に引退した。そしてその後もシューマッハーはフェラーリのアドバイザーやテスト・ドライバーなどの役職を務め、常にフェラーリと共にあることを公言していたのである。
…..今振り返ってみると、不可解な流れではある。何故なら、SWCに於けるメルセデスのジュニア・チームは明らかにメルセデスのF1復帰の際に戦力となるドイツ人ドライバーの育成であり、事実シューマッハーのジョーダンからのデビュー、ベネトンへの移籍の裏にいるのはメルセデスであった。にも関わらず、結局シューマッハーがメルセデス・エンジン搭載のチームに行くことはなく、またメルセデスがF1でシューマッハー起用を目論んだ事実もない。もちろん水面下では動きがあったのかも知れないが、メルセデスのF1活動は明らかに”打倒フェラーリ+シューマッハー”だった。これはマクラーレンという、フェラーリと並び称されるトップ・チームと組む性ではあるが、メルセデスはその目的/選手権制覇に向け、よりによって最大の脅威となる敵を育て上げ、ライバルに進呈してしまったということになる。同期のフレンツェンはトップ・チームでも開花せず、ベンドリンガーは大きな事故を機に第一線を離れてしまったが、’90年代初頭からスタートしたこのジュニア・プログラムはメルセデスの野望を打ち砕く状況を作り出してしまったのである。そしてシューマッハーは引退後も”生涯フェラーリ”を公言し、マッサを自らの後継者と指名、その後もフェラーリへのサポートに費やして来た。従って、マッサの事故後にシューマッハーが代役として復帰するという話の際も、引退後3年が経過していることを危惧する声はあっても、そこに驚きはなかった。むしろフェラーリのために尽くすシューマッハーとしては当然のこと、と好意的に受け止められていたと言える。しかし結果的にシューマッハーの復帰は古巣とは言えライバル・チームからのものであり、しかも契約発表後、メルセデスのスポーティング・ディレクターであるノルベルト・ハウグは「ミハエルと復帰の可能性について最初に話したのは半年ほど前(’09年6月頃)だ。彼のレーシング・キャリアはメルセデスと共に開花したし、F1に来てからも『いつか一緒に』といつも話していたからとてもハッピーだ」と、シューマッハーとの交渉が早い段階から行われていたことを明かした。’09年6月と言えば、ブラウンGP/ジェンソン・バトンがトルコで7戦6勝目を挙げ、マッサのクラッシュも未だ起らず、フェラーリにドライバー交代の必要性、つまりシューマッハーの復帰に関しての噂など一切なかった時期である。その頃から、既に水面下ではメルセデスGP/ミハエル・シューマッハー構想が具体化し始めていたのである。となれば、叶わなかったシューマッハーのフェラーリ復帰劇もメルセデスにとっては好都合、丁度良いリハビリ程度に思われていたのかも知れない。
当然これにはフェラーリ・ファンが黙ってはいなかった。何故ならシューマッハーの決断は”裏切り”と取られる行為であり、モンテツェモーロは「ミハエルにはメルセデスでF1を走りたがっている双子の兄弟がいる」と皮肉たっぷりにコメントし、イタリアの新聞には”裏切り者”の文字が踊った。同様に、これまで素晴らしいパートナー・シップによって闘って来たマクラーレンにとっても、メルセデスの決断は不可解なものだった。メルセデスは基本的にマクラーレンとの提携を”終了”し、今後は新たな形態による協力関係により’15年までのエンジン供給契約を結んだ、と発表。マクラーレンはマクラーレンで”独自の戦略目標”を掲げ、現在メルセデスが所有する株式40%を’11年までに買い戻すことで合意。言わばマクラーレンとメルセデスはエンジン供給を継続しながらも袂を分かった、ということになる。これは前FIA会長のマックス・モズレーの置き土産であるコスト削減案から発生した低予算チーム運営に於ける方法論への両者の見解の相違が大きいと思われ、今後もレーシング・チームとしての発展/継続を望むマクラーレン・グループと、メーカー参戦の将来性に疑問符のつく時代を目前に短期決戦を望むメルセデスとの間に明らかな温度差が生じた結果である。つまり、マクラーレンは長期に渡ってメルセデスが望んで来たチーム買収/メルセデスの完全ワークス化を拒み続け、最終的に時間切れとなった、と考えられる。
メルセデスGPが誕生した裏にいるもうひとりの重要人物はロス・ブラウンである。ベネトン時代の2度に加え、フェラーリ時代の5年連続タイトルを共に獲得したシューマッハーにとって最高の幹部であるブラウンが’09年にやってみせたこと。それは低迷し、巨大資本が逃亡したあとのチーム再建と僅か1年でのWタイトル獲得、という偉業である。開幕直前にようやく搭載の決まったメルセデス・エンジンを載せたニュー・マシンで名門チームを凌駕し、更にシーズン中のドライバー・マネジメントも巧みに行い、まるでチャンピオン・チームのタイトル防衛のような締めくくりを余裕で行えるブラウンこそ、メルセデスとシューマッハーに必要なものだったのである。
’09年のフェラーリ・マシン、F60はKERS搭載も含み、非常にナーバスなマシンだったことは、途中で戦線離脱したマッサの代役となったルカ・バドエル/ジャンカルロ・フィジケラの走りを見ていても明らかである。逆に、マッサを欠いた後に孤軍奮闘したライコネンの適応力が特筆すべき点であることも疑いようがない。そこに、実際に引退後3年を経たシューマッハーが関わって来るのも、今となっては「翌年のメルセデス参戦へのリハビリテーションのつもりだったのでは」という疑いさえ持たれるのも納得出来る。しかし結果的にドクター・ストップによってシューマッハーのフェラーリ復帰は幻に終わり、3年間のブランクを経たシューマッハーの現状の力は不透明なまま、全ては’10年開幕戦オーストラリアGPで明らかにされることとなる。
皇帝・シューマッハーが帰って来る。我々はその復帰を、アスリートとしての本能による純粋な行動として歓迎する。しかし、最新マシンに乗る機会のない新人ドライバーと同等の不利な条件の中でいったい皇帝がどのようなリスタートを切るのか。’09年からのスリック・タイヤに加え、給油禁止となる新レギュレーションの下、3年間のブランクを持つシューマッハーがどれだけ母国・ドイツの巨星を背負って走れるのか。
…..忘れてはいけない。皇帝は今日(1月3日)、41歳になったのだ。
「自信がなきゃ戻ってなんか来ないさ!」/ミハエル・シューマッハー