訃報 レイトンハウスF1赤城代表逝く
◆平成30年8月8日、レイトンハウスを率いた赤城明さんが亡くなったという知らせが届いた。またひとつ、昭和が終わった。心からお悔やみを申し上げ、安らかにお休みくださるよう、お祈りします。
◆レイトンハウスは、1987年から1991年まで、F1で活躍した日本のチームだ。イーヴァン・カペリとマウリシオ・グージェルミンのドライブで、特に1988年に素晴しいレースを展開し、赤白のマールボロ・カラーと共に、レイトンカラーを印象付けた。マシンは、ウィリアムズ、マクラーレン、そしてレッドブルの黄金時代を築き上げたエイドリアン・ニューウェイの出世作。
◆レイトンハウスは、富士フレッシュマンレースに始まり、F1にまで参戦する勢いだったから、バブル期とはいえ、派手な活動としてインパクトを与え、反比例するように勝手な憶測や誤解が広がっていたが、赤城社長は、本質的にモーターレーシングを深く理解されている方だった。
◆1988年だったと思う。スパ-フランコルシャンのベルギーGPで、フリー走行が雨で長時間中断していた。気温が低く、寒かったのだが、赤城社長は、カペリのバイザーを拭き、メカニックやオフィシャルに暖かい紅茶を振る舞った。高見の見物ではなく、率先してそういうことをする方だった。
◆イーヴァン・カペリが、1988年のポルトガルGPで、アラン・プロストに次ぐ2位に食い込んで表彰台に上がった後、表彰台の下で待ち受けた関係者が、赤城さんにつないだ当時はまだ大きかった携帯電話をカペリに渡した。カペリは開口一番、「約束、覚えてますか?」と叫んだ。表彰台に上がったら、愛用の時計をプレゼントすると言っていたのだ。カペリのジョークに赤城さんは「覚えているよ」と答え、数日後に、カペリにその高価な時計が届いた。
◆素晴しいのはここからの話だ。週刊誌には、金に飽かせてメカニックにロレックスをバラまいた、と面白おかしく伝えられたが、事実はまったく違っていた。カペリは、届いた時計が自分には分不相応と考えて、父親にプレゼントした。それを聞いた赤城さんは、カペリのお母さんに、ペアの時計を届けた。
◆入院生活の間も、モータースポーツ専門誌を何冊も常に手元に置いて、新たな知識を仕入れていたが、そうしたことを語らない人だった。天国で、後期のレイトンハウスのコードネームに頭文字“CG”と着けられたカペリのマネージャーだったチェザーレ・ガリボルディと、楽しい会話が弾んでいるのだろうか。
赤城さん、大変お世話になりました。安らかにお休みください。合掌。
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