ホンダとマクラーレン、いったいどうなる?–1/3
ホンダがマクラーレンと別れるとか別れないとか。いろいろ世間が騒がしいが、結果は、“なるようになる”。無責任に聞こえるかもしれないけれど、あたかも現場で契約書や契約の話を直接見聞きしているような意見を伝えることよりも、これがはるかにマトモと思う。
◆プージョーの二の舞?
間違いない事実だけを見ていこう。想像はその後で、ということで。
まず、ホンダのパワーユニットのポテンシャルがマクラーレンの期待どおりではないこと。これは、マクラーレンだけでなく当のホンダも同じ理解だろうが、問題は、それをどう解釈するか、だ。
マクラーレンの、特にブーリエ・チーム代表は、事あるごとに文句を垂れ流しているが、そもそも車体とパワーユニットは一体として戦っているわけで、お互いを揶揄して責任逃れをすることが正しいかどうか、ブーリエ代表には少し冷静になって考えてほしいところだ。
もっとも、ロン・デニスとの覇権争いに勝ち、現在、マクラーレンの権力を掌握しているマンスール・オジェイの言いなりのブーリエは、ホンダがあまりお気に召していないオジェーに揉み手をするためにホンダをボロクソに言うのはある意味まっとうな思考回路だが、それ以前にフランス人であり、ルノーに鞍替えしたいと思っていて、むしろホンダの体たらくを希望しているのではないか、という気さえしてくる。
ところで、フランスとマクラーレンといえば、1994年を思い出す。ホンダが撤退してから2年、セナもチームを離れた年に、マクラーレンはフランスのプジョーと契約した。
当初から、“腰掛け”といわれていたプジョーは、わずか1年でマクラーレンと別れた。マクラーレンのプジョーに対する目的は、メルセデス搭載のためのつなぎとしてだけであり、プジョーじたい、本気でF1を戦う気はハナからなかった、と言われた。仮にプジョーがいいパフォーマンスを発揮したとしたら方向は変わったかもしれないが、そうはならず、プジョーは、マクラーレンを1年で別れた後、ジョーダンとプロストといういずれも今はなきチームに3年ずつエンジンを供給し、都合7年間F1を戦って、2位を最高位に、静かに去っていった。
ジャン・トッドの采配もあってパリダカやルマンで縦横無尽の活躍をしたプジョーの力に、マクラーレンの期待がなかったかといえば、NOではなかったかもしれないが、当時のF1とルマンのテクノロジーレベルには雲泥の差があったことをマクラーレンが知らないはずもなく、やはり腰掛けだったというのが普通の見識だった。
では、今のホンダはどうか。マクラーレン・ホンダといえば、ファンの多くは、セナとプロストで16戦15勝したマールボロ、カラーを思い出すだろけれど、実はマクラーレンじたい、ホンダの『昔取った杵柄』に対して期待していたかもしれない。
“第二期マクラーレン・ホンダ”の発表当時のチーム・代表のマーチン・ウィットマーシュは、ロン・デニスに比べると肩書に“歴戦の”とつけにくい経歴だった。F1に対する想いは、ロン・デニスに比べるべくもなく、金目当てと言われたが、だったとしても、それなり以上の期待をホンダにしていた可能性はある。
そもそも、マクラーレンがメルセデスと別れてホンダと契約した裏には、メルセデスの供給を受けている限り、本家以上のパワーユニットにありつけない。ホンダなら“絶対的な№1”として契約できる、というものだった。
しかし、スタートしたマクラーレン・ホンダ・プロジェクトは、2年目に上昇気流に乗るかに見えながら、結局3年目の今年も、状況が好転しないままでシリーズが進んでいる。どうしてこうなったのだろうか。それを解明するには、F1復帰を決断した伊東孝紳社長は、何をしたかったのだろうかを知ること、かもしれない。
(2/3に続く)
[STINGER]山口正己