【緊急特集】F1から見る未来像①–桜井淑敏さんに聞くホンダのテレメータリング2/3
(その1/3からつづく)
◆開発だけではないリアルタイム情報
桜井が、ヨーロッパと日本をつなぐ『沸騰型』を想定し、具体化していくなかで、1989年11月に東西ドイツの壁が崩壊するが、その数年前、ハンガリーGPの時に興味深い現象に気がついた。
共産圏の東側の共産圏の国だったハンガリーが、軍事的な情報を収拾するためと想像される通信用の人口衛星を打ち上げていたことを知ったのだ。
「東西冷戦構造がまもなく終わりそうだと。そうした東西融合する流れから、その衛星が不要になるだろうと想像できた。そのひとつのデモンストレーションとしてハンガリーでF1グランプリが行なわれた、というようなことがかってきたんです」
案の定というか、桜井の予想通り、ハンガリーがいわば衛星レンタルを始めた。そこで、その衛星をレンタルして、レースや予選の時の数時間、衛星回線を使って和光研究所に飛ばすことを検討した。
しかし、地球が丸いため、日本に飛ばすにはもう1カ所の衛星を経由する必要があったが、やはり衛星を持っていたIBMが、協力を申し出て、その衛星を使うことになった。結果、本来のリアルタイムではなく、10分-15分の遅れが出たが、ここから、各部が改善され、現地と和光研究所で、リアルタイムでデータが共有できるようになっていく。
「F1GPの現場と和光研究所の全員が、都度意見を交換できるようになりました。それを元にエンジンの改良や翌年のエンジン開発に材料とすることが、リアルタイムで可能になったのです」
◆人事情報まで包括する
通信方向は、現地から和光とは逆に、研究所のベンチで回っているエンジンのデータもイギリスのホンダの前線基地に送られ、鈴鹿サーキットで中嶋悟がテスト走行を行なったデータも、リアルタイムでイギリスで確認できるようになってゆく。
「さらにそこに、エンジンのデータだけでなく、人事情報や転勤の情報なども、今で言うネットの様な形で載せるようになります。海外に赴任していると、自分がいつ帰国できるかを含め、人事が気になるんですね。それもリアルタイムでイギリスの現地に出張していても確認できるようになった。要するに、テレメータリングのおかげで、距離感が一気にゼロに近づいた。これを2年足らずで完成させたんです」
◆予算管理も一目瞭然
テレメータでの管理によって、予算管理から、事務局の作業も格段に進化した。例えば事務局でエンジニアの渡航を計画するとき、場合によっては、日本からヨーロッパへのフライトは、アメリカ経由の方が時短できたり、経費的に安く済むなども判断できるようになった。エンジンデータを送信するテレメータから、今で言うインターネットのない時代の1986年からホンダはその方法を手がけ、30年以上かけて普遍化した。
◆シミュレーション
桜井淑敏の退任後、数人の部隊によってシミュレーション技術が成長し、今と同じようにF1のテストが例えばポルトガルのエストリルだけに制限されていた当時、他のサーキットに落とし込んで、低速のモナコから高速のモンツァやシルバーストンのなかで、どのコースを重要視してマシン開発を行なうべきか、タイムや耐久信頼性の予測ができるようになった。
◆テレメータは、コロナ対策に直結する
ホンダが実践したテレメータとテレワークの“テレ”が、微妙に異なることが分かった。
「ホンダは、創始者の本田宗一郎が“引っ張って行く”という形態の中で、ある日からその存在がなくなった時に備えてというか、“みんなでやっていく”という形を作ってきた。社長室がなく、役員が同居する大部屋という思想は、テレメータが拡大した情報の共有化で、20代の若手からベテランまでがワイガヤで意見を出し合うホンダの思想が、F1GPにもそっくり反映されていたのです」。
桜井の念頭にあったのは、『レースに勝って世界一になりたい』という想いだった。これは、CVCCで公害問題を乗り切った桜井スタンスとしてずっと継続するものだった。その結果、絶え間なく進化する集団としてのホンダのスタイルがF1の現場でも踏襲されることになった。テレメータリングを構築したことで、参加する全員が共通認識をもって開発に向けて効率的な展開が可能になったのだ。
(その3/3につづく)
[STINGER]山口正己
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