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柿元邦彦

柿元邦彦(かきもとくにひこ)
 1945年8月17日、第二次世界大戦終戦の二日後に、鹿児島県姶良郡蒲生町(現鹿児島県姶良市蒲生町)で誕生。血液型はB型。
 日産自動車でモータースポーツに関わり、日産レーシングチーム総監督をはじめとする要職を歴任。
 その間東海大学工学部教授も兼任する。
 2016年からニスモ・アンバサダーを務め、現在に到る。

経歴
【幼少期から日産入社まで】
母方の祖父である湯之原友一は大地主であり、町議会議員や焼酎「楠乃香」を製造する蒲生醸造株式会社の社長も務めた。

戦後、農地解放で土地はただ同然で手放さざるを得なかったが、残った林業振興に努め、短期伐採を可能とする肥培林事業に尽力した。これは高く評価され幼年時の柿元に大きな影響を与えた。

父柿元邦男は、建築技師で地元の税所建設の常務を務め今も残る蒲生町の公共施設のほとんどを手掛けている。

故郷の鹿児島県蒲生中学から加治木高校に掛けてサッカーのクラブ活動に熱中し、蒲生中学時代は鹿児島県大会で準優勝を飾っている。

鹿児島大学工学部時代は空手の修行を積み、少林流空手道2段の有段者となった。サッカー時代に鍛えたキック力で前蹴りを得意としたが、練習試合で同僚の顔を傷つけたことから、以降はメンタル面だけの空手道に徹している。

また薩摩(鹿児島)に残る「義を言うな(男は議論するな)」の風習に染まり、大学入学までは喋る機会が少なく無口な少年だったが、大学の同期生の半数は県外出身であり、彼らの“お喋り”に驚くと同時に徐々に感化され、日産自動車入社で更に語ることの重要性を認識し、語り過ぎる(本人談)現在に至っている。

自動車は、幼い頃から興味を持っていた。柿元の幼年期は、木炭バスが走っていた頃であり、自動車じたい珍しいものだったが、たまにガソリン・エンジンのトラックが来ると、その甘い排気ガスを嗅いで喜ぶ少年だった。その後、会社の社長車オースティンを、時折父親が運転して帰ってくることがあったが、その度にハンドルにぶら下がって遊んでおり、将来の夢は、父親の建築関係ではなく、当時からクルマへの憧れを持っていた。

柿元が大学3年生の時に転機といえる映画に出会った。フォード50周年記念で制作された映画『男と女』である。

モンテカルロ・ラリーでフォード・ムスタング、ル・マン24時間レースでフォードGT40が走る姿に衝撃を受けた柿元は、クルマ、中でもレースやラリーをやりたいと強く思うようになった。かねてから都会への憧れもあったことで、横浜に拠点を起くラリーに熱心な日産入社を目指したのは自然な流れでもあった。

日産入社
1968年に日産に入社したが、モータースポーツ部門への希望者が多かったことから、配属希望面接までの間、英会話学校に通うなど努力を重ねて関門を突破、ラリー部隊への配属を勝ち取った。

しかし、モーターレーシングの責任者であった難波靖治課長の顔を曖昧にしか認識しておらず、居丈高な態度の難波課長を課長とは思えず、大人しそうな部長を難波課長と間違えていた。それ以来1972年のサファリラリーで自身の開発したECGI(電子制御燃料噴射装置)が大活躍するまで、難波課長に褒められることはなかったが、その後は仲人を頼む間柄となり、1984年にNISMOが創設された時には技術責任者として創立メンバーに加えてもらった。

ECGIも、後にニッサンと合併するプリンスの“7人の侍”と呼ばれたドライバーの一人であった古平勝と共に、市販エンジンにターボを装着した制御装置として流用し、ローレルに搭載して生産車開発部隊の上層部に試乗を提案、1980年に、日本車として初のターボ仕様量産車となるニッサン・セドリックに搭載して市販化につなげた。

初めての海外出張は、1979年にドライバーの長谷見昌弘と遠征したブルネイGPだったが、そこで結果を出し、その後、長谷見昌弘とマカオGPなどに頻繁に出かけることになる。ラリーは1980年のドイツのラリー選手権に参戦したが、環境保護派政党の“グリーンパーティ”の要求によってラリールートが頻繁に変更されるのに驚かされる場面もあった。

1982年のサファリラリーでは、難波課長の愛弟子若林隆監督の元で、ケニア人ドライバーのシェカー・メッタの4連覇をエンジニアとして支え、海外で仕事をするために何が大事かを学び、その後の糧とした。

【独り立ち】
1984年から、ニッサンのモータースポーツを統括するNISMO(ニッサン・モータースポーツ)に出向し、スーパーシルエット車やグループC車の開発やレース参戦に取り組んだ。スーパーシルエットはシフトダウン時に排気管から派手に炎を吹き上げて迫力を演出するなどの工夫も手がけた。第1期ル・マン24時間レース参戦では、ハードの準備から手がけ、ニッサンのエンジンを搭載したル・マン初参戦のマーチ85Cで16位完走を果たした。

1990年には日産へ復職し、スポーツ車両開発センター次長として、スカイラインR32GT-Rでの国内グループAの参戦、パルサーGTI-Rでの世界ラリー選手権(WRC)への参戦を担当。

R32GT-Rは、日産開発部隊が、「1990年 までに技術の世界一になる車作り」を目標としたニッサンの“901活動”の一環として、グループAに勝てる車を標榜して開発されたことから、デビューウイン以降負けなしの29連勝を達成。その間、スパ24時間レースも制し、FIA(国際自動車連盟)が慌てて4駆車にはハンディウエイトを課す事態を呼んだ。いずれにしろ連勝に次ぐ連勝の”一人勝ち”によって、グループAレースが消滅。一方でパルサーGTI-Rは、ボンネット上に配置されたインタークーラーがラリー条件では十分に冷えず、1991年の中盤でWRCから撤退となった。

【全体をまとめる立場へ】
時はバブル崩壊で、予算減が喫緊(きっきん)の課題となる中、いかに日産のモータースポーツを存続させるかを担ってスポーツ車両開発センターの部長を務めた。後に日産社長となる塙義一氏との間でル・マンへの復帰を検討していた1996年、再びNISMOへ復帰。第2期ル・マンに取り組み、1998年にニッサンR390で日本人だけのドライバー(星野一義、鈴木亜久里、影山正彦)のトリオで、初の表彰台総合3位を獲得した。この時の参戦は、当時の安達二郎NISMO社長の発案で草の根運動の一環として、「クラブ・ル・マン(現在のクラブ・ニスモ=https://club.nismo.co.jp/)」を立ち上げてプロジェクトの推進を図った。

一方でバブル崩壊も相まって、国内のグループC、グループAが消滅する中、それらの車両を性能調整やウエイトハンディ制の負荷をコントロールしながらレースカテゴリーの永続性を図るJGTC(ジャパンGTチャンピオンシップ=後のスーパーGT)の立ち上げに参画した。

【日産系スーパーGTチーム総監督】
NISMOはル・マンへの参戦と同時に当然JGTCへの挑戦も行なった。スーパーGTとして発展していく中、柿元は日産系スーパーGTチーム総監督の立場で各チームを率い、2004年から2015年までの12年間で6回の年間チャンピオンを獲得。

【勝率5割】
NISMOチームのアンバサダーとして、2004年から2015年の12年間に、総監督のポジションで96戦を闘っているが、その間の勝率は5割。トヨタ、ホンダ、ニッサンの3メーカーが凌ぎを削る状況の中で際立つ好結果を納めた。

レースは一定の競技規則の下でフエアに戦うことを常とする。その規則の制定や解釈の仕方も重要になる。一方的に自分たちが有利になるようにしたくても、相手がある話で思惑通りにはいかないが、そこを何とかしたいという思いは、常に柿元の脳裏にあった。

【JAFでの立場】
JAF(日本自動車連盟)はFIA(世界自動車連盟)の管轄の下、日本のモータースポーツを統括している。柿元は様々な立場でJAFの各委員会などに関与し、モータースポーツの最高の諮問機関である審議会やモータースポーツ振興ワーキンググループの座長を務めた。

2008年のリーマンショック後の世界経済不況のもと、日本のモータースポーツ界も危機感が募ったが、3メーカー(トヨタ、ホンダ、ニッサン)としての打開策が検討されている中、鈴木亜久里氏の口利きで、スーパーGTを主宰するGTA(GTアソシエーション)と、ドイツのDTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)との協議が始まった。

JAFマニュファクチャラーズ部会の部会長だった柿元は、3社に加えGTAの坂東正明代表も参加したチームを構成してDTMとの協議を続け、2014年からの技術規則統一に漕ぎつけた。その後、DTMは消滅したがスーパーGTは、現在も状況に呼応する工夫を加えて進化している。

【自動車技術会】
東海大学の林義正教授と共にモータースポーツの普及・振興を図る目的で、学会としては日本最大を誇る自動車技術会に、「モータースポーツの技術と文化」をテーマとしたモータースポーツ部門委員会を2014年に立ち上げ、シンポジウムなどの開催を定例化した。

【東海大学工学部教授】
NISMOの役員定年(柿元は常務取締役だった)は62歳であり、2007年6月で退任が決定しており、翌2008年6月にはNISMOには籍はなくなるはずだったが、その状況をみた日産時代の上司であり、恩師ともいえる林義正東海大学教授から、東海大学教授が公募されることを知らされ、諸手続きを経た後、2008年4月から東海大学で教鞭をとることになった。

一方でNISMOの眞田裕一社長(当時)からは、「2008年以降も総監督はそのままやってもらう。教授職と兼務は出来るだろう」と宣告される。工学部動力機械工学科教授として、熱力学や伝熱工学、エンジン工学、動力伝達工学、熱力学実験、卒業研究などなど週に3日はフルに稼働。卒業生の就職相談も職務に含まれ、さらに、中間/期末試験の時期は、約800枚の回答用紙の採点をこなすために、連日の徹夜状態が続いた。結果として、NISMOの仕事は週2日と週末に集中して当たったが、人生で最も忙しい時期が62歳を過ぎてからだったことになる。

【第3期ル・マン参戦】
2015年参戦に向けGT-RLMニスモの準備が始まったが、当時の宮谷社長から“もっと上のポジションでやらないか”とオファーを受けたが、このプロジェクトはアメリカを主体としたもので英語にまったく自信がなかったために、まとめきれないと思って断った。プロジェクトが2015年の1年で終わらざる得ないという散々な結果だったことに対して柿元は、「申し訳なかったと今でも悔いているけれど、私が担当したとしても、前輪駆動でスルーダクトの空力、メカニカル式エネルギー回生という新奇なアイデア先行のマシンは、耐久レースのル・マンでは手に負えなかったと思う」と回想している。

【NISMOアンバサダー】
2015年に総監督を勇退し、2016年からアンバサダーに就き8年が経過しているが、レース時のトークショーや、ファンサービス、スポンサーへの解説など、長年の柿元の歴史や経験を活かす活動を続けている。

【著作他
2005年から「月刊誌レーシング・オン」の福江剛司編集長からの提案で、毎号4000字のコラム『柿元邦彦のモータースポーツ概論』を約5年間に渡り寄稿。これは、柿元の“深く考え、その結果を言葉にする習慣”を鍛え、その後の教授職やオートスポーツ誌のコラム、NISMO HPへの『戦うは千草なり』などの執筆にもつながった。それらの集大成として2017年に著書『GT-R戦記』を上梓した。

☆☆☆☆☆☆

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