F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

スクーデリア・一方通行/加瀬竜哉

謹んでご報告申し上げます。
『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。

[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。

[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己

2011年1月28日

ペイ・ドライバー再来?

開幕が待ちどおしい2011年F1世界選手権。もうこっちも慣れたモンではあるが、この期に及んでいくつかのチームが未だドライバー・ライン・アップを未決のままでいる。が、当然水面下で多くの浪人ドライバー達がチームと契約に関して細かいやりとりの真っ最中であり、そこには相当巨額なお金が蠢いている、と考えて良い筈である。では、準備不足というリスクもある筈なのにチーム側がなかなか正式発表しないのはいったい何故なのか。
以前、ここスクイチで”お金のハナシ。“と題し、F1チームの運営資金からドライバーのギャランティに至るディープな話題を扱ったことがあったが、これがおかげさまでなかなか好評、今更ながらこのモータースポーツの頂点であるジャンルに於けるお金の位置付け、そしてスポーツとは、選手(ドライバー)とはなんたるか、などの議題にも突っ込んだのが功を奏したのかも知れない。ともあれ、”実力のみでは走れず、お金だけでは勝てない”というこのジャンルの難しさを少しでもビギナーの皆さんに伝えることが出来たなら幸い。
さて、このところ目一杯F1チームのシート争奪戦を難しくしちゃった感のある話題に、インド人初のF1ドライバー、ナレイン・カーティケヤンがHRT(ヒスパニア・レーシング)から5年振りにF1復帰、契約スポンサー料はチームの年間運営資金の1/3と言われる1千万ユーロ(約11億円!)を持ち込んだ、と言うニュースがある。また例によって金に細かいコリン・コレスのこと、もしもカーティケヤン・サイドの支払いがちょっとでも滞ったら、いったい誰が代わりに出て来るか解ったモンじゃない。
また、ウィリアムズが’10年のゴールデン・ルーキーのニコ・ヒュルケンベルグを泣く泣く捨て、巨額のベネズエラ・マネーを持ったパストール・マルドナドを起用せざるを得なかったのもF1の現状を良く表している。かのフランク・ウィリアムズが、金にさえ困ってなきゃ絶対にあんな掘り出しモノ(ニコ)を放出するワケがない。なんたってあの中団グループのウィリアムズ・コスワースで第18戦ブラジルGP予選ポール・ポジション獲得だぜ?。チーム5年振りの快挙だぜ!?。で、そんな逸材を捨ててまでまたも新人ドライバーを獲らなきゃならないところがウィリアムズの深刻な事情なんだな。

…..さあ、今回のテーマはズバリ”ペイ・ドライバー”だ。非常に残酷な言い方をしてしまえば、実力や成績よりも巨額の持ち込み資金によってF1のシートを射止めた者。ただし、中にはそのチャンスを活かし、自らの腕で好成績を残した者もいるし、反面「ああやっぱり」的な結果しか残せなかった者も大勢いた。が、元々は貴族や金持ちの道楽として始まった自動車レース、当然過去のF1黎明期を含め、長い自動車レースの歴史を語り始めればそんな例はキリがなく、ここに紹介しきれるほど少なくもないので、ここではおそらくここを御覧になってる皆さんの平均年齢と、’76年富士デビューの筆者の記憶に強く残るペイ・ドライバーを紹介することにする。

まずは’70年代。
筆者が1976年のF1イン・ジャパン@FISCOで初めてF1マシンを目の当たりにした際(当時小学生)、何もかもが未知の世界であったのはご想像の通りだが、徐々にF1にのめり込んで行くに連れ、どうにも子供のアタマでは理解出来ない事柄がいくつかあった。その中のひとつが、各チーム基本2台態勢でカー・ナンバーが連番、または小規模なチームは1カー態勢での参戦が基本のようなのだが、たまにカー・ナンバーが離れた3台目のマシン/ドライバーが、それも違うチーム名で走っている例があることだった。例えば’76年シーズン、タイレル(所謂ティレル)は”エルフ・チーム・タイレル”としてナンバー・3にジョディ・シェクター、4にパトリック・デパイエをエントリー。んで、どうやらこれがワークス・タイレル。で、エースのジョディの弟であるイアン・シェクターがカー・ナンバー15で、チーム名は”レキシントン・レーシング”。更にカー・ナンバー39にオット・ストウパッシャー(OSACレーシング)、40にイタリアのアレッサンドロ・ベゼンティ・ロッシ(スクーデリア・ガルフ・ロンディーニ)、更に当該の第16戦富士では我が日本の星野一義がナンバー52でヒーローズ・レーシングからエントリー。これがどうやら”プライベート・チーム”ということらしい。ただし、ワークスのふたりが新車P34に乗っているのに対し、プライベート参戦の3人は旧車007、という状況である。他にもブラバムがワークス2台+プライベート4台、マーチがワークス2台+プライベート2台などなど。そして、もうひとつプライベート・チームがワークスと決定的に違うのは、そのマシンのカラーリング及びスポンサー・ロゴである。簡単に言えば確かにマシンはタイレルでありブラバムなのだが、その見た目はかなり独創的で、特にワークス・チームのデザインに馴染みがあればあるほど、その特殊な違和感を持つ見た目が不思議な魅力を持って見えて来る。
’70年代で筆者が記憶に強く残っているのは、メキシコ出身のヘクター・レバークといドライバーである。
レバークはメキシコのホテル経営による大富豪の家庭に育ったスポーツマンで、’77年第7戦ベルギーGPにヘスケスからF1デビューし、第11戦ドイツGPで初の予選通過〜決勝リタイア。数戦乗った後に自身のチーム”レバーク”を発足、翌’78年にはチーム・レバークとしてロータスの名車、78を購入。第11戦得意の(?)ドイツGPで初の6位初入賞を記録した。翌’79年にはペンスキーのマシンを購入し、”レバークHR100″として参戦。レバーク本人はこのあたりで上位に食い込めぬ現状からF1に一旦見切りをつけるが、’80年に地元メキシコのスポンサーがブラバム・チームのナンバー2・シートをゲットし、初のワークス参戦。しかし後に3度の世界王者となるエースのネルソン・ピケ相手に歯が立たず、’81年のフル参戦を最後に引退。参戦中、予選でただの1度もチーム・メイトを上回れなかったのがレバークの実力の全てを表していた。それでも”道具”に恵まれた’81年には最高位4位(3回)を記録、ただしこの年、同僚ピケは初の世界王者となっている。
ノーズにメキシコ国旗が描かれたチーム・レバークは、これまでF1史上唯一のメキシカン・チームである。「自身のチームで2年やったが、状況は好転しなかった。マシンを壊さぬよう、無事にゴールまで運ばなくてはならなかったし、スポンサーに対しても申し訳なかった。だから自分のチームを興すことにしたんだが…..今考えればあまり効果はなかった、と言わざるを得ないね」と後年レバークは当時を振り返った。が、成功した名門チームのシャシーを購入して出走しても、決してワークスのような速さに繋がらないのが、チーム力でありドライバー力であることをこの少年が知るには丁度良い存在であった。そして何より、ワークス・チームに比べて明らかに”ダサい”、彼らプライベーターのマシン・カラーが何故か妙に愛おしく感じたものである。

続いて’80年代。…..この時代に関しては相当多くのペイ・ドライバー達がF1のパドックに犇めいていた。よって、誰かひとりを選出するのは極めて難しいのだが…..敢えて選ぶのならアンドレア・デ・チェザリスだろうか。’76年イタリア・カート王者、’79年イギリスF3選手権2位のキャリアは見事なものである。が、’80年にF1デビューを飾るチェザリスには、”そこにいる”ための極めて大きな要素が存在した。実は、彼はフィリップ・モリス社/マールボロの重役の御曹司だったのである。
ただし、チェザリスは実際に速かった。が、同時にそのドライビング・スタイルは極めて荒かったのも事実である。極端な言い方をするなら「金の心配はいらないから思い切り突っ走って来い」と言われてそのまま突進するタイプで、’83年第13戦カナダGPでマールボロがメイン・スポンサーを務めるアルファロメオからF1デビュー、いきなりの予選8位。フル参戦初年度の’81年は名門マクラーレンへと移籍し、第4戦サンマリノGPで6位初入賞。しかしリタイア回数は8回を数える。’82年にはアルファロメオへ復帰し、第3戦ロングビーチGPで22歳(当時歴代最年少記録)での初ポール・ポジション獲得。また第6戦モナコで2位、第7戦デトロイトでも予選2位と、度胸と技術が問われる公道レースで滅法速いところを見せつける。が、結果的に見れば入賞はモナコの3位と第8戦カナダGPの2戦のみ、リタイア回数は10回。’83年、第6戦ベルギーと第10戦ドイツで予選3位、決勝はドイツと第15戦南アフリカGPでの2位2回、リタイア回数は9回…..速いが荒い。人々はチェザリスを”クラッシュ・キング”と呼び始めた。それも「いくら壊してもパパとスポンサーが許してくれるだろう」という揶揄を込めてである。’84年、チェザリスはフランスのリジェ・チームへと移籍。しかしここでも時折見せる速さとは対照的に、入賞2回(5位/6位)で目立つのはリタイア9回。翌’85年は第4戦得意のモナコで3位表彰台を獲得して見せたが、シーズン中盤に立て続けにマシンを全損させたことがチーム・オーナーのギ・リジェを激怒させ、第11戦オランダGPを最後にチームから解雇。ちなみに11戦中リタイア9回であった。
’86年、マールボロのスポンサードによりイタリアの小規模チーム、ミナルディにシートを得るも、マシン不調も含めて15戦中14リタイア、という目も当てられない結果を残し、チームを離脱。’87年、ブラバムへ移籍し、第3戦ベルギーGPでは見事3位表彰台を獲得、しかしやはりリタイア14回でチーム離脱。’88年は新興チーム、リアルに加入、またも得意な公道のデトロイトで最高位4位、しかしリタイアは11回に及ぶ。’89年、フェラーリ・コピーのようなイタリアの小規模チーム、スクーデリア・イタリアへ。第6戦カナダGPで雨の中3位表彰台獲得。’90年開幕戦フェニックスではピレリ・タイヤを巧みに使い予選3位。が、結果は12回のリタイアでノー・ポイント。キャリア8年目、誰もがチェザリスの限界を知った。
’91年、新規参戦のジョーダンへ「マシンを壊したら罰金」という異例の条件付きで加入。マシンの速さもあって序盤に活躍を見せ、第11戦ベルギーGP(ミハエル・シューマッハーがチーム・メイトとしてF1デビューしたレース)では中盤2位を走行し、トップのアイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)を追い回す活躍を見せるも結果エンジン・ブローで惜しいリタイヤ。しかし、シーズンを通じてみると自らのミス/クラッシュによるリタイヤは激減した。安定感を得たチェザリスは’92年にティレルへ移籍、自己のミスによるリタイアは2度だけと、チームのコンストラクターズ選手権6位獲得に貢献した。翌’93年はティレルの型落ちマシンに苦しみノー・ポイントに終る。’94年、チェザリスは遂にF1浪人となるが、出場停止処分を受けたエディ・アーバインに代わって第4戦モナコでジョーダンから代役出場、期待に応えて見事4位入賞。その後同GPで負傷したカール・ヴェンドリンガーに代わってザウバーへ移籍、第7戦フランスGPで6位入賞を果たす。
そしてこれを最後に、チェザリスの波乱のF1キャリアは終わりを告げた。’80年のF1デビュー以来足掛け14年、アルファロメオ〜マクラーレン〜アルファロメオ〜リジェ〜ミナルディ〜ブラバム〜スクーデリア・イタリア〜ジョーダン〜ティレル〜ジョーダン〜ザウバーとチームを渡り歩いたチェザリス。ポール・ポジション獲得1回/決勝最高位2位/最速ラップ獲得1回、決勝レース完走率34%(213戦/内リタイア回数135回)。ありがたくない”最多出走未勝利記録”保持者である。
F1という特殊性を考えた際、チェザリスは明らかに適切な時期に”進化し損なった”ドライバーだった。ここで言う進化とはズバリ”安定性”である。デビュー当時、その速さは確実にトップ・クラスだった。が、本来大前提である”マシンをフィニッシュ・ラインまで運ぶ”という能力に、キャリア2〜3年目に結びつかなかったのがチェザリスが大成出来なかった大きな要因である。特にコンクリート・ウォールが間近に迫る公道サーキットでの速さが表しているように、レーシング・ドライバーとしての大原則である”スピードを恐れない”という部分は卓越していた筈である。しかし、それももしもチェザリスが’60〜’70年代のF1を走っていたとしたら、とうに命の保証はなかっただろう。あくまでも進化したレーシング・カーの安全面に支えられ、尚且つ潤沢な資金により中堅チームから必要視されたからこその存在だったことは否めない。

さて、’90年代は正直迷った。バリッラ・スパゲッティの息子も捨て難いし、予選落ちしてもニッコニコで参戦をエンジョイしてたラバッジおじさんもいる。…..が、あえてここでは”F1ドライバー”としての特性を問うべく、ある程度の期間をかけてその遍歴を追える存在の者を取り上げることにする。’90年代を代表するペイ・ドライバーには、ペドロ・ディニスに登場願おう。
ブラジルで巨大スーパー・マーケット・チェーンを展開する実業家の家に生まれたディニスは’87年、17歳の時にカートでレーシング・ドライバーとしてのキャリアをスタート、’89年にフォーミュラ・フォード・ブラジル選手権参戦、’90年に南米F3選手権、翌’91年にはイギリスF3選手権へ参戦。…..が、その間ディニスは特筆すべき成績は挙げていない。言ってしまえば、父のサポートにより潤沢な資金を使って次々にステップ・アップして行ったに過ぎない。にも関わらず、’93年には遂に国際F3000選手権(現在のGP2)に参戦。ディニスはイタリアのチーム、フォルティ・コルセに加入する。この頃フォルティ・チームは、F1へのステップ・アップを模索していた。そこへ南米の大企業を引き連れてディニスが加入、これにより潤沢な活動資金を得たフォルティは’95年、ディニスと共にF1へと参戦する。
’90年代中盤と言う時代性を考えると、フォルティとディニスのF1デビューはやや突飛なものとなった。パシフィックやシムテックなど、前年まで参戦していたいくつかの小規模チームが資金難から撤退を余儀なくされ、多くの資金持ち込みドライバー達が中堅チームの台所事情により出入りしている状況で、チームごとほぼ”買収”したような形でF1に参入して来るのは、やや時代遅れの感があった。例えばそれは、’70年代のレバークのようだったからである。しかもフォルティは新規参入チームにありがちな”重く、走らないマシン”を開発してしまい、当然ながらグリッド後方でのバック・マーカーとしてのレースとなり、入賞なしでデビュー・イヤーを終えた。この新チームに1年で見切りを付けたディニス・ファミリーは翌年、当時中堅チームと言えるリジェへの移籍を発表。当時資金難に苦しんでいたリジェはチーム・メイトとなった名手オリビエ・パニスがモナコGPでキャリア初勝利を挙げるなどチーム全体は向上したものの、ディニスの成績は最高位6位/リタイア10回と振るわず。’97年は最高位5位/リタイア11回、ディニスは確実にF1には慣れて行ったが、その成績が伴うことはなかった。’97年、ディニスは今度はアロウズに移籍し、前年ウィリアムズ・ルノーでタイトルを獲得しながらもチームを弾き出されたデイモン・ヒルとタッグを組む。するとディニスは意外にも現役世界王者相手に善戦、予選では何度かヒルを上回って見せた。しかし決勝では中堅チームをあわや優勝かというところまで導いた(第11戦ハンガリーGP、予選3位〜決勝2位)ヒルの活躍には及ばなかった。翌’98年はチーム・メイトにミカ・サロが加入。ここでもディニスはサロに肉迫し、獲得ポイントは同点。この2年間で確実な成長を見せたディニスは徐々に周囲の見方を変えて行くことに成功する。
’99年、ディニスはザウバーへと移籍。ここでは元フェラーリのエース、ジャン・アレジをチーム・メイトに、入賞回数で上回る活躍を見せた。翌’00年はサロ相手にやや苦戦、入賞ゼロでシーズンを終えた。出走99回、完走率40%、入賞8回、獲得総ポイント10点。これがペイ・ドライバーとしては立派な数字、と言えるかどうかは定かではない。が、明らかにディニスはF1でドライビングを学習した。本人も後に「アロウズ時代に現役世界チャンピオンであるヒルから学んだことは多かった」と語っている。また、ディニスは実はF1デビュー・イヤーの’95年、元F1ドライバーのルネ・アルヌーから”ドライビング・コーチ”を受けていた。プロのF1ドライバーがドライビングのコーチを受けるということ自体が珍しいが、つまりそれほどまでにディニスは”真面目で勤勉だった”と言える。そしてその探究心は実を結び、キャリア後半では確実に自らの成長に繋がった。
しかし、’00年シーズンが終ると同時にディニスは突然レーシング・ドライバーを引退し、僅か30歳の若さでプロスト・グランプリの共同オーナーとなることを発表。結果的にオーナーのアラン・プロストとチーム運営に関して折り合わずにこの提携は1年で終了、ディニスはここで完全にF1から身を退いてしまった。以降地元ブラジルでアンダー・フォーミュラの選手権主催など自国のモータースポーツ発展に尽くすが、現在はややレースと距離を置いた普通の実業家、として活動中である。

さて、続く’00年代のF1ドライバーの誕生背景、はそれまでと比べて大きく様変わりした。それはひとことで言ってしまえば”スカラシップ“の台頭である。
極めて解りやすい例が現在のレッドブルだ。多くのスポーツに関わる彼らはフォーミュラ・レーシングに於いても独自の若手育成プログラムを設け、遂にはF1に若手発掘のための”Bチーム”という概念を齎した。レッドブルにとってのトロ・ロッソがそれにあたる。事実、’10年F1世界王者となったセバスチャン・ヴェッテルはレッドブルの育成ドライバーとしてトロ・ロッソからF1デビューし、初優勝を遂げる大活躍を齎して”Aチーム”であるレッドブルのドライバーへと昇格した。そして今後もカートや底辺フォーミュラから有望な若手ドライバーを発掘/育成し、いつでも”Aチーム”へ上がれるよう万全の体制を整えているのである。
’08年世界王者、ルイス・ハミルトンの形容詞は”マクラーレンの秘蔵っ子”である。幼い頃にマクラーレンの総帥ロン・デニスに見い出されたハミルトンは未来のマクラーレン・ドライバーへの道を約束され、アンダー・フォーミュラでの英才教育が施された。結果、ハミルトンはデビュー・イヤーから2度の世界王座に輝くアロンソをチーム・メイトにタイトル争いを繰り広げて見せ、下積みなくしてトップ・ドライバーの仲間入りを果たしたのである。
我が日本もホンダトヨタの2大メーカーの参戦時にはこのスカラシップ制度が大きく影響していた。ホンダ主催のSRS(鈴鹿レーシング・スクール)出身の佐藤琢磨、トヨタのTDP(トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム)の中嶋一貴らがまさにそれにあたり、トヨタ撤退後に本格参戦することとなった現役の小林可夢偉もまたTDP所属ドライバーである。
こうした動きにより’00年代にはもはやペイ・ドライバーは時代遅れとなりつつあった。が、実際に資金難のF1チームを救えるのはやはり”金持ち”でしかなく、シーズン後半になると、実力者でありながら豊富な資金を持ち込む新進ドライバーにシートを明け渡すベテラン、という構図はグリッド後方、ジョーダン/スパイカーやミナルディなどのチームでは見慣れたものとなっていた。しかし、例えば
’90年代のディニスのようにチームの年間予算を丸ごと賄えるようなペイ・ドライバーは登場せず、あくまでもスポット参戦的なものにとどまった。それだけ世界的な不況が深刻だった事実も確かだが、’08年にはドイツの雑誌が「参戦する22人全員がギャランティを貰って乗っているという統計が取れた」と発表。ちなみに最高額はフェルナンド・アロンソ(当時ルノー)の2,800万ドル、最低額は中嶋一貴(当時ウィリアムズ)で100万ドル、とのこと。…..持ち込みスポンサーや企業バックアップとチーム/個人の契約内容など外野に解る筈もなく、全てが憶測に過ぎないのは事実だが、’00年代はペイ・ドライバーの時代ではなかった、というのは事実である。

そして迎えた2010年代。レギュレーションの妙、と言えばタイミングが良過ぎるが、FIAが提案した低年間予算によるチーム運営実現に向け、新たに3つのF1チームが誕生した。しかし結果的に彼らがグリッドに並んだ時、その案は既に過去のものとなり、彼らは予想外の資金繰りに頭を悩ませることとなる。そして、ペイ・ドライバーの復活である。ロシア政府のバックアップを持つヴィタリー・ペトロフが、個人資産を注ぎ込める山本左近が、悩めるF1チームの財政を救った。そして1年間頑固に我が道を行ったペーター・ザウバーも遂に観念、今季はセルジオ・ペレスの加入により豊富なメキシカン・マネーがアテに出来る。フランク・ウィリアムズもまた、パストール・マルドナドへのベネズエラ政府のバックアップにより”延命”を成功させた。
…..しかし、忘れてはならないことがある。このふたりは、昨年のGP2選手権1位と2位の実力者なのである。F1直下のカテゴリーでトップを争ったふたり、つまり彼らはF1そのものによるスカラシップ・ドライバーなのだ。資金力は彼らの付加価値でしかなく、逆に言えば、資金力に加えてトップ・フォーミュラで闘える力を確実に持ったドライバーなのである。これでは、ただ資金力のある”だけ”の者に出番はない。時代は巡り、今求められているのは全ての要素を兼ね備えたドライバーだけ、と言える。

…..元々”金持ちと貴族の道楽”として始まった自動車レース。その最高峰に位置するF1世界選手権は2011年、”金持ちと才能の競演”となる。果たして今のF1に、巨額の資金と共に5年振りの現役復帰となるカーティケヤンの居場所はあるのか。それとも”才色兼備”のマルドナド/ペレスが新たな時代を切り開くのか。

「マルドナドはペイ・ドライバーではない。今までそんなドライバーを乗せたこともない」’11年/アダム・パー(ウィリアムズ)

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“バリアの外側のマニア”加瀬竜哉が最新のF1ニュースをピックアップし、そのニュースの背景を持ち前のマニアックな視点から掘り下げ、更により解りやすく解説し、検証する。

no race, no life formula1 topics

 

 


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