『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
新天地へのエール
’10年2月18日、佐藤琢磨の’10年IRL(インディ・レーシング・リーグ)フル参戦が正式に発表され、多くのファン/メディアがエールを送った。’08年シーズン序盤のスーパー・アグリ撤退以来、「F1以外は選択肢にない」と、他のカテゴリーへの参戦を頑として認めず、そのレーサー魂を胸に秘めてF1シートを模索して来た琢磨。が、とうとうその”タイム・リミット”が来た。トロ・ロッソに始まり、ロータスやルノーらとの交渉も「あと1歩のところ」で叶わなかった。それはかつて日本が最も得意としていた筈の金銭面であり、先行投資に欠かせない将来性という名の年齢/キャリア、及び国籍問題であり、決してトラック上のパフォーマンスやこれまで琢磨が残して来た”成績という財産”を直接評価したものではない。が、ロータスに決まったヘイキ・コヴァライネンには”優勝経験”、ルノーに決まったロシア人初のF1ドライバーであるヴィタリー・ペドロフには”多額の持参金”という、琢磨の持たないアイテムを評価されたのであればやむを得ない。
…..ひとりの日本人として、ひとりのファンとして、また琢磨の闘志溢れるレーシングを観ることが出来るのは心から喜ばしいことであり、何よりもレースをしたかった本人の希望が叶うのもファンとして嬉しいことである。が、同時にひとりのF1観戦者として、これがひとりの魅力的な、そして期待された”日本人・F1ドライバーとの別離”であることの無念も否定出来ない。結局佐藤琢磨はF1を去らねばならなかった。その事実から眼を背けることは出来ない。そして、既に今後の日本を背負うのは新たな期待の星である小林可夢偉であり、琢磨はきっともうF1に帰って来ないだろうということを多くの人々が感じ、そして恐れている。
佐藤琢磨。この日本が誇るファイターを忘れることは、断じてあってはならない。
佐藤琢磨は1977年1月28日、弁護士の父と舞台女優の母の長男として東京都新宿区に生まれ、同町田市に育った。幼い頃から琢磨が熱中したものは自転車であった。3歳の時には既に補助輪なしで乗り回し、早くからスピードに魅了されていた。中学では陸上部に所属、高校生になると校内に存在しなかった”自転車部”を自ら発起人として創設。クラスの担任を顧問にしたたったひとりの部員だったが、3年生の時にインターハイ初優勝を果たしている。’95年に早稲田大学入学、琢磨はスポーツ科学科自転車部に所属し、インターカレッジ2位、全日本学生選手権優勝など、日本の自転車競技界に於ける新星として注目を浴びる存在となって行った。
が、この時琢磨は人生を左右する大きな決断を迫られていた。’87年、父と共に観戦した鈴鹿サーキットでの初のF1GP。地元・ホンダの威信を背負って激走する若きアイルトン・セナ(ロータス)に感銘を受けた琢磨には、以来常にF1ドライバーへの憧れがあった。そしてそのホンダによるレーシング・スクール”SRS-F”(鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ)が設立されたことを知った琢磨は、自らが既に手遅れかも知れないというキャリアを懸念しながらも、大学を休学してSRS-F入学のために初めてレーシング・カートへとチャンレンジすることを決めたのである。琢磨はレース界の”チャン”こと秋山昌夫率いるアルデックス・ジャパンでカートを学び、’97年にカート・キャリア僅か1年未満で見事SRS-F入学を果たした。あまりにも襲いキャリアのスタートだったが、ここからは圧巻の成長であった。同年カート日本チャンピオン獲得、中谷明彦の中谷塾を主席卒業、そして僅か1年でSRS-Fをも主席卒業し、全日本F3選手権へのスカラシップを獲得。当時F1活動休止中のホンダが「この男なら」と惚れ込んだのは言うまでもない。翌’98年、琢磨はレース歴僅か1年半で無限×童夢チームから全日本F3選手権へと参戦する。
が、琢磨は日本国内でのレース活動と、目指すF1との間に大きなギャップを感じていた。そして…..琢磨自身にもある”事件”が起き、琢磨がレース活動を続けるためには本場ヨーロッパでの経験が不可欠であるとの結論に達する。’98年7月、琢磨は大学を中退し、単身イギリスへと渡った。そしてまずF3よりも下位のフォーミュラ・ボクスホール、フォーミュラ・オペルなどに参戦し、次々と勝利を収め、”most improved of the year”を受賞。’00年、琢磨は満を持してイギリスF3選手権にステップ・アップを果たした。初年度から4勝を挙げてシリーズ3位、イギリスのオート・スポーツ誌は”年間最速ドライバー”と高評価した。翌’01年、琢磨は12勝を挙げて遂にイギリスF3を制覇。更にマールボロ・マスターズ、そしてマカオF3の”世界3大F3イベント”全てを制するという、日本人ドライバーとして初の快挙を成し遂げたのである。
’02年、ホンダのスカラシップ卒業生として琢磨はジョーダン・ホンダからF1デビュー。チームの低迷期にあって好成績には恵まれなかったが、最終戦日本GPで5位入賞し、初ポイントを獲得。翌’03年はホンダがワークスであるBAR(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)・チームのリザーブ・ドライバーとして琢磨を迎え入れ、全GPに帯同しながらシーズン中の開発テストを担当。第16戦日本GPではエースのジャック・ヴィルヌーヴがチームを離脱し、急遽代役出場。1年振りの実戦でも琢磨は速さを見せ、6位入賞を果たした。翌’04年、琢磨はBAR・ホンダのレギュラー・シートを獲得。BAR006・ホンダは高い戦闘力を見せ、第5戦スペインで日本人予選最高位となる3位、第7戦ヨーロッパGPではミハエル・シューマッハー(フェラーリ)に続く予選2位を獲得、決勝はアグレッシヴに攻めた結果リタイアとなったが、日本人初のラップ・リーダーともなった。第9戦アメリカGPでは攻めのレースで遂に3位表彰台に立ち、シーズン後半は4戦連続入賞、34ポイントを獲得して堂々のシリーズ8位となった。
…..しかし、翌’05年から歯車が狂い始める。新車BAR007・ホンダはエアロ・ダイナミクスとサスペンション開発が完全に失敗となり、前年とは比較出来ないほど安定感を欠くマシンとなってしまった。第2戦マレーシアは琢磨自身が高熱を発し欠場。第4戦サンマリノではジェンソン・バトン3位/琢磨5位でフィニッシュするも、両車重量違反で失格。更にチームがFIAから続く2戦で出場停止の処置を受け、琢磨は第13戦ハンガリーでの8位1ポイントのみでシーズンを終えることとなった。そして、ホンダはBARを買収して遂にワークス・ホンダとなったが、翌シーズンのバトンのチーム・メイトにフェラーリのルーベンス・バリチェロを選び、琢磨はチームから放出されることとなった。
ここから不可思議な報道がメディアを巡った。ホンダは「来季11番目のチームが参戦し、ホンダがエンジンを供給する」との発表を行い、その新チームでの佐藤琢磨の起用をほのめかした。多くの憶測が流れる中、11月1日に元F1ドライバー・鈴木亜久里率いるスーパー・アグリのF1参戦が正式に発表され、琢磨をエース・ドライバーとする純日本体制の新チームが誕生。だが現実はマシンは4年落ちのアロウズを使用、資金不足や準備期間の短さなどから成績は低迷。第12戦ドイツGPでようやく新車を投入するもポイント獲得には至らず、無得点/最下位で初年度を終える。翌’07年、前年のホンダRA106をベースとした新車SA07は他チームから「コンストラクターはオリジナル・マシンで参戦する義務がある」との反感を買い、カスタマー・シャシーを使用するスーパー・アグリとトロ・ロッソ(レッド・ブル)のマシンが問題視された。しかしスーパー・アグリは開幕戦オーストラリアで予選Q3初進出、第4戦スペインで琢磨が粘りの走りで8位入賞し、純日本体制(日本チーム/日本製エンジン/日本人ドライバー)による史上初ポイントを獲得。第6戦カナダではレース終盤、タイヤ交換のタイミングを絶妙に決めた琢磨が次々とトップ・チーム/ドライバーを抜き去り、6位フィニッシュ。この走りは多くのメディアで賞賛され、琢磨は年間を通じてワークスのホンダと互角の勝負を見せた。
…..しかしその裏でチームはスポンサー・トラブルなどで深刻な運営危機を迎えていた。運命の’08年5月6日、スーパー・アグリは遂にF1撤退を発表。第3戦スペインGPが、チームと琢磨にとって最後のレースとなった。
’08年9月、琢磨はトロ・ロッソと来季ドライバーの座を巡って交渉、ルーキーのセバスチャン・ブエミとヘレス・テストでシートを争った。琢磨は速いラップ・タイムと的確な技術フィード・バックでチームに好印象を与えたが、最終的にトロ・ロッソが選んだのはブエミだった。また琢磨をF1に送り出したホンダが正式にF1撤退を決断、完全に行き先を失った琢磨は「F1以外は考えられない」とル・マンやインディ・カーのオファーを全て断り、’09年は”F1浪人”となった。そして’10年シーズンに向けて新規F1チームの参入が認められると、琢磨はF1復帰のために動いた。相手はロータス。既にエース・ドライバーにはヤルノ・トゥルーリが内定し、琢磨は’09年王者バトンのマクラーレン移籍で放出されたコヴァライネンとシートを争っていた。そして’09年12月、琢磨サイドが交渉決裂を発表。その時点でまだいくつかの”空きシート”が残されており、諦めずに他チームとの交渉を行うとしていたが、開幕を1ヶ月後に控えた2月の時点で残りシートが参戦が危ぶまれているUSF1とカンポスのみとなり、残る選択肢としてアメリカ/インディ・カーへの参戦が現実的なものとなった。
F1出走91戦、予選最高位2位/決勝最高位3位、獲得ポイント44点。結局琢磨はケヴィン・カルコーベンと元CARTチャンピオン、ジミー・ヴァッサー率いるKVレーシングと契約し、IRLドライバーとしてほぼ2年振りのレース復帰を果たす。
筆者選出、佐藤琢磨ベスト・レースはBAR・ホンダ時代の’04年第7戦ヨーロッパGP/ニュルブルクリンク。最強フェラーリの1台、バリチェロを予選で食って初のフロント・ロウ獲得。スタートから粘りの走りで3番手を守り、最後のピット・ストップを終えた時、琢磨はシューマッハー/バリチェロのフェラーリ1-2に次ぐ、表彰台確実の3位にいた。が、ブリヂストン・タイヤのフェラーリ勢に対し、走り出しの性能に勝るミシュランの特性を武器に、琢磨は前方のバリチェロを狙う。琢磨は僅か1周で見る見る差を詰め、46周目の1コーナーで果敢にバリチェロのインへ…..結果は接触によりリタイアだった。
フェラーリが18戦中15勝/8度の1-2フィニッシュを決める圧倒的なシーズンの中、彼らに次ぐキャリア初の表彰台が確実なポジションを良しとせず、果敢に攻めて行った琢磨。もちろん、’07年第6戦カナダでの激走も忘れ難い。彼が最も輝いているのは常に「前へ!」の瞬間である。
佐藤琢磨は間違いなく、日本の歴史上トップ・レベルに位置するレーシング・ドライバーである。それは大学生になってから始めたレース・キャリア僅か4年で3大F3タイトルを獲った”成績”も然り、世界の強豪を相手に1歩も退かず、常に前へ出ることを考え、行動する”スタイル”も同様である。そして事実、日本人として初めてフロント・ロウを獲り、ラップ・リーダーとなり、攻めのレースで表彰台を獲得して見せた。だからこそ、同様に日本人最高位/表彰台経験者の鈴木亜久里と組んだ際、例え戦闘力の覚束ない状況のスーパー・アグリのマシンでもトップ・ドライバー達をブチ抜き、ポイント獲得という成果を残して来たのである。
では、琢磨のネガティヴな面は何か。それは少なくともF1に於ける評価としての”荒さ”である。最も直接比較の容易い相手であるチーム・メイトとして、F1キャリアのスタート時にはジャンカルロ・フィジケラが、最も体制に恵まれたBARではバトンが、それぞれ”マシンをフィニッシュまで持って行く巧さ”を持っているドライバーだったことは、まだ若く、経験不足からクラッシュ/リタイアの多かった琢磨にとっては逆風となった。絶対的な速さと闘争心では世界的に見ても確実にトップ・レベルにありながら、それでもホンダがBAR買収時/ワークス化に於いて選んだのがバリチェロだったのが最も解りやすい例である。しかし、琢磨はそれをも学んだ。残念だったのは、その経験を活かす絶好のタイミングでトップ・チームから新チームへと移らなくてはならなかったことだった。
琢磨は2月15日、’08年12月のトロ・ロッソのテスト以来1年振りにトップ・フォーミュラのコックピットへ帰って来た。このテストも、KVレーシングが琢磨を乗せるために特別に準備したものだったと言う。見方を変えれば、琢磨のF1シート獲得の可能性がなくなる/琢磨自身が’10年のF1復帰を諦めるタイミングをKVレーシングが待ってくれた、とも言える。’09年第16戦日本GP、琢磨は鈴鹿サーキットを訪れた。そして多くのファンを前にして「来年は必ずレースをする」と約束した。その約束は果たされる。ただし、そこはF1ではなく、F1と対峙するもうひとつのトップ・フォーミュラであり、F1と同じように日本戦もある世界的シリーズである。が、多くのファン、そして本人の本音は
ー多くのインディ・ファン/関係者の方に失礼を承知で言えばー
琢磨のインディ転向は”妥協の選択肢”だ。しかしそれは、これ以上自体の好転を望めない日本経済/モーター・スポーツ事情、そして自身のキャリアを考えた時、現在琢磨自身が選択出来る最高の場所だったことも事実である。
新天地・ザウバーへと移籍した可夢偉はヘレス・テストで好タイムを記録、未だ未承認のステファンGPは中嶋一貴との正式契約を発表した。しかし、現実は昨年ルノーへの移籍報道があった際のように日本/トヨタのスポンサー群がザウバーのマシンを彩っているわけでもなく、カンポスやUSF1の”穴”を狙うステファンGPがトヨタ/TMGの設備一式目当てでTDP所属の一貴の起用を決めたのは周知の事実である。これから始まる’10年のF1世界選手権、は極めて混沌としたシーズンとなるだろう。ただしそれは選手権そのものではなく、新規参入チームを含めた多くの経験値の少ない組織やドライバーやを巡る”金銭的なトラブル”を意味する。スポンサーの未払い、途中撤退、そして成績を残せずに契約を見直されるドライバーが直面するのは途中交代の危機である。よって、今シーズンの契約を得られなかった多くの浪人ドライバーにも、まだチャンスは残されている筈である。しかし、その時誰かが琢磨を必要とするか、或は琢磨自身がF1を必要とするか、は解らない。少なくとも、歴史上インディに転向した元F1ドライバーがF1に復帰し、成功する例は極めて稀と言わざるを得ない。逆に、琢磨がIRLで大活躍し、インディ500を制する初の日本人となる可能性だって充分にある。だがそれでも、F1マシンを駆って目前を駆け抜ける琢磨が観たい。それが筆者の本音である。
「これ以上待てない」’10年2月18日/佐藤琢磨