『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
歴史的偉業の裏側
…..きっと本人には、周り以上に長い長いチャンピオン・シップだったことだろう。’09年10月18日、第16戦ブラジルGP/インテルラゴスに於いて、デビュー10年目/170戦目を迎えたジェンソン・バトン(ブラウンGP・メルセデス)は自身初のワールド・タイトルを獲得した。これはバトン自身だけではなく、ブラウンGPチームにとっても初タイトルであり、60年間のF1GPの歴史に於いて、参戦初年度のチームがWタイトルを獲得するのもまた初の偉業となった。加えて言うなら、ホンダの突然の撤退により、チーム存続すら本気で危ぶまれたチームによる、正に奇蹟のWタイトル獲得である。が、開幕前に誰も予想しなかったこの結果は、バトンの第7戦トルコGPまでの7戦6勝時の「’09年シーズンは既に決まった」という声から、バトン/ブラウンGPのシーズン中盤の失速、更にレッド・ブル/セバスチャン・ヴェッテルの追い上げも加わって今度は「バトンはタイトルを穫れない」との意見に変わって行った。特に序盤に全く競争力を発揮出来なかったマクラーレンとフェラーリの中盤の巻き返し、更に後半ではフォース・インディア/BMWザウバーらが躍進、’09年シーズンは新レギュレーションに於けるダブル・ディフューザーやKERS、更に年間エンジン使用数制限規定などにも左右され、年間を通して如何に今季が混沌としていたかを物語っている。
序盤の絶対的な強さと中盤以降の低迷。初タイトルの掛かるプレッシャーの中で、バトン/ブラウンGPが成し遂げた偉業は一体どんなものだったのか。それをここで振り返ってみよう。
まず、ブラウンGPというチームはあまりにも絶望的な状況から誕生した。’08年秋のリーマン・ブラザース破綻に象徴される世界的な金融危機の煽りを食らい、12月5日に日本のF1第一人者であるホンダが急遽F1からの撤退を決定。突然の事態にそのままチーム消滅かと思われたが、チーム参謀のロス・ブラウン/ニック・フライが中心となり、新チームとして’09年の参戦を模索。結果的に大手メーカーや巨大スポンサーへの身売りを嫌い、マネジメント・バイアウトによる株式購入(購入金額は僅か1ポンド)により、元ホンダF1チームはブラウンGPとなった。
ホンダは上層部の決定によって急遽(少なくとも’08年春以降)F1からの年内撤退の方向性を決めていたとされるが、現場のレーシング・チームには少なくともシーズン終了時まで詳細は伝わっていなかった筈である。事実ホンダは不振の’08年マシンの開発を早期に諦め、翌’09年型の新車開発に力を注いでいた。これによりホンダはブラウンGPに、開発に1年を擁した自信作を残すこととなる。これが今季のブラウンGPのマシン、BGP001の原型である。
彼らの初マシンであるBGP001は開幕戦の僅か19日前である3月6日にシェイク・ダウンされ、土壇場で搭載の決まったメルセデス・ベンツ・エンジンを擁して合同テストで連日トップ・タイムを記録。周囲はスポンサー集めのためのパフォーマンス/規定外のマシン・セッティングによる信憑性のないタイムだとしてブラウンGPの速さに対し懐疑的だったが、チーム発足/シェイク・ダウンから僅か3週間弱で迎えた開幕戦オーストラリアGPでバトン/バリチェロが予選フロント・ロウ独占〜決勝1-2フィニッシュを決め、衝撃的なデビュー戦を飾った。その後バトンは第7戦トルコGPまでに6勝/61ポイントとし、得点上のライバルであるチーム・メイトのバリチェロに21点、3位ヴェッテルに32点差を付けて独走、コンストラクターズ・ランキングもレッド・ブルに39.5点差を付け、シーズン序盤にして既にタイトル争いは終わったかに見えた。
が、シーズン中盤になると勢力図に変化が見えて来る。第8戦イギリスGPでマーク・ウェバー/ヴェッテルのレッド・ブル勢が1-2を決めると、同時に無敵に思えたブラウンGPの速さに陰りが見え始める。前半戦でポール・ポジション4回を獲得していたバトンは第12戦ベルギーGPまでことごとくバリチェロの後塵を拝し、決勝でも表彰台に届かないレースが続く。その頃レッド・ブル勢は第8戦イギリスをウェバー、続く第9線ドイツをヴェッテルが制し、第10戦ハンガリーでは前年の王者であるルイス・ハミルトン(マクラーレン・メルセデス)が今季初勝利、第11戦ヴァレンシアでバリチェロ、第12戦ベルギーは前々年王者キミ・ライコネン(フェラーリ)がフォース・インディアのジャンカルロ・フィジケラを辛くも振り切って勝利。勝つべき者が下位に沈み、ダーク・ホース的存在のチーム/ドライバーが躍進する構図となった。これにはふたつの大きな要因が見える。
ひとつは、開幕直後から問題となった、通称”ダブル・ディフューザー問題”である。これは、今季のマシン・レギュレーションの「リア・ディフューザーは上限175mm」という規定に対し、リア部分以外/マシン中央部にもうひとつのディフューザーを装着し、二重構造として来たチームが3つ存在した。それが開幕1-2のブラウンGPであり、第3戦中国の勝者ヴェッテルのレッド・ブルであり、第4戦バーレーンの予選フロント・ロウ独占のトヨタの3チームである。これに異を唱えた他のライバル・チームの抗議は結果的にFIAの「合法」という決断により一斉に同タイプのディフューザーを擁するシャシー開発を行わなければならいという事態へと代わり、その効果がシーズン中盤に表れ始めた。中でもマクラーレンとフェラーリは数十億円をかけてニュー・シャシーを開発し、シーズン開幕当初は絶望視されていた勝利を掴むまでに復活した。
もうひとつは、’09年シーズンを掻き回すこととなったKERSである。それ自体が重く、バラストを含めた車重に対し大きな影響を与えるこのニュー・アイテムはマクラーレン/フェラーリ/BMWザウバー/ルノーという、前年の選手権上位チームであり巨大自動車メーカーでもあるトップ・チームが搭載。しかしいざレースが始まってみれば非搭載チームが快走、最もこのKERSを推進していたBMWザウバーはシーズン途中で使用を断念。結果的にスタートや追い越しブロック用に効果はあるものの全体的なラップ・タイムには良い影響を及ぼさず、ピット・ストップ作戦によってKERS非搭載車に抜かれてしまう。チーム組合であるFOTAは独自に’10年のKERS撤廃を決めるが、ウィリアムズは独自の開発を行い、開発状況次第で来シーズンの使用をほのめかしている。
そしてこの手の問題が各ライバル・チーム達の中で解決し始めた頃、当のブラウンGPはマシンに更なるアップ・グレードを施していた。中盤戦の伸び悩みは主に空力関係のモディファイによるもので、序盤の貯金を持っていたブラウンGPはシーズン中盤をレース中のテストのように実験的に活用していたのである。そしてチームはそろそろ最終的な選手権全体を見なければならない、というタイミング/第14戦イタリアGPでマシンをシーズン序盤の状態に戻し、バリチェロがポール・トゥ・ウィンを飾ったのである。
…..何という余裕の戦略だろう。6月の時点では既に来季用の新車開発に着手していたブラウンGPは、開幕直後に人員削減のため270名に及ぶスタッフを解雇しながら、タイトル争いと翌シーズンに向けての開発を同時に行っていたのである。最終的にロス・ブラウン自身の「そろそろ選手権に眼を」という決断が下されるまで、彼らはレース/ポイントを犠牲にしてでもマシン開発の可能性を追求し、ギリギリのタイミングでその決断を行った。昨年、ブラウンの後継者であるステファノ・ドメニカリ率いる新生フェラーリが、度重なるピット・シグナルのミスによって最終的に選手権を逃したことを考えるとブラウンの器の大きさと決断力を思い知る。
また、ブラウン自身の頭の中で序盤から今季のドライバーズ・タイトルはバトンのもの、という明らかな方向性があったことも疑いようがない。表向きにいくら両ドライバーの平等な扱いを強調しても、そこは戦略家であり、且つフェラーリでシューマッハーと共に黄金時代を築いた名匠である。それでいて当時の”セカンド・ドライバー”でもあるバリチェロを上手く使い、後半戦では勝利を味わうことも”許し”、表面上の挑戦者として実はコンストラクターズ・タイトルを重ねて行くという戦略は、現在のフェラーリのみならずマクラーレン/ウィリアムズにも出来ない、正にブラウン式である。別の見方をすれば、恐らく開幕戦の勝利の時点でバトンのエース扱い/優先権はブラウンの中で決まっていた筈である。
しかしながら、初タイトルが掛かるバトンには重いプレッシャーがのしかかっていた。反対に前半戦でチーム・メイトの後塵を拝したバリチェロは伸び伸びと走り、終盤2勝を挙げる活躍へと結びついた。が、バトンの憂鬱は初タイトルを”守る”側としては当然のものであり、そのあたりの心理的プレッシャーも全て恐らくブラウンの計算の中にあったのだろう。最後はポイント計算による”防衛戦”とし、バリチェロの速さと残りエンジン数に苦しむレッド・ブル勢の一騎打ちを尻目に、バトンが淡々とポイントを重ねて王座に着くことを見越していた筈である。事実、決着が付いてみればバトンは第12戦ベルギーでオープニング・ラップのクラッシュでリタイアした以外、ここまで全てのレースでポイントを獲得しているのである。また、バトンはブラウンGP復活/序盤のパッケージへと回帰した第13戦イタリアGPでの2位以外、第7戦トルコGP以来表彰台に立っていない。同時にバリチェロは第11戦ベルギー/第13戦イタリアと勝ち、後半戦は明らかにチーム・メイトの影に隠れている印象だが、実際には着実にポイントを稼いでいた。タイトル決定時の第16戦ブラジルでの5位/4ポイント獲得は、例えバトンが最終戦アブダビGPに勝利しても合計99点にしかならない。これは結果的にミハエル・シューマッハー(フェラーリ)の負傷欠場も相まって勝者が分散した’99年シーズンのミカ・ハッキネン(マクラーレン・メルセデス)の際と同様の小得点であり、記憶に新しい昨年の最終戦1点差タイトル獲得劇のハミルトンの98点に次いで少ない。
ちなみに、メルセデス・ベンツ・エンジンを搭載したカー・ナンバー22のマシンに乗ったイギリス人ドライバーが、ブラジルGPを5位フィニッシュすることによってワールド・チャンピオンを決定した、という点でも2年連続となった。同時に、2年連続で眼の前でライバルに逃げ切られたブラジル人ドライバーとオーディエンスの落胆も。
シーズン中盤から囁かれて来たバトンの失速タイトル獲得劇に対する見解は、スポーツ・イベントにとって起こりがちなものである。”最も勝利した者が王者”というルールは、例えば我々に身近な日本のプロ野球でも揺るぎ、CS(クライマックス・シリーズ)導入がその良い例である。シーズンの優勝チームは優勝チームとして決定されるが、セ・パ日本一決定戦/日本シリーズへの出場権を巡って各リーグの上位3チームによる更なる決定戦が行われるのは極めて違和感の強いものである。導入の原因はシーズンを独走する1チームの存在による観客動員やテレビ視聴率の低下を防ぐために「シーズン最後まで眼が離せない」状況を作り出そうとするものであり、首位から大きく離された3位のチームが結果的に日本一となるケースも存在する。しかし、これでは何のために年間を通してペナント・レースを闘い、制したのか解らない。筆者個人的には、例えエースや主力打者が疲労や故障で不在だったとしても、個人成績だけではない”チーム力”によってリーグを代表し、そして争って然るべきである。”公平さ”は常にスポーツの根底を揺るがすが、こうした主催者側による”コントロール”には興行としての”マンネリ化”との闘いという裏事情が大きな要因なのである。
現行のポイント制度に助けられた感のあるバトンではあるが、実際シーズン後半にバトンがこうもトップ争いに絡んで来れなくなったことで、世論が厳しくなるのはやむを得ないことではある。シーズン序盤にチーム内での扱いの不平等さを訴えたバリチェロが後半バトンを上回り、勝利し始めるとその声は更に大きくなり、”勝てないチャンピオン”と揶揄された。が、年間を通して見た際、記録に残る”6勝”(第16戦ブラジルGP終了時)という数字は決して少ないものではない。またポイント的にも第2戦マレーシアでは雨でレースが短縮されたため、バトンは優勝でも5ポイントしか獲得しておらず、総獲得ポイントが低いのには理由があってのことである。ただ、シリーズを通して見て来た我々の”印象”の問題でしかなく、巨大自動車メーカーの撤退を受け、ゼロからスタートすることを余儀なくされた新チームが開幕7戦で達成した数字、として考えればあまりにも偉大な功績である。
ニコ・ロズベルグ(ウィリアムズ・トヨタ)の父である’82年王者ケケ・ロズベルグ(ウィリアムズ・フォード)は僅か1勝/44ポイントで王者となった。しかし完走したレースでは全て入賞し、最終第16戦ラスベガスで5位フィニッシュにより王座を決定。しかしその唯一の勝利がシーズン終盤第14戦ディジョンだったため、防衛タイトルの印象は薄い。同時に’82年シーズンは11人のウィナーが誕生し、第12戦ドイツでポイント・リーダーのディディエ・ピローニ(フェラーリ)が再起不能の大怪我を負って戦線離脱したこと混沌とし、最終的にはシーズン後半に初優勝を達成したロズベルグと、中盤に2勝を挙げたものの終盤戦にかけて6連続リタイア/無得点だったマクラーレンのベテラン、ジョン・ワトソンがタイトル争いに”残された”シーズンであり、本来ならばピローニと、そのチーム・メイトであり最大のライバルであったジル・ヴィルヌーヴ(第5戦ベルギーGP中事故死)によるタイトル争いになる筈のシーズンだった。
’93年、引退を決めていたアラン・プロスト(ウィリアムズ・ルノー)は第10戦ドイツGPまでに7勝を挙げ、自身最後/4度目となる王座をほぼ手中に収めていた。が、冷静沈着な名手プロストでさえも当時前人未到の4度目のタイトル獲得へのプレッシャーは大きく、同時にデビュー2年目のチーム・メイトであるデイモン・ヒルの台頭に圧され、残り6戦を未勝利で終えた。しかしタイトルそのものは第14戦ポルトガルGPで確定させ、最終2戦は宿命のライバルだったアイルトン・セナ(マクラーレン・フォード)との一騎打ちを楽しみ、王者のまま引退。後半7戦未勝利のチャンピオンは、’85、’89年も後半4戦未勝利でタイトルを獲得、これは帝王と呼ばれたニキ・ラウダの得点加算術を学んだプロフェッサーなりの勝負の仕方である。
’03年、ライコネン(マクラーレン・メルセデス)は僅か1勝ながら7度の2位を武器に、6勝を挙げたシューマッハーと最終戦までタイトルを争っていた。最終的にシューマッハーは最終戦鈴鹿の8位1ポイントでライコネンを下し(最終的な点差は2点)辛くもタイトルを獲得したが、この際に大きく問題となったのが「6勝を挙げた最多勝ドライバーが1勝のドライバーに王座を奪われるポイント制度の是非」である。例え勝てなくとも、着実にポイントを加えて行くことで世界王者となることに違和感を覚える声が大きくなり、優勝10点/2位8点というポイント制度が論議されることとなった。
F1世界選手権が現行のポイント制度となったのは’03年である。それ以前は優勝10点/2位6点で入賞は6位まで、その前は’60年から’90年までの30年間、優勝9点/2位6点/入賞圏内6位時代が続いていた。しかし、その間にも’80年代後半のシーズン・ベスト11戦のみ算出時代や、’70年代の前半/後半での加算方式が異なるシーズンが存在し、黎明期の’50年代には優勝8点/2位6点/入賞圏内5位、最速ラップ樹立者に1点、という時代も存在する。長く続いた入賞6位までの時代が終わりを告げたのは、下位チームに対する広告効果や資金的なチャンスを広げる意味合いがあった。’90年代、トップ4と言われるマクラーレン/フェラーリ/ウィリアムズ/ベネトン(現ルノー)らが全車完走すると8位までを占めることになり、この内2台がリタイアしたとしても他チームにポイント獲得のチャンスは生まれない。しかもマシン・レギュレーションは徐々に安全性/耐久性に寄ったものへと変化して行き、トラブルによるリタイアは減る方向へと向った。そのためにFIAが下位チームの露出効果を高める策として打ち出したのがこの方式だったのだが、奇しくもこれがシーズン終盤の”最低限ポイント獲得争い”へと繋がって行った。
昨年、F1の首領であるバーニー・エクレストンは「F1もオリンピック同様、メダル制にすべき」との提案を出し、チーム側からの猛反発を食らった。バーニーの言い分は「シーズン後半になると、チャンピオン候補は得点狙いのレースに切り替え、勝利を争わなくなる。だったら、いくつ金メダルを獲得したかでチャンピオンが決まる方が、がむしゃらに勝ちに行くだろう?」…..しかし、この制度を今シーズン序盤の7戦で6勝を挙げたバトンのタイトル決定条件に組み合わせると、他のドライバーが残り全部を勝っても6に届かなくなるタイミングは第14戦シンガポールGPとなり、残り3戦が”消化試合”となってしまったことを意味する。そう意味では、残された僅かな可能性に賭けてがむしゃらに走るヴェッテル、悲願達成のためにチーム・メイトを凌駕する最古参・バリチェロの活躍が見られた終盤戦、バーニー自身がその提案をもう一度考え直す要因にはなった筈だ。
…..既に皆さんも、ブラジルGPフィニッシュ直後のチーム無線でのバトンの陽気でデタラメな歌を聴いたと思うが、勝てないポイント・リーダー、バトンのここ数戦争の苦しみは相当なものだった筈である。取材時には常にキツいひとことを浴び、トラックではライバル達の快走を見せつけられ、自身に大丈夫だと言い聞かせる毎日から解き放たれた瞬間である。最終戦アブダビGPで、プレッシャーから解放されたバトンがどんなレースを見せるのか。未知の新サーキットでもう一度あのアグレッシヴな独走劇が観たいと思っているのは…..筆者だけではない筈である。ともあれ、ワールド・チャンピオン獲得おめでとう、ジェンソン!。
「We Are The Champions!」@’09年ブラジルGP/ジェンソン・バトン