『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
王者の意外な真実
…..F1世界選手権’10年シーズンも遂に折り返し地点を超え、今シーズンの各チームの勢力図がハッキリして来た。と同時に、今季がいったいどれだけ混迷のシーズンなのかを象徴するような途中経過となっている。第10戦イギリスGPを終え、現在ドライバーズ・ランキング上位5名は以下の通り。
1 | ルイス・ハミルトン(マクラーレン・メルセデス) | 145点 | ||
2 | ジェンソン・バトン(マクラーレン・メルセデス) | 133点 | ||
3 | マーク・ウェバー(レッドブル・ルノー) | 128点 | ||
4 | セバスチャン・ヴェッテル(レッドブル・ルノー) | 121点 | ||
5 | フェルナンド・アロンソ(フェラーリ) | 98点 |
…..まず、この時点でのドライバーズ・ランキング上位2名を今シーズン開幕前に言い当てることが出来た人はおそらくいないだろう。それは、ひとつには昨年終盤に向けて無類の速さを誇ったレッドブルが’10年の大本命チームであり、それは同時に若き挑戦者、セバスチャン・ヴェッテルの選手権独走に近い状況を予想させた。また’09年シーズン途中に現行マシンの開発を諦め、早期に’10年型新車の開発に力を注いで来たフェラーリの大躍進も期待された。更にディフェンディング・チャンピオンとなったブラウンGP改めメルセデスGPの誕生と、皇帝ミハエル・シューマッハーの電撃復帰も相まって、マクラーレン・メルセデス勢は良くてその下、場合によっては優勝戦線からは昨年のように遠ざかったシーズン・スタートになるのではとまで思われていた。
それが、現在マクラーレン勢のふたりが僅か12ポイント差で1-2態勢を築き、コンストラクターズ選手権でもマクラーレン278点/レッドブル249点でブッチ切りの首位である。確かに、マーク・ウェバーはシルバーストンで3勝目を挙げ、ヴェッテルとの熾烈な”チーム内No.1争い”を繰り広げながら猛追して来ている。が、数字上マクラーレンのふたりがこうしてトップを守っているのは事実であり、今シーズン最大の驚きとも言える。
…..昨年、ブラウンGP・メルセデスで初の世界王者となったジェンソン・バトン。イギリス人として10人目の世界王者への道程は簡単ではなかった。そのバトンが今季マクラーレンへの移籍を決めた時、多くの人がその選択は失敗であり、彼はブラウンGPに残留すべきだったと言った。その理由のひとつには、マクレーレンには秘蔵っ子のエース、’08年王者ルイス・ハミルトンがいるからだ、が、結果的に現在バトンはそのハミルトンと僅差でランキング2位となり、メルセデスGPもレッドブルも見下ろす位置にいる。周囲の予想を覆すその強さはいったい何処から来ているのか。
人生最大のギャンブルに打って出た英国のプレイ・ボーイ、ジェンソン・バトンのキャリアを、今こそ振り返ってみたい。
ジェンソン・アレクサンダー・ライオンズ・バトンは’80年1月19日、イングランド/サマセット州にて’76年イギリス・ラリークロス選手権2位の父、ジョンと妻シモーンの間に誕生。ジェンソンが7歳の時に両親は別居し、ジェンソンは父ジョンと共に暮らしていた。その年のクリスマス、ジョンはジェンソンにレーシング・カートをプレゼントする。ジェンソンはこのおもちゃに即座に夢中になるが、反面友人関係には難しい側面を齎した。「僕は内気だったのでカートをやってることは皆に内緒にしていたんだ。’91年にカデット・カート・チャンピオンになった時(34戦全勝!)、学校が祝賀会を開くと言って酷く困惑した。僕はそれは父との秘密にしておきたかったんだよ!」ジェンソンはヘルメットの内部に閉じ込められた小さな自分が普段の姿から”変身”し、大胆不敵なヒーローになった、と感じていた。それはまるでスーパーマンのようなイメージであり、ジェンソン少年にはその正体を皆に知られることは不本意なことだったのである。「アラン・プロストとナイジェル・マンセルが僕のヒーローだったんだ。僕のドライビング・スタイルはきっとアランに似ているんじゃないかな。基本的にはスムーズで、リスクが必要な時は計算するんだ」
父ジョンはジェンソンの才能を素早く見抜き、自らも没頭したモーター・レーシングの世界でジェンソンが必ず成功することを確信、惜しみない投資とバックアップを行った。そしてジェンソンは’97年カート・スーパーAクラス・ヨーロッパ選手権を史上最年少(17歳)で制覇、その後18歳でイギリス・フォーミュラ・フォード選手権にステップ・アップし、初年度から9勝を挙げて王座獲得。この活躍でマクラーレン/オートスポーツのヤング・ドライバー・オブ・ザ・イヤーを受賞、マクラーレンのF1テストのご褒美を得た。
’99年、ジェンソンはイギリスF3選手権にステップ・アップし、3勝を挙げてルーキー最上位のランキング3位。秋にはF1のプロスト・グランプリからオファーを受けてルーキー・テストに参加、レギュラーのジャン・アレジを上回る好タイムを記録して見せた。’00年、ようやく自動車運転免許を取得した20歳のジェンソンはF1のウィリアムズ・チームに抜擢され、遂にF1デビュー。第2戦ブラジルGPで6位初入賞し、20歳67日での最年少入賞記録(当時)を樹立。イギリス期待の若手は順風満帆なF1デビューを飾った。
翌’01年、バトンはベネトン・ルノーへと移籍。契約そのものはウィリアムズが持っていたが、彼らはCART王者のファン・パブロ・モントーヤを起用するためにバトンをベネトンへとレンタル移籍させたのである。しかしバトンの成績は振るわず、入賞1回/ランキング17位。「F1はドライビング技術だけで充分だと思っていたけど、それは間違いだった」この頃、バトンはグリッド上で最も派手なプレイボーイというレッテルを貼られ、チーム・マネージャーのフラビオ・ブリアトーレは「ジェンソンは新聞の良い記事だけを読んで、自分が大スターだと思い込むようになってしまった」と語った。
’02年はルノーがベネトンを買収し、フル・ワークスとなった。チームの戦闘力は上がったものの優勝争いには程遠く、表彰台なしのランキング7位でシーズンを終了。「F1では4位が誰だったかなんて誰も気にしてない。表彰台に立たなくては僕の存在は認知されないんだと解ったよ」鳴り物入りでF1デビューしたバトンは低迷するルノーと訣別し、’03年のBAR(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)ホンダへの移籍を決断。’97年王者のジャック・ヴィルヌーヴのチーム・メイトとなる。バトンは元チャンピオンを相手に常にリードする走りを見せ、17ポイント獲得でランキング9位となり、チームの新たなエースとなった。反対にヴィルヌーヴはシーズン終盤に自らチームを離脱して行った。
’04年、バトンは日本の佐藤琢磨をチーム・メイトに迎え、新車BAR006・ホンダの高い戦闘力を武器に大躍進。第2戦マレーシアGPでは自身初の表彰台となる2位でフィニッシュし、第4戦サンマリノGPでは自身初のポール・ポジションを獲得。最終的に2位4回/3位6回でシューマッハー/ルーベンス・バリチェロのフェラーリ勢に続くドライバーズ・ランキング3位を獲得した。BARもコンストラクターズ2位となり、あと足りないのは勝利だけ、となっていた。
迎えた’05年、バトンは自らの境遇と将来について考え始めていた。「ホンダは将来の参戦計画を明白にしていなかった。それで古巣のウィリアムズと話をするようになったんだ」バトンはウィリアムズと新たな2年契約を締結、しかし既に長期契約を結んでいたBAR側が移籍無効の申し立てを行い、結果的にFIAが介入し、CRB(F1契約承認委員会)によってバトンのウィリアムズ移籍は無効となった。所謂”バトン・ゲート”である。結局BARに残留したバトンだったが、チームは前年の大活躍が嘘のような低迷期に陥り、ランキング9位となってしまった。そして最終的にこの年ホンダがBARを買収、バトンの望み通り、チームはワークス・ホンダとなった。
’06年、ワークス・ホンダは琢磨を切り、フェラーリからバリチェロを加入させた。未勝利のまま参戦101戦目を迎えるバトンは正念場を迎えていた。第13戦ハンガリーGP。予選4位と好調だったバトンはエンジン交換のために10グリッド降格となり、14番手スタート。雨の決勝、フェリペ・マッサ(フェラーリ)、ジャンカルロ・フィジケラ(ルノー)、キミ・ライコネン(マクラーレン・メルセデス)、そしてミハエル・シューマッハー(フェラーリ)など、トップ集団が次々とミスで脱落。52周目にフェルナンド・アロンソ(ルノー)がコース・オフし、気付けば14番手スタートのバトンがミシュランのウェット・タイヤを上手く使いこなし、トップへ。結局そのままバトンが独走で勝利、F1参戦113戦目の初優勝は史上3番目に遅い記録(当時)であった。「今日は何という日だろう。とにかくこれまで僕を応援してくれた家族と関係者にお礼を言いたい。この日が来るのを信じてずっと仕事をして来たんだ」またこの勝利はホンダ・ワークスにとって’67年のジョン・サーティース以来の3勝目となり、F1のポディウムで39年振りに”君が代”が流れた記念すべき勝利でもあった。
’07年、ホンダに残留したバトンはまたもチームの低迷期に苦しむ。獲得ポイントは僅か6点で年間ランキング15位、チーム・メイトのバリチェロに至ってはノー・ポイントという有様だった。そして翌’08年、ホンダは経済不安を理由にF1撤退を決定。バトンは僅か3ポイント獲得/ランキング18位で念願の”ワークス・シーズン”を終えることとなってしまった。
’09年、ホンダF1撤退によってロス・ブラウン率いる新チーム、ブラウンGPが誕生した。しかしこれは僅か1ポンドでのマネジメント・バイアウトによるもので、大きな買収先のないまま、ホンダに放り出された形のままの状態だった。当時、周囲は当然このチームの戦闘力に関して懐疑的だった。が、ブラウンと参謀のニック・フライはホンダ撤退の置き土産である新車の出来があまりにも良く、シーズン制覇も決して不可能ではないことに気付いていた。ブラウンはバトン/バリチェロの両ドライバーに残留を求めた。…..しかしその契約内容はあまりにも残酷なものであった。前年の’08年に15億円だったバトンの年棒は一気に5億円までコスト・カットされ、移動の飛行機代すら自腹となった。が、それでもバトンはチーム残留を了承した。「ロスとチーム、そして自分の運命を信じ、賭けたんだ!」そしてブラウンGP・BGP001・メルセデスはシェイク・ダウンから僅か19日後の開幕戦オーストラリアGPでバトン/バリチェロにより予選フロント・ロウ独占〜決勝1-2フィニッシュ、という快挙を成し遂げる。「どうだい、まるでおとぎ話みたいじゃないか!。でも、シルバーストンで初めてこのマシンを走らせた時、こうなる予感はあったんだ。とにかくこの2年間の最悪なシーズンを我慢して来て、今日このような結果が出せて最高だよ!」ブラウンGP・BGP001は特殊なディフューザー構造などで他チームから抗議を受けるも、結果的に合法であるとの結論がFIAから出され、バトンはなんと第7戦トルコGPまでに6勝を達成。この時点でほぼタイトルを手中に収めていた。が、ここからチーム・メイトのバリチェロとレッドブル勢の追反撃に合い、シーズン中盤バトンのリザルトは低迷する。
迎えた第16戦ブラジルGP。バトンは85ポイントで選手権トップ、追うバリチェロは71点、レッドブルのヴェッテルが69点で続く。残り2戦、ここでバトンはタイヤ選択に失敗し、予選14位と低迷する。ポール・ポジションは地元バリチェロが獲得。しかし決勝では上位の脱落により5位まで上がり、最終的にレース終盤のバリチェロの低迷にも助けられ、最終戦を待たずして念願の初タイトル獲得。これによりブラウンGPも参戦初年度でWタイトル獲得が決定し、記録的なシーズンが終了した。「もちろん自信はあった。でも今日はタイヤ選択を失敗していたし、インテルラゴスの最終コーナーを立ち上がるまでは信じられなかったよ。勝てなかった夏の間は確かにフラストレーションが溜ったけど、今は全てが報われた気分だ!」バトンは最終戦アブダビGPで3位となり、結果的に第12戦ベルギーGPでのリタイヤ以外、全戦入賞を果たしてのタイトル獲得となった。しかし、バトンの初タイトル獲得はブラウンGP・BGP001・メルセデスの性能によるところが大きいと、シーズン中盤の低迷のイメージも含め、決してその功績を讃えるものばかりではなかった。
’10年、当初はブラウンGP残留に向けて交渉を行っていたバトンだったが、チームがメルセデスによる買収を受け、シューマッハーの復帰が噂され始めると、バトンはなんと自らマクラーレンへの移籍を決めたのである。しかしマクラーレンはそのメルセデスとのワークス契約を解消、しかもチームには絶対的エースである同じ英国人、ハミルトンがいる。バトンの決断は多くの関係者から無謀であると揶揄され、この移籍は失敗に終ると思われた。「僕には新しい挑戦が必要だったんだ。それに、昨年僕は序盤にバック・マーカーだったマクラーレンがシーズン終盤にはトップ・ランナーになったところをこの眼で見ている。だから彼らを信じるよ」シーズンが開幕すると、バトンの予想は当たり、マクラーレンは戦闘力の高いパッケージでメルセデスGPを寄せ付けず、バトンは4戦を終えた時点で2勝(第2戦オーストラリアGP/第4戦中国GP)を挙げ、堂々のランキング首位に立っていたのである。続くモナコGPではチームのミスでリタイヤを喫するが、今季ここまでモナコ以外の全てのレースに入賞し、現在もランキング2位。レッドブルがチーム・メイト同士の内紛に大わらわなのを尻目に、ある意味ダーク・ホースとも言えるマクラーレン勢がトップに立っている、というわけなのである。「彼らの同士討ちは僕達にとっては大きなチャンスだ。ルイスと僕は最高に上手くやれているし、チームもそういったことには慣れている。それに、選手権を制覇したドライバーが翌年も連覇出来る可能性は僅か30パーセント。そして僕は昨年証明したように、オッズを覆すのが得意なんだ(笑)」このままレッドブルが自滅すれば、今季がバトンとハミルトンのマクラーレン・コンビによる”フェアな”選手権争いとなる可能性もあるのである。
「ひとつのタイトル獲得は始まりに過ぎないんだ」バトンは振り返る。「僕の夢はF1世界チャンピオンとモナコGP優勝だった。それを昨年成し遂げたけど、今はそれを他人に渡したくないという想いが強い(笑)。30歳になって、ようやく全てが正しい方向に向かっている気がするんだ。だから、マクラーレン移籍は復讐や誰かの間違いを証明することではなくて、あくまでも自分自身が決めた道なんだよ」そう、バトンは未だ30歳である。若くしてのF1デビューと9年間の不遇の時代のせいで超ベテランのように見られるが、実際には脂ののったアスリートであると言える。
我が日本に於けるバトンのイメージは、やはり第三期ホンダの初優勝立役者、そして日本人のGFを持つF1ドライバーとして人気も高く、そのルックスも含めて好意的に受け止められている。特に’06年第13戦ハンガリーGPでの勝利と昨年開幕戦での勝利は日本のファンから見ても特別な勝利である。しかしそれはF1ドライバーとしてのキャリアの前半/半分をほぼ棒に振ったように感じられる。かつてホンダのスタッフは「ジェンソンはあまり調子の良くないマシンでも上手く乗りこなす。が、それ故にマシンの何処を改善すべきかが見えて来ない」とこぼしていた。F3から一気にF1に上がって来たバトンにとって、マシン・セッティングやチームとのブリーフィングはあまり重要なものではなく、むしろ自分のドライビングが全て、という印象があった。「今思えば、僕の転機は’02年だった。多くのことを犠牲にして、本当に速く走るためにどうすれば良いのかを考え始めた。逆にそれまでは人生をエンジョイすることに傾倒し過ぎていたかも知れない」プレイボーイだったバトンは’05年、婚約者のルイーズ・グリフィスと挙式3ヶ月前に別離。昨年までグランプリに伴っていた日本のモデル・道端ジェシカとも、一時は婚約の噂もあったが今は微妙な関係のようである。「僕はあまりにも長くレースのことを考えている。トラックを離れるとリラックス出来なくなってしまったんだ」バトンは20歳代を通じて変わった。そして、それは世界王者という最高のご褒美となって彼の元に転がり込んだのである。
昨シーズン中、バトンのタイトル獲得に関しては多くの意見/見方があった。その中のいくつかは、果たしてバトン自身が世界チャンピオンに相応しいドライバーか、というものでもあった。何故なら、確かにバトンは’06年第13戦ハンガリーGPで勝利を挙げているF1ドライバーでありながらも、このレースでも序盤から中盤にかけてのトップ集団の脱落に乗じた”ラッキーな勝利”という考え方が成立した。そして、バトン自身、’09年以前に例えばフェラーリ、例えばマクラーレン、といった完全な常勝トップ・チームへの移籍を模索するような経緯がなく、低迷したホンダのF1撤退で一見勝利の可能性が全くなくなったかに見えた新興チームであるブラウンGPでの突然の快進撃に、あまりにも”マシンのおかげの勝利”というレッテルを貼られてしまうのである。更にシーズン序盤に7戦6勝を挙げながらも途中からスランプに陥り、全く表彰台に立たなくなってしまう。同時期にチーム・メイトのバリチェロが快進撃を開始したあたりの流れから、バトンには”運が尽きた”というイメージが付きまとう。更に、最終的に追い上げて来たライバル、チーム・メイトやレッドブル勢に対しても太刀打ち出来ず、結果的には前半の貯金をどうにか守り切った形でのタイトル獲得、となった感は否めない。
しかし、昨年学んだ”タイトルの掴み方”を、’10年の今まさにバトンは踏襲してみせているとも言える。チャンスを逃さないクレバーな走りと冷静なタイヤ戦術。ただ闇雲に悪コンディションのマシンを振り回していた若い頃とは違う技を身につけ、バトンは完全に成長した姿を見せてくれているのである。そして現状、今季のチャンピオンが誰になるのかを予想するのは極めて難しい。これは昨年とは全く逆の状況である。が、その状況の中に今年もバトンがいる、というのは多くの関係者の予想同様、少々意外なことと言える。が、それは紛うことなきバトンの”成長の証し”なのである。
「当初、僕にとってはチームのエンジニアとブリーフィングをしたり、オフにフィットネスをしたりというのは面倒なことだったんだ。それが今は完全に生活の一部になってる。身も心もようやくF1ドライバーになれたってことなんじゃないかな」6月、バトンはエリザベス女王から大英帝国勲章第5位/MBEを授与された。もう、英国のプレイ・ボーイなんかじゃない。大英帝国を代表する立派なF1世界王者のひとりである。しかし、バトンの最も手強いライバルはチーム・メイトである。内紛に揺れるレッドブルを尻目に、ハミルトンと”今は友好的に”チームを盛り上げるバトンが今後どういった闘い方をするのか、が最大の焦点と言えるだろう。
「僕の自伝映画を作るなら、ジョニー・デップに演じて欲しいね!」/ジェンソン・バトン