『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。
[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。
[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己
英雄の憂鬱
…..それは王者にあるまじき行為だった。’10年最終戦アブダビGP、このレースで3度目のドライバーズ・タイトルを獲得出来た筈のフェルナンド・アロンソは、自分がレース全般に於いて抜けなかった目前の敵/6位でフィニッシュしたルノーのルーキー・ドライバー、ヴィタリー・ペトロフに対し、パレード・ラップ中に拳を振り上げて抗議したのである。それは、逆転で初めてのタイトルを手にしたレッドブルの若き天才、セバスチャン・ヴェッテルの喜びに満ちたガッツ・ポーズとはあまりにも対照的なものとなって、全世界にTV放映された。「もしも僕が彼の立場だったら確かに怒ったかも知れない。でもそれは間違った戦略を選んだ自分とチームに対して、だけどね!」ペトロフは堂々と、自らの翌年のシート確約に向けて良いレースをしたという確信に満ちた表情をしていた。反対にアロンソは明らかにイライラしていた。…..名門フェラーリでの初年度、アロンソは最後の1戦で”敗者”となったのである。
…..フェルナンド・アロンソ。’10年、念願の名門フェラーリを果たし、久しぶりにタイトル争いの場へと返り咲いたスペインの英雄である。が、最終戦でランキング首位にいたアロンソと彼のチームはとてつもなく初歩的な戦略ミスを犯し、同じく選手権2番手のマーク・ウェバー(レッドブル)と主に後方に沈み、ランキング3番手のヴェッテルに易々と逆転王座を献上してしまった。終ってみればどうにもチグハグなシーズンを終え、当初彼ら(アロンソ+フェラーリ)は元王者として最強の組み合わせに思えていた。が、結果的に昨年王者となったヴェッテル+レッドブルは、これまでとは違うポイント・システムを最大限に活用し、新王者となった。そしてその裏には、絶対的No.1ドライバーと王道の戦略を採った名門チームの、戦略の”古さ”が浮き彫りになってしまった。
アロンソの時代はもう終ったのか?。現役最強ドライバーと言われ、鳴りもの入りでフェラーリ入りを果たしたスペインの英雄は、再び輝くことが出来るのか?。
フェルナンド・アロンソは1981年7月29日、スペインの北部の工業都市、アストゥリアス州オビエドにて、炭坑夫の父とパート主婦、というオビエドでは極めて一般的な家庭に誕生。父ホセ・ルイス・アロンソは自らがアマチュアのカート・レーサーであったことから、自分の子供達にもレースを楽しんで貰いたいと、まず8歳の長女ロレーナにカートを買い与えたが全く興味を示さず、ほどなくカートは当時3歳の弟、フェルナンドのものとなったのだという。そしてカートに夢中になったアロンソは’88年にカート・アストゥリアス・選手権にデビュー、7戦に勝利してタイトルを獲得してみせた。幼いアロンソのアイドルはアイルトン・セナだったと言う。「我が家は決して裕福な家庭じゃなかったけど、父がメカニックとしてレースをサポートしてくれたおかげで、徐々にスポンサーが付いて行ったんだ」’91年にスペイン・ナショナル・シリーズに参戦、’93年、12歳のアロンソは遂にスペイン・ジュニア・カート王者となり、このタイトルを以後4年間守り続け、無敵の新人レーサーとして注目を浴びる。’96年にはカート世界選手権を制覇、’97、’98年とスペイン/イタリアでインターAのタイトルも獲得した。
この若き王者の活躍に注目したのが、同国出身の元F1ドライバー、エイドリアン・カンポスであった。カンポスは自らのチームにアロンソを招き、3日間のフォーミュラ・ニッサンのテスト走行を担当させた。この際、自身初のフォーミュラカー・ドライヴとなったアロンソはアルバセテ・サーキットで数日前に行われたレースのポール・ポジション・タイムに匹敵する好タイムを記録。これによりアロンソは翌’99年、カンポスのチームからユーロ・オープン・モビスター・バイ・ニッサンに参戦し、デビュー戦優勝という鮮烈なスタートを切り、楽々とタイトルを獲得してみせた。
…..このスペイン出身の若きスターの活躍に眼をつけた者がもうひとりいた。フラビオ・ブリアトーレ。ベネトンF1チームのマネージャーを経て、ミハエル・シューマッハーを擁してタイトルを獲得した有能なビジネスマンであるブリアトーレが早くもアロンソを傘下に置き、この年のF1ミナルディ・チームのテスト・ドライヴの機会を設ける。ここでも他の新人を寄せ付けない速さを見せたアロンソは’00年の国際F3000選手権参戦(ランキング4位)を経て、’01年、ブリアトーレのマネージメント下/ルノーの契約ドライバーとしてミナルディからF1デビューを飾る。19歳と217日は、史上3番目の若きF1デビューとなった。しかし実はブリアトーレはアロンソに経験を積ませるため、敢えて弱小チームであるミナルディからのデビューをセッティングし、翌’02年、今度はルノーのテスト・ドライバーとしてトップ・チームとの仕事のやり方を学ばせたのである。「もちろんその頃はレースに出たくてウズウズしていたけれど、今振り返れば良い経験を積むことが出来たと思えるよ」’03年、アロンソはチームを解雇されたジェンソン・バトンの後任としてルノーのレギュラー・シートを獲得、遂にトップ・チームからのF1参戦となった。
若き才能の開花はあっと言う間に訪れた。第2戦マレーシアGPで自身初のポール・ポジション獲得。21歳236日でのP.P.獲得はF1最年少記録となり、翌日の決勝では3位に入賞して初表彰台、これも21歳237日での達成は最年少記録であり、同時にスペイン人F1ドライバーとして初の表彰台獲得でもあった。第5戦地元スペインGPは故郷・オビエドの青いフラッグがグランド・スタンドを埋め尽くす中、絶好調のフェラーリ勢に割って入る2位フィニッシュ。波に乗るアロンソは第13戦ハンガリーGPで自身2度目のポール・ポジションを獲得。決勝でもスタートからグイグイと2位ウェバー(ジャガー)との差を広げて行き、10周目には既に17秒差。最終的にはチーム・メイトであるベテランのヤルノ・トゥルーリまでも周回遅れにする圧倒的速さで初優勝。これはワークス・ルノーとして20年振り、自身も22歳と26日でのF1初勝利で、続々と最年少記録を塗り替えて行った。この実質的なF1デビュー・イヤーをアロンソは1勝/55点獲得/シーズン6位で締めくくった。
翌’04年は開幕から常勝フェラーリ勢が圧倒的な速さを見せ、アロンソは無勝/ランキング4位に留まる。そして迎えた’05年、経験を積んだスペインの若き英雄は遂に王者フェラーリ、そして7度の世界タイトルを獲得した皇帝・シューマッハーへ挑む時を迎えた。
’05年、ルノーが打倒フェラーリのために制作したニュー・マシンR25は開幕から戦闘力を発揮、開幕戦こそチーム・メイトのジャンカルロ・フィジケラの後塵を拝するが第2戦マレーシアで自身2勝目を挙げるとそこから破竹の3連勝。第10戦フランスGPでは地元ルノーに22年振りの勝利を齎した。序盤でフェラーリ撃墜に成功したルノー陣営はシーズン中盤からマクラーレン・メルセデスの若きエース、キミ・ライコネンが追い上げるが、最終的にライコネンと同じ7勝で逃げ切った。「素晴らしい。人生を通じ、願っていたことが叶った瞬間だ。僕はこれが欲しかったのさ!」スペイン初のF1世界王者は24歳58日での史上最年少F1王座獲得であり、これはブラジルの雄エマーソン・フィッティパルディの25歳273日を33年振りに塗り替える記録ともなった。
翌’06年、アロンソ/ルノーはシーズン序盤に前年の好調さを維持し、後半にシューマッハー/フェラーリの猛対を受けるもこれを寄せ付けず、見事に2年連続王者に輝く。これにより、アロンソは現役として最強時代のシューマッハーと直接対峙し、打ち破ったことで名実共にF1の若き英雄となったのである。
…..’07年、アロンソは満を持して好調のもうひとつの最強ワークス、マクラーレン・メルセデスへと移籍する。チーム・メイトはファン・パブロ・モントーヤのNASCAR移籍、ライコネンのフェラーリ移籍でデビューが決まった、マクラーレンの秘蔵っ子でこの年F1デビューとなるイギリスのルイス・ハミルトン。つまり、2年連続王者アロンソは新人を相手に、マクラーレン・メルセデスの新たなエース・ドライバーとしてチームに迎え入れられる、ということになる…..筈だった。
開幕戦オーストラリアGPをフェラーリのライコネンが制し、続く第2戦マレーシアでアロンソはマクラーレン移籍初勝利を挙げる。第3戦バーレーン、第4戦スペインをライコネンの同僚フェリペ・マッサが制し、ライバル・チームの星が割れる中、第5戦モナコをポール・トゥ・ウィンで制したアロンソはマクラーレンのエースとしてタイトル争いをリードする。ところが、ここまで未勝利ながらもデビュー以来全戦で表彰台に上がった新人ハミルトンが得点上アロンソと並び、第6戦カナダで自身初優勝、続く第7戦アメリカGPも制してドライバーズ・ランキングのトップに躍り出る。
アロンソは困惑し始めていた。確かに、ハミルトンはマクラーレンの総帥、ロン・デニスの秘蔵っ子として英才教育を受け、満を持してF1デビューを迎えた、マクラーレンの地元である英国人である。そして、マクラーレンは伝統的に”ジョイントNo.1″を唱うチームである。しかし、アロンソの常識の中では、どう考えても2年連続、それも皇帝・シューマッハーを倒して世界王者となり、カーNo.1を纏う自分こそがマクラーレンのエース・ドライバーな筈である。それが、どうもチーム全体のムードを自分へと向けることが難しい。これは、ルノー時代には有り得ないことだった。焦ったアロンソは、第11戦ハンガリーGP予選でハミルトンのアタックを妨害するという、不必要なミスを犯す。これによりチーム内での信頼をも失ったアロンソは、結局最終戦まで縺れたタイトル争いに僅か1ポイント差でライコネンに敗れてしまった。更にマクラーレンとフェラーリを巡る”スパイゲート事件”に於いて、マクラーレン側に不利な証拠となるEメールの存在を公開したことでデニスと対立。居場所を失ったアロンソは3年契約だったマクラーレンを僅か1年で去ることとなってしまった。
’08年、アロンソは”やむなく”、古巣ルノーへと復帰。しかしそこは既にアロンソに2年連続王座を齎したトップ・チームではなく、低迷する中堅でしかなかった。アロンソは走らぬマシンと格闘しながらも徐々に成績を挙げ、シーズン終盤第15戦シンガポールGPでシーズン初勝利。ところが後になってこのレースはアロンソを勝たせるためにブリアトーレとルノーのディレクター、パット・シモンズが企てた、アロンソのピット作業直後にチーム・メイト(ネルソン・ピケJr)を故意にクラッシュさせてセーフティ・カー導入のきっかけを作り、ピット作業を強いられるライバルを出し抜く、という所謂”クラッシュ・ゲート“によるものだったことが発覚。しかし、本人はこの勝利で波に乗り、続く第16戦鈴鹿を連覇。’09年は未勝利に終るが、アロンソは既に自らのキャリアを修正し、最高の舞台へ上がるべく準備を行っていた。10月1日、アロンソ、フェラーリ入り発表。そこには、アロンソが最も欲しかったもの、つまり揺るぎない”絶対的エース・ドライバー”としての待遇が約束されていたのである。
そして迎えた’10年シーズン。遂に栄光の跳馬のエース・ドライバーとなったアロンソは開幕戦バーレーンGPを制覇。グリッド上で決してベストなマシンではないにも関わらず、チーム5年目となるチーム・メイトのマッサを寄せ付けず、タイトル争いに加わってみせた。が、’08年第15戦シンガポールの”クラッシュ・ゲート事件”で付いたイメージを更に強くする事件が起きた。第11戦ドイツGP。ポール・ポジションのヴェッテル(レッドブル・ルノー)と予選2番手のアロンソのコーナー争いの隙を付き、予選3位のマッサがトップに躍り出てフェラーリ1-2態勢へ。レース中盤、マッサのペースが上がらなくなり、3位ヴェッテルがアロンソに肉迫する。アロンソは無線でピットに「バカげている!」と抗議。ドライバーズ・タイトルを争う自分がマッサの後でフィニッシュすることを受け入れられないとチームに訴えた。
そして48周目、トップを走るマッサの無線に担当エンジニア、ロブ・スメドレイからの声が飛ぶ。「フェルナンドは君より速い。言ってる意味、解るよね?」マッサは無言だった。翌49周目、マッサはターン6の立ち上がりでアクセル・ペダルを緩め、露骨にアロンソにトップを譲った。そしてスメドレイから「ありがとう。すまない」との返事が世界中に流れたのである。アロンソはトップでチェッカーを受けたあと、無線で「フェリペはいったいどうしたんだ?、何かあったのか」とチームに問いかけた。返事は「いや、大丈夫だ。その件に関してはあとで話すよ」と意味深なものだった。
チーム間で順位をコントロールするのはモータースポーツと言えども作戦上当然のことである。が、レース中にチームの指示でそれが行われるのは、ドライバーズ選手権でもある以上スポーツマン・シップ的に適切でないとされ、国際スポーティング・コード第39条に”チーム・オーダー禁止”という条例が設けられていた。フェラーリはこれに違反したのである。が、レース・スチュワードとFIAはフェラーリに10万ドル(約900万円)の罰金を課したが、順位はそのままとなった。つまり、アロンソは’10年、ひとつは確実に勝利を”譲り受けた”のである。
最終戦アブダビGP。ポール・ポジション・スタートのヴェッテルが勝っても自身4位、予選で自分より後方だったレッドブルのウェバーが勝っても自身2位でタイトル獲得、というポジションにいるアロンソが、どう考えてもタイトル獲得の可能性が最も高い位置にいた。そして、冒頭に記した通り、アロンソは伏兵となったルノーの新人ドライバーを抜きあぐね、王座争いに敗れた。そしてあろうことか、パレード・ラップ中にその新人ドライバーに拳を振り上げたのである。
9年間で出走160戦、ドライバーズ選手権製制覇2回、優勝26回、ポール・ポジション獲得20回、最速ラップ18回、ポール・トゥ・ウィン13回、通算獲得ポイント829点。シューマッハー/フェラーリの栄光時代に、実力で王座を奪い取った若きスペインの英雄、それがフェルナンド・アロンソのイメージである。
意外にもアロンソは自らのドライヴィング・スタイルを評して、安定感に優れているのだと言う。「僕は決して最速でも最強でもないよ。ただ、安定感があるんだ」母国スペインに於いて、スペイン人初のF1ウィナー/ワールド・チャンピオンであるアロンソの人気は凄まじい。元よりレース好きの国民性も手伝い、アロンソの登場でF1人気も上がり、熱狂的なアロンソ・ファンによる”アロンソ・マニア”が存在し、オビエドの青い横断幕を掲げてアロンソを応援する。’05年に初タイトルを獲得した際、地元オビエドでは全人口20万人の内1/4にあたる5万人が広場に集まって大騒ぎとなった。またアロンソはスペインの王太子賞を史上最年少で受賞、正にスペインでは”国民的英雄”と呼ぶに相応しい存在である。
…..その英雄が時折見せる素顔。彼は明らかにイライラしている。
“クラッシュ・ゲート事件”の舞台となった’08年第15戦シンガポールGP。低迷するシーズンに於いて何故か絶好調のアロンソは予選Q1で6番手のタイムを余裕で記録、市街地/F1初のナイト・レースで、アロンソと彼の担当エンジニアは明らかに適切なセット・アップを見つけ出しており、決勝レースでの好成績が期待されていた。が、Q2開始直後に燃料系のトラブルでストップ、不本意な予選15位となったアロンソはマシンを降りるや天を仰ぎ、悔しさを全身でアピール、ピットへ帰ってからも怒り心頭でメカニック達に当たり散らした。もしかしたらシーズン初優勝も可能だったかも知れないこのチャンス、結局ルノーの首脳陣はあってはならない作戦を模索し、そして事件は起きてしまった。
’10年第10戦ドイツGPも同様である。絶妙なスタートで先行するマッサに抑え込まれ、チームに無線で「こんなのバカげてる!」と抗議、最終的にマッサに先頭を譲らせて勝利した。最終戦アブダビGPでは自分が抜きあぐねたルノーのペトロフに拳を振り上げて「オマエのせいでタイトルを逃した」と言わんばかりのアピールを行った。もちろんペトロフはアロンソと同一周回でポイントを争っており、文句を言われる筋合いは全くない。ただ単に、彼らはアロンソの”予定”を狂わせるものだっただけなのである。
こうした行動から見え隠れするもの…..それは、アロンソの性格に潜む”自己中心主義”である。もちろん言い方を変えれば、それは世界最高峰カテゴリーのエース・ドライバーに、そしてワールド・チャンピオンに必要不可欠なものである。ただし逆の見方をすれば、アロンソのそれは相当に極端でもあり、例えばレース中のオンボード・カメラに映し出される”前方のバック・マーカーに進路を譲れと抗議する”回数だけでも相当に多く、ヴェッテルやハミルトンなどはそれが悪質なブロックでない限りは滅多に行わないが、アロンソは相手が見えて来た時点で既に手を振って進路を確保しようとする。しかもそれが’10年最終戦のように同一周回で順位を争う相手にまで及ぶとなると、これは相当な”オレ様主義”と言わざるを得ない。が、F1の、それもフェラーリのエース・ドライバーとして考えれば当然のことかも知れず、ある意味同じことを行って一時代を築いたシューマッハーの後継者、としては相応しいと言える。
その”オレ様”アロンソの立場が最も揺らいだのが前述のマクラーレン時代である。アロンソはキャリアで初めて”手強い相手”(敵わない相手、ではない)に遭遇した。ハミルトンは確かにマクラーレンの”秘蔵っ子”だったが、決してチームに贔屓されていたわけではない。チームは伝統に則り”ジョイントNo.1″を掲げただけなのである。ところがアロンソはこれに不信感を持ち、不用意にもマスコミにアピールすることで発散しようとし、過剰反応したスペイン国民13万人(!)がチームに嘆願書を提出したり、ハミルトンに対する人種差別行動などに発展してしまった。ちなみにアロンソが’07年のマクラーレンを「僕のおかげでコンマ5秒速くなった筈」と発言した際、ハミルトンから「これは大勢のスタッフがいてのチーム・プレイ。誰かひとりのおかげなんてとんでもない」と反論されている。こうした経緯により、アロンソはこのままマクラーレンに留まることで自身が”ヒール(悪役)”とイメージされるのを恐れたこともあり、王者マクラーレンとの3年契約を1年で破棄する事態に至ったのである。
アロンソは2度の世界王座を獲得すると共に、2度に渡って獲れた筈のタイトルを逃している。1度はマクラーレン時代、最強マシンを手にしながら、ハミルトンと星の奪い合いとなってフェラーリのライコネンにたった1点差で敗れた’07年。もう1度は点数計算に気を取られたあまり、純粋に勝ちを狙ったヴェッテルに負けたフェラーリ初年度の’10年。いずれもトップ・チーム加入1年目であり、どちらも逆転負けである。これにより、アロンソのイメージは駆け引きが得意というよりも、がむしゃらに走った際の圧倒的強さが際立つ。ところが、意外にもプライベートでのアロンソには”カード・ゲーム/マジック好き”という一面があり、ヘルメットのデザインにも用いられているほどで、中でもポーカーがお気に入りのようである。F1のパドックでも多くのドライバー仲間や関係者を招いてポーカー大会を行うほどで、こうした部分にアロンソの”駆け引き”に対する並々ならぬ興味が見え隠れする。しかし、特にスペインのマスコミにとってはこの世界的英雄と、妻であるスペインの人気ロック・グループのリード・シンガー、ラケル・デル・ロサリオとのプライベートは格好の標的となり、常にパパラッチとの攻防が繰り広げられている。
…..アロンソの2010年の”負け方”はこれ以上なく酷いものだった。トップ・レベルとは言い難いマシン性能、後手後手に回ってしまうレース戦略、そしてライバル達の底力。しかし、伝統の跳馬を背負う英雄・アロンソは鬼門の”トップ・チームでの1年目”を終え、いよいよ攻撃態勢を整えて来る。明らかにマッサをセカンド・ドライバーに落として自らが名実共にフェラーリの真のエースとなり、フェラーリ自体も得意のKERSが復活する2011年。もはやアロンソに死角はない。スペインが誇る英雄は、今年こそ天下を獲りに来る筈だ。
「フェラーリがキャリア最後のチームだ」/フェルナンド・アロンソ
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複雑な人物名や関係、経緯などを初心者向きに目線を下げ、それでも伝統の”no race, no life”の名に恥じないよう、オレ流の”バリアの外側目線”で最新情報をバッサリ切って行きます。どうぞお楽しみ下さい!。
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