F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集

F1/モータースポーツ深堀サイト:山口正己責任編集 F1 STINGER 【スティンガー】 > スクーデリア・一方通行 加瀬竜哉 >  > 2009年7月3日  タラレバ伝説vol.02

スクーデリア・一方通行/加瀬竜哉

謹んでご報告申し上げます。
『スクーデリア一方通行』の筆者である加瀬竜哉/本名加瀬龍哉さんが急逝されました。長い闘病生活を送りながら外には一切知らせず、“いつかガンを克服したことを自慢するんだ”と家族や関係者に語っていたとのことですが、2012年1月24日、音楽プロデュサーとして作業中に倒れ、帰らぬ人となりました。

[STINGER-VILLAGE]では、加瀬さんのなみなみならぬレースへの思いを継承し、より多くの方に加瀬さんの愛したF1を中心とするモーターレーシングを深く知っていただくために、“スクイチ”を永久保存とさせていただきました。

[STINGER-VILLAGE]村長 山口正己

タラレバ伝説vol.02

接戦の末にタイトル決定、ってのはシーズン最終戦まで眼が離せなくてヒジョーに楽しい。そりゃ、早々と独走でチャンピオンが決まっちゃうのも凄いけど、その後のレースが”消化試合”になっちゃうのはカンベン。出来れば最後までライバル同士が凌ぎを削るバトルを魅せて頂きたいモノ。
…..で、そんなタイトル決戦、最終的にはポイント差で争うために、”勝った方がチャンピオン”とは行かないこともある。同点だったらまだしも、自分が勝って相手がリタイアしかないとか、相手が4位なら自分は3位以上じゃなきゃ、とか、レース中に常に計算し続けなくてはならなかったりする。
’08年最終戦・ブラジルGP。F1史上最年少王者、ルイス・ハミルトン(マクラーレン・メルセデス)誕生。1点差で選手権に負けたのはこのレースの勝者、フェリペ・マッサ(フェラーリ)であった。が、最終ラップのチェッカー目前まで、観衆はマッサのタイトル獲得を信じていた。少なくとも、1台のマシンがスロー・ダウンする直前までは…..。

・もしも’08年最終戦でグロックがウェット・タイヤに交換していたら

最終戦を前に、F1ドライバー2年目のルイス・ハミルトン(マクラーレン・メルセデス/94点)は、選手権上のライバルであるフェリペ・マッサ(フェラーリ/87点)が優勝しても、自らが5位/4点でレースを終えれば初のタイトル獲得、という状況にいた。もしもハミルトンが6位/3点で同点となると、優勝回数(ここまで共に5勝)でマッサにタイトルが転がり込む。マクラーレンは完全に”レースに負けてタイトル争いに勝つ”、つまりハミルトンには堅実に5位以内のフィニッシュを目指させる作戦を取る。反対に、ハミルトンの順位がどうであれ勝つしかないマッサはポール・ポジションからがむしゃらにトップを快走。
レース終盤、インテルラゴス・サーキットに雨が落ち始める。残り10周、トップはマッサ、予選4番手のハミルトンは5位。つまり、そのままの順位でフィニッシュすればハミルトンがチャンピオン。各車ほぼ同時にウェット・タイヤへの交換のためピット・イン。残り2周となったところでセバスチャン・ヴェッテル(トロ・ロッソ・フェラーリ)がハミルトンをオーバー・テイクし、ハミルトンは6位に落ちる。マッサの地元・インテルラゴスの観客は熱狂。ハミルトンは懸命にヴェッテルを追うが届かない。
が、ファイナル・ラップの最終コーナー手前でドライ・タイヤでコースに留まることを選択していた4位ティモ・グロック(トヨタ)がヴェッテルとハミルトンに”簡単に”オーバー・テイクされ、結局ハミルトンは5位フィニッシュで初の世界王者となり、レースに勝ったマッサは1点差で初タイトルを逃した。

TVで大写しになったマッサ家の人々の驚喜〜落胆振りは語り草となり、この僅差のタイトル争いを図らずも”演出”してしまったグロックのブラジルでの身の危険度合いも心配されたほど、この最終ラップは重要な場面だったわけだが、あろうことか「グロックは故意に道を譲った/ハミルトンに協力したのではないか」という声まで出始めてしまった。グロックの最終ラップのスロー・ダウンがあまりにも急激だったために、その行為が疑われてしまったのである。しかし、実際にドライ・タイヤで走っている側にすれば「急に雨が強くなった」ためにペースを落とさなければコース・アウト必至、という状況。にも関わらず「最終ラップで順位がかかっているのだからバトルするべきだった」という声まで出た。
では、もしもグロック/トヨタ勢が他チーム同様のタイミングでウェット・タイヤへ交換していたら、順位/選手権はどうだったのか。

残り6周、トラックに雨が落ち始めた時点でグロックは7番手、チーム・メイトのヤルノ・トゥルーリは8番手を走行していた。前走車が全てピット・インした後、グロックはハミルトン、ヴェッテル、そしてマクラーレンのヘイキ・コバライネンの前に出て4番手となった。トヨタは雨量/残り周回数/位置関係を考え、ふたりのドライバーにピットに入らず、そのままコース上にとどまるよう指示した。この作戦は成功に思えたが、突然雨足が強くなった最終ラップ、グロックのラップ・タイムは一気に20秒近くも落ち、特に高速コーナーの続く最終区間では完全なスロー走行となってしまう。
その頃ハミルトンは既にヴェッテルにコース上で抜かれ、6番手に落ちていた。マッサの方は既にフィニッシュ・ラインを通過しており、優勝/10ポイントが確定。このままならマッサの逆転王座となる。が、マクラーレン側は冷静に「4位グロックのペースが極端に落ちている。彼を抜けば5位でチャンピオン獲得だ」とハミルトンに無線で連絡。ヴェッテルとハミルトンは最終コーナー手前でスロー走行中のグロックを抜き、4位/5位でフィニッシュ、グロックは続く6位でチェッカーを受けた。結果的にグロックはピットに入らなかったことで、7位コバライネンの前でフィニッシュ出来たことは間違いない。
「雨が強くなるのがあと10秒後だったら、僕達の作戦は大成功だった。でも、結果的にひとつ上のポジションでフィニッシュ出来たんだから成功と言える」
グロックのこのコメントに偽りはないし、全くの事実である。トゥルーリも8位でフィニッシュし、トヨタは結果的にW入賞でシーズンを終えたが、もしも他車同様のタイヤ交換を行っていたらグロックは7位以下、トゥルーリはマーク・ウェバー(レッド・ブル)に抜かれてポイント圏外だったかも知れない。どう考えてもチームの戦略自体は正しく、突然の雨量変化を読むギャンブルとしては成功である。つまり、グロックが他車同様ピット・インで順位を下げていたとしても、ハミルトンの順位は代わらない。むしろ、ヴェッテルにオーバー・テイクされた際の”危機感”も少なく、ハミルトンがそのまま初のワールド・チャンピオンを獲得した筈なのである。
また、興味深いのがヴェッテルのコメントである。「僕等は僕等のレースをしに来ているのであって、そこにどんな色のマシンがどんな争いをしていたとしても自分のレースをするだけさ。例えそれがチャンピオン・シップを左右するとしてもね」確かに彼のトロ・ロッソに搭載されているのはマッサと同じフェラーリ・エンジンである。が、翌年レッド・ブル・ルノーへ移籍することが決まっていたヴェッテルにとって、このコンディションの中でマッサに協力する、という発想は無理がある。史上最年少優勝を成し遂げたばかりの彼の仕事は、眼の前のマシンをブチ抜くこと、それだけである。
もっとも、一般論の妙ではあるがタイトル獲得・安全圏の5位走行中のハミルトンをブチ抜いた張本人のヴェッテルに対し、非難の声は聞かれない。何故かグロックにだけ矛先が向けられてしまったのだ。「最後に左右から数台のマシンに抜かれたが、僕にはもうどうすることも出来なかった。それが誰なのかも解らないし、自分がコース上にとどまるのに精一杯だったんだ。フェリペには申し訳ないが、最終的にポイント・フィニッシュ出来て良かったよ」コース・コンディションのみならず、無線も視界も混乱する中、無事マシンをフィニッシュ・ラインへと導いたグロックには賞賛が値する筈だ。なのに、これはチームぐるみの順位/選手権操作だ、という声が聞かれた。

F1世界選手権の歴史上、”順位操作”は決して珍しいことではない。特に黎明期の’50年代には、エース・ドライバーの勝利のために、例えレース中でもチーム・メイトが自分のマシンを提供し、自らはリタイアするようなことが珍しくなかった。’70年代はトップ・チームでのエースとセカンドの役割がハッキリしており、エースがリタイアするまでセカンド・ドライバーには優勝するチャンスが与えられないのが常識だった。それが’80年代に入るとスポーツマン・シップ的な問題として考えられるようになる。大きなきっかけとなったのは、フェラーリの看板スター同士だったジル・ヴィルヌーヴとディディエ・ピローニの、’82年サンマリノGPからベルギーGPの間の僅か2週間に起きた壮絶な”確執”にあると筆者は記憶している。セカンド・ドライバーが起こした”クーデター”による悲劇だった。
’90年代にはF1もスポーツ色が濃くなり、順位操作は”チーム・オーダー”という言葉で括られるようになって行く。特にフェラーリ/ミハエル・シューマッハーを巡ってはあからさまに問題視され、’02年オーストリアGPではトップ走行中のルーベンス・バリチェロが後方のシューマッハーに勝利を譲るようチームから無線で「脅された」と暴露。「もしも譲らなければ契約を見直す」…..確かにこれは”脅迫”に聞こえるが、問題はフェラーリとバリチェロの契約がどういうものだったのか、である。結局この件をきっかけに現在F!には”チーム・オーダー禁止令”が存在するため、少なくとも見た目上、露骨な順位入れ替えやチームからの指示などは”表向きには”禁止された。何故表向きかと言えば、スタート前にモーター・ホーム内で「こうなった場合はこうするように」とドライバーに指示し、それを何らかの暗号で実施してしまえば誰にも解らないからである。
競技自体の特性を語ればキリがないが、本来こうした事柄を”チーム・プレイ”で片付けることは可能である。野球で得点/勝利のために送りバントや犠牲フライを行うことを「スポーツマンらしくない」という人はいない筈である。サッカーのゴール・キーパーやフットボールのディフェンダーも、基本的には得点担当ではなく守備担当である。が、同じことがレースで起きると、何故か問題視されてしまう。

’97年最終戦ヨーロッパGPでは、勝利目前のデビッド・クルサード(マクラーレン・メルセデス)に対し、チームから2位走行中のミカ・ハッキネンに道を譲るよう無線が飛び、クルサードは「契約書にそんな条項はない」と返した(結局クルサードはハッキネンにトップを譲っている)。またこのレースには、別の疑惑が存在する。ジャック・ヴィルヌーヴ(ウイリアムズ・ルノー)とシューマッハー(フェラーリ)のタイトル争いは、最終戦ヘレスでの48周目の両者接触によりシューマッハーがリタイア、ヴィルヌーヴは足回りにダメージを受けながらもどうにかトップで走行を続ける。最終的に5位/2点取ればタイトル獲得、つまりヴィルヌーヴはチェッカーまでに4台に抜かれてもかまわない。この際、ウイリアムズ・チームからヴィルヌーヴに対し「後に2台のマクラーレンが迫っている。今シーズン、彼等は非常に協力的だった。繰り返す。彼等は我々に協力的だったんだ」という無線が飛んだ。結局最終ラップでハッキネンとクルサードに道を譲ったヴィルヌーヴは3位で初タイトルを獲得した。つまり、5位以上でフィニッシュすればタイトル決定となる手負いのヴィルヌーヴに、チームは1-2位を明け渡しても良い、という意味に取れる。が、この「彼等は協力的だった」の言葉の意味するところは何か。同じレーシング・コンストラクターとして、巨大メーカーであるフェラーリを倒すのに何かしらの密約や協力体制があったとしても不思議ではない。では果たして、ウイリアムズを勝たせるため、シーズン中にマクラーレンが意図的にフェラーリの妨害をしていたとでも言うのか。同じことを、マクラーレンの選手権制覇がかかっているシーズンにウイリアムズが行っていたのか。…..真実は闇の中だが、それがこうした形で明るみに出たのは異例のことだった。

…..話をグロックに戻そう。断っておくが、筆者はグロックの走行に順位操作があったとは思っていない。ただ、歴史上にこうした経緯があるからこそ、疑惑は浮上するもの。
レース後にグロックに向けられた疑惑を簡潔に言えば「グロック/トヨタは、ハミルトン/マクラーレンのタイトル獲得に故意に協力したのか」である。「グロックはハミルトンのタイトル獲得にいくら賭けたのか」と書き立てる新聞まであった。が、実際に天候変化で混乱するレースのファイナル・ラップで、ひとりのドライバーがトップでフィニッシュしたマシンと2台後方のマシンの位置関係と得点差を把握し、コントロールしながらスコールの中をドライ・タイヤで走ることなど不可能である。仮にピットから何か指示があったとすれば、それはFIAの記録によって証拠となってしまう。
結果的にタイトルを獲得したハミルトンはグロックに対し「邪魔をしないでくれて感謝しているよ」と笑いながらコメント。タイトル争いに敗れたフェラーリのルカ・モンテゼモーロ社長も史上最年少王者誕生を祝福。更に興味深いのは、マッサはこの件で熱狂的なブラジルの観客がグロックの身に危険を及ぼす可能性を考慮し、レース後に自分の弟に指示してグロックやトヨタのクルーに着替えを準備させている。
つまり、このドラマティックなファイナル・ラップに関し、当事者であるグランプリ関係者は誰ひとり、グロックが故意にハミルトンのタイトル獲得をサポートしたなどとは思っていないということである。

以前、’09年マレーシアGPでピット・インしたキミ・ライコネンが、まだ雨が降ってないのにレイン・タイヤを履いてコースへ戻った件について触れた。理由は当然”ライバルを出し抜こうと行ったギャンブル”であり、結果的には”大失敗”に終わった。しかし、シーズン/またはグランプリを通じ、そのままでは結果が芳しくないと思われる際に、ライバル同様の定石通りの作戦を繰り返していてはチャンスは訪れない。
ミハエル・シューマッハーは幾つかの雨絡みの伝説を残している。F1デビュー1周年となった’92年ベルギーGP(当時ベネトン・フォード)では、雨が止みかけた際にスピン、抜いて行ったチーム・メイトのマーティン・ブランドルのレイン・タイヤにブリスターが発生しているのを目視で確認、すぐにチームにドライ・タイヤを準備させ、ピット・イン。シーズンを余裕でリードしていたウイリアムズ・ルノーを出し抜き、自身初優勝。’95年ベルギーでは予選16位から小雨の中、ただひとりドライ・タイヤでスタートし、優勝。ただしこのレースは選手権上のライバルでもある2位のデイモン・ヒル(ウイリアムズ・ルノー)に対し「走行中に危険なブロックを行った」として、執行猶予付きのペナルティを受けている。
小雨の中でスピンした後、真っ先にドライ・タイヤに変える決断と、誰もドライを履いていない状況で、後方スタートの不利の中ドライを選ぶ決断。それは間違いなく”ギャンブル”である。前者の場合、もしもシューマッハ自身がタイヤをドライに代えなかったら彼は4位でレースを終えていた筈だった。”デビュー1周年の新人”には充分な数字である。が、彼はそれで満足しなかった。後者/予選16番手は、明らかに「このままじゃ勝てない」状況、つまり彼は後方スタートにも関わらず、がむしゃらに勝利を目指した結果、と言える。
もっとも、これは見方によっては”成功者のエピソード”でしかなく、歴史上、同じことを試みた多くのドライバー/レースの上に成り立っているに過ぎない。

…..なんか、書けば書くほどグロック/トヨタが悪者に見えて来ちゃうな(爆)。
真実は間違いなく逆である。グロックは当時置かれていた状況で順位操作など出来る筈もなく、ただ彼と彼のチームの「1ポイントでも多く」という”レーシング”を実行していたに過ぎない。そして彼自身の言葉通り、もしもドライ・タイヤへの変更のためピットへ入っていたなら、彼の順位はひとつ下の7位。そして元より先行していたヴェッテル/ハミルトンに追いつく筈もなく、史上最年少王者誕生という事実は変わらなかっただろう。
ただ、最終ラップでマクラーレンがハミルトンに対し「グロックのペースが極端に落ちている/彼を抜けばチャンピオン」と無線で言わなかったとしたら、焦ったハミルトンがヴェッテルを抜くために無理をし、無得点に終わった可能性はある。もしそうなっていたら…..少なくともTVに映ったマッサ家の人々の歓喜は、幻で終わらなかっただろう…..。

「多分、もうブラジルのファンは応援してくれないだろうね(笑)」@’08年ブラジルGPレース後/ティモ・グロック

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